4. 未知との遭遇
「何だこれ……」
その異常さに、メルは目を疑った。
五、六メートル四方、タンスやテーブルがあるだけの簡素な部屋。窓はなく、薄暗い。その中央の床に、大きな赤色の魔法陣が描かれていたのだ。まるで血か何かで描いたような、禍々しさがある。
「これまた悪趣味な…… わかった、緊縛モノだな!? それもだいぶハードな奴!」
パーバートの嬉々としたボケなど耳に入ってこない程、メルは呆然としていた。
昨日までこんな魔法陣はなかった。となると、これは彼が家を空けていた、数時間の内に起こったこと。
魔法陣は、何かしら強力な魔法、特異な魔法を使う際、その発動を安定化させる役割を担っている。魔法の種類によって、魔法陣の模様も多少の違いがあるが、素人目では魔法の特定は難しい。
「この魔法陣…… どこかでみたような…… いや、それより一体誰が……」
メルはハッとして、辺りを見回す。見たところ、誰もいないようだが。
ガタッ。
大きな音が、すぐ近くで聞こえた。そちらを見ると、木製のクローゼット。ちょうど人一人が入れるくらいの大きさだ。
「何かいるな」
「ま、まさか……」
メルは恐る恐るクローゼットに近づく。そしてーー
「誰だ!」
勢いよく扉を開ける。
「ふっ……」
中から空気の漏れるような音。
「ふっふっふ…… ! わ、私を崇めなさい、低俗な人間!」
女の声だ。
扉を開けた先にいたのは、腰に手を当て、威厳ありげに胸を張る少女。赤く長い髪、黒いパーティードレスのような服。目と口は強く閉ざされ、プルプルと少し震えている。
「え、誰…… ? どういう状況…… ?」
予想外過ぎて、メルは反応に困る。
「わ、私は…… あれよ! ほら、神的なあれ!」
「人ん家のクローゼットの中に隠れる自称神…… 確かに、神的にヤバそうな奴だが……」
「う、うるさい! さっさと崇めればいいのよ! とりあえず頭を垂れて、一分くらい目を閉じてなさい! あんたを天に連れて行ってあげるから! 数多の幸福が待ってるわよ!」
これ、絶対殺されるやつだ。天に召されるやつだ。
「そうか…… ! 監禁プレイと女王様プレイを掛け合わせた、新しいスタイル! 一見相反する組み合わせに見えるが…… 何たる変態精神…… 感服したぞ、人間!」
パーバートが余計な口を挟む。絶対話しがややこしくなるやつだ。というか、目をキラキラさせるな。
「は!? 何言ってんの!? 私にそんな趣味ないっての! 誰がそんな変態ーー って、なに胸のそれ…… 気持ち