9. マインドリーディング(エマ視点)
人の往来が疎らな小道を歩く、赤い髪の少女。たまにすれ違う人は、皆物珍しいそうに彼女の頭を見つめる。しかし、彼女はそんな事を一切気にせず、物思いに耽っていた。
(もう、転送先が変な場所だったせいで、危うく捕まりかけちゃったじゃない。どうにか逃げ切れたから良かったけど)
それにしても、昨日はとんだ厄日であった。あの男のせいで、当初立てていた予定が台無しだ。
本当なら、昨夜の内に人類は自分の手に落ちているはずだったのに。
(ま、さすがは魔王の娘、エマ・モルボーソス! 私に不可能なんてないわ!)
誇らしさのあまり、口元が緩んでいくのを抑えられないエマ。
自分もまだまだ捨てたものではない。
『エマよ。今回お前に任せるのは、ある人間の殺害。そして、現在の腐り切った思想に変革をもたらせ。無論、誰にも我々の存在を気づかれてはならぬぞ』
エマの父である魔王の言葉を思い出す。これこそ、彼女がセイレーン王国に侵入した理由だ。
(私にだって、そのくらい簡単にできるわよ! みんなの驚く顔が目に浮かぶわ!)
頭の中で、任務を達成した自分の姿を思い浮かべる。頭の片隅にあった、暗い想像を押し退けるようにして。
(でも、せっかく自由になれたんだし。そんな目的の前に、やらなくちゃいけないことがある!)
エマは強く拳を握る。
本来ならば、こんな任務を受ける気などさらさらなかった。だが、今回は自分で魔王に嘆願したのだ。彼女を突き動かしたのは、大きな野望のためだった。
(この清楚な人間たちの精神を、魔界に持ち込む! そして、あの腐り切った思想を徹底的に排除する!)
そう。
エマの住む魔界は、歪んだ精神が推奨される世界。口に出すのも憚れるような、危ない趣向を持った者しかいない。人間たちとは、真逆の思想を持っているのだ。
(全てはあの日ーー 第一図書館で見つけた、禁書を読んだ日から始まったの!)
それはエマがまだ小さな頃。
図書館で、普通なら閲覧禁止である、人間が書いたとされる"小説"をたまたま発見した。そこには、魔界では愚の骨頂と評される"純愛"模様が、生々しく書き記されていた。
彼女はその日から、純愛の虜になってしまったのだ。
(清楚が一番! 純愛が一番! 私が次の魔王になって、それをわからせてあげなくちゃ!)
彼女はそんな世界を嫌悪し、人間の思想に憧れを抱いていた。
(まずは人間共の生態観察からね)
エマは奥の方に見える巨大な城を目指すことにした。あの周辺なら、人の数も多いだろう。
『まさか、こんな簡単に見つけられるとは……』
突然、男の声が頭に響いてきた。
エマは軽く首を回し、さりげなく背後に目をやる。そこには、あの忌々しい男の姿が。
(出たわね…… 乳首に人間生やしてるヤバい奴)
昨日、自分の作戦を台無しにした人間だ。乳首に人間が生えているということは、特殊個体なのだろうか。
(あの時はよくも私に恥をかかせてくれたわね…… ! 低俗な人間のくせに、絶対に許さない…… !)
あんなに強い口調で怒鳴られたのは初めてだ。思い出すだけでも、また泣きそうになる。
『一体何をしているんだ? 何かを探している? くっ、人の目があっては、目立つ行動はできんな……』
エマは小さく笑った。
(ふんっ、バカな人間ね。自分の心が読まれているとは知らずに)
これこそエマが持つ特殊な魔法。心読みの力だ。
対象の考えている事を読み取ることができるのだ。強力な魔法だが、同時に読み取る事ができるのは一人まで。魔法の発動のためには、対象者と一定の距離内にいなければならない等々。不便な点も多い。
(ま、せいぜい私に有用な情報でも流してなさい。私はあんたなんかに興味ないわ)
『とりあえずこのまま後を付けてーー この乳首に生えてる毛を抜いてしまおう』
「…… んん!?」
エマは思わず体ごと振り返る。男は慌てて木の影に隠れた。
(ちょっ、何今の…… !? あの男、急に自分の乳首の毛の事を気にし始めたんだけど…… !?)
