6. 真の力
クリフが足を上げる。靴底がメルの顔に向けられる。
「ふっふっふ……」
弱りきった笑い声。それを上げたのは、メルであった。
「何がおかしい?」
予想通り、クリフは動作を止め質問してくる。
「はぁはぁ…… もう勝ったつもりでいるのか? 鉄壁のクリフ」
「逆に問うが、貴様はこの状況でまだ負けを認めないのか? もうろくに身体も動かないだろ? 予想外にお前が吹き飛んだから、冷や汗をかいた。ほんの少しだけだがな」
そんな所は強調しなくていい。
「何を考えているか知らんが…… まだ負けてないと言うなら、それを証明してみせろ」
迫り来るクリフの靴底。
それに対して、メルが取った行動は……
「なっ……」
クリフが驚嘆する。
「何もしないのか……」
固く冷たい靴底は、しっかりとメルの顔面に直撃していた。
顔がジンジンと痛む。脳がぐわんぐわんと揺れ、鼻血が溢れ出してくる。たぶん、鼻の骨は折れただろう。しかし、メルは不敵な笑みを浮かべたまま。
「ふっふっひゅ…… めひゃくしゃ、きもひいな。いみゃまでぇ、ほんなひもひになったことふぁ、なはった」
「何を言っているかわからん。さっさと倒れろ。今すぐ治療施設に運んでいく。貴様のせいで無駄な時間を過ごした」
不思議だ。
身体中が熱い。左胸からとめどなく何かが流れ出し、全身に回っていくような。とにかく最高の気分だ。
「クリフぅ、おまへの敗因はまんひんひたことだぁ」
「まだ言うか。お前の負けだ。さっさと認めーー」
クリフの目が大きく見開かれる。彼は咄嗟に足を引っ込めた。
が、次の瞬間、彼の体は宙を舞っていた。そして、何度も体を地面に打ち付けながら、数十メートル先でようやく停止した。
「クリフちん〜、だいひょうぶ? ひんでない? あれーー」
なんだか喋りにくい。
メルは口に溜まった血を吐き出した。視線を戻すと、クリフはゆっくりと立ち上がっていた。
「そうそうそう、そうこなくっちゃぁ。まだ全然気持ちよくなってないんだよ、俺ぇ。もっと、もっと痛めつけてくれないと」
恍惚とした表情でそう言うメル。その反面、呼吸は荒く、顔面は血で真っ赤。軽くホラーだ。
「クリフちん〜、まだ〜? 早く俺を痛めつけーー」
メルはいち早く危機を察知した。
視界の奥から、飛来してくる複数の金色の短剣。クリフの魔法だ。少しは本気になったらしい。メルは体をくねらせ、素早くそれらをーー
「あ"ぁ"ーーー! 待て、さすがに痛いぃ! クリフちん、やりすぎだよ〜」
それらを全て、自分の身に直撃させていた。
痛い。だが、身震いする程気持ちいい。クセになりそうだ。
「目眩しのつもりだったが、自ら当たりにいくとは」
近くでクリフの声が聞こえたような。荒ぶる視線を、どうにか声の方に向ける。
やはり、クリフだ。こちらに猛然と走ってくる。酷く引きつった顔をしているが、どうしたのだろう。
「何が起こったのか知らんが…… やはり、お前は治療を受けた方がいい」
走るクリフの左腕から、長方形の大きな盾が形成される。
「拒絶の盾」
あの魔法こそ、彼が鉄壁と形容される所以。
不純のない精神が作り出した、鏡面の如き美しい金色の盾。それは今までどんな攻撃を受けても一切汚れず、惨たらしい戦場の中、彼の盾だけが場違いな程美しかったという逸話さえある。塵の一つさえ寄せ付けない、全てを弾いてしまう盾なのだ。
今も盾の周囲の雑草が、見えない力で押し倒されている。
「安らかに眠っていろ」
それは相手を殺す時に言うセリフだ。
クリフは大きくジャンプすると、盾でメルを押し潰そうとする。だが、メルに避けるという選択肢はない。彼は両手を広げ、それを全身で受け止めようとする。
盾に当たる寸前。
「ぐっ!?」
見えない力が、メルを上から押し潰す。まるで数百キロはある何かが、のしかかっているような。なす術なく、地面に這いつくばる。さらには、周囲の地面が音を立てて、めり込んでいく。
「ぐぁぁぁぁ! 気持ぢい"ぃぃぃ!」
「まだ意識があるか。さっさと眠れ」
異常な快感が体全体に広がる。それと同時に、別の感情が湧き上がってきた。恐怖だ。
「ぐぅ! だめだっ! 痛気持ち良すぎて、このままじゃ…… !」
死んでしまうかもしれない。
メルは全身に力を入れ、ゆっくりと立ち上がっていく。
「何…… !? 拒絶の盾を押し返すだと…… !?」
クリフの驚く顔が目に入った。そこへ向かって、メルは渾身のパンチを繰り出す。しかし、それは金の盾に防がれてしまう。
「この力…… 貴様、一体どうなってーー」
クリフが少し離れた位置に着地する。
メルは間髪入れず、次の攻撃に移る。目にも止まらぬ乱撃。地面を抉る重い拳。しかし、どれもクリフには当たらない。あの、拒絶の盾に届く手前で、押し返されるのだ。
「クリフちん〜、全然当たんないよ〜」
一方のクリフの顔色も曇っている。反撃する隙を見出せていないようだ。
「ならーー」
メルは姿勢を下げると、獣のように四つ足を使いクリフの後ろに回り込んだ。
「速い…… !」
一歩反応が遅れるクリフ。
ガラ空きになった彼の背中に、メルの強烈なドロップキックが当たる。
「ぐはっ…… !」
クリフはそのまま目の前の岩に、頭から突っ込んでいった。
「ゴホッ、ゴホッ……」
咳をしながら、クリフはゆっくりとこちらを向く。
「おお、クリフちん! それお揃いだよぉ! 顔〜!」
メルは血まみれになったクリフの顔を指差す。流血のせいで、片目は閉ざされている。
「あ、でも、ちょっと違うなぁ。俺が受けたのは、もっと痛〜い攻撃だった」
メルは左手を挙げる。全身の力が、そこへ集中していくような感覚。
「今まで俺を痛ぶってくれた、そのお返しぃ」
そうだ。良いことをしてくれた人には、ちゃんとお返しをするのが筋だ。自分はとても良い人間だ。
クリフは再び拒絶の盾を展開する。先程とは正反対のシチュエーションだ。
「苦痛反射」
今まで受けてきたダメージが、一点に集まる。
この一撃でクリフは死ぬ。そんな気がした。だが、この快感を知れるのだから本望だろう。
拳が盾を、クリフの体を貫くーー ことはなかった。
「はぁはぁはぁ……」
すんでの所で、メルは拳を下ろしていた。
「俺は一体何を……」
メルはその場に膝をつく。
さっきまで霞がかっていた頭の中が、急にクリアになる。そして、体中から耐え難い激痛が主張をし始めた。記憶はあるが、なぜ自分があんな奇行に走ったのか理解できない。
「それより、俺の左手…… どうなって……」
メルは自分の左手を見た。
指先から肩の方まで、緑色に結晶化していた。その色はまるでパーバートのよう。そして、どういう訳か、左胸の膨らみが消えている。
これが目に入ったおかげで、彼は正気に戻れたのだ。
「おい、クリフ、大丈夫か? 生きてるよな?」
「馬鹿にするなよ…… 俺があの程度で死ぬ訳ない……」
クリフが少々弱々しい声で言う。あの拒絶の盾に大きなヒビが入っていた。
「心配すべきは、貴様の体だろ。ちっ、頭に血が昇って、少しやり過ぎた」
クリフは静かに立ち上がる。
「俺はもう行く。今日は貴様のせいで疲れた」
「な、なあ、クリフ…… このことだが……」
「今回は貴様の勝ちにしておいてやる。また来る」
それだけ言うと、クリフは一度も振り返ることなくこの場を去っていった。どうやらメルの思いは届いているようだ。
「あ、待って…… 俺の治療……」
家で療養するしかないようだ。それに、話をしなければならない相手がいる。
「おい、パーバート」