一体どんな思考回路をしているのだ。
『あ、危なかったーー 今の勢いで乳首毛を抜いたら、興奮のあまり死んでいたかもしれない』
(心配するとこ、そこ!? ていうか、乳首の毛抜いたら死ぬの、人間!? どういう仕組み!?)
『次からはもう少し慎重にーー 根元の方からしっかりと』
どうなっているのだ。まるで異なった二つの思考でも持ち合わせているような。
(もしかして…… ! あいつの乳首に生えてる小人の思考が混ざって…… ! しかも、口調が似てるからどっちの思考か判別できない!)
エマの心読みは、少々不鮮明な音声が脳内に響く。魔法の対象は一人だけだから、今までこれを短所に思うことはなかったのだが。まさか、二人分の思考が同時に入ってくるとは。
(まさか、私の心読み対策…… !? いくらなんでも早すぎーー)
『くっ! 俺が大事に育てていた乳首毛だというのに…… ! こいつ、よくも…… !』
(今のは絶対男の思考! 抜かれたの…… !? 死ぬの…… !?)
緊張の瞬間。
『だが、もう一回やってもらおう』
なんだか思っていた反応と違う。急にエマは冷静になる。
(はぁ、乳首毛抜いただけで死ぬわけないじゃん……)
エマはひっそりと心読みを解除した。
しばらく進むと、急に人通りが多くなった。バザールというものなのか、左右の建物には様々な種類の店が並んでいる。活気のある言葉が、あちこちから飛び交ってきている。
(すごい人間共の数……)
エマは固唾を飲んだ。
周りにいるのは全て、敵対生物。自分の正体がバレたら、殺されるか、拷問を受けるか。とにかく、ただでは済まないだろう。今更になって、自分が敵地のど真ん中にいるのだと実感した。
いや、不安の原因はそれだけではない。
(落ち着け、私…… 大丈夫、私にならできる……)
胸に手をあて、大きく深呼吸する。
『お前ならできる。なぜなら、お前はーー』
(私は…… 魔王の娘なんだから……)
いまいち心が晴れない。ぎこちない足取りで、エマは敵の波の中へ入っていった。
なんだか周りからジロジロ見られているような。たぶん勘違いだ。自分に言い聞かせる。
意を決して、エマは適当に選んだ店に入ってみた。呉服屋だろうか。色とりどりの衣類が陳列棚に並んでいる。店の奥では、一人の老人が店番をしていた。
(よし、このヨボヨボのジジイでいいわ! 手始めに、私の恐ろしさを思い知らせてやる!)
エマは老人の前に進み出ると、肩を怒らせた。視線は老人の足元あたりに固定。
「お、おい人間!」
少し声が裏返る。
「い、今なら、私の下僕にしてやってもいいわよ! ありがたく思いなさい!」
辺りがしんとする。
なぜだろう。老人の表情がみるみる険悪になっていく。心を読んでみれば、その理由はわかるが。しかし、エマにはそれができなかった。
「出て行け」
「へ?」
「ここは男専用の服屋。女専用は真向かいの店。わかっててやっているんだろ? なんだ、衛兵呼んで一緒に捕まろうって魂胆か?」
この老人は一体何を言っているのだろう。
「ワシに何か恨みでもあるのか、えぇ? 言ってみろ、ワシが何をした!?」
「な、何よ…… そんな急に……」
「さっさと出て行け!!」
老人はにべもない。エマは逃げるように店を出て行った。
「うっ……」
涙がこぼれそうになるのを、瞬きで必死に堪える。こんな所で泣いてしまったら、恥晒しもいいところ。低俗な人間に、嘲笑われてしまう。
(低俗な人間のくせに…… 威張り散らしてるんじゃないわよ……)
道端で涙と葛藤していると、不意にお腹から大きな音が鳴った。
(お腹減った……)
そういえば、昨日から何も口にしていない。いつもなら一日三食、おやつもしっかり食べているのに。
(まだ諦めちゃだめよ! 今度はちゃんとやってみせる!)
エマはどうにか自分を奮い立たせると、次の店に向かった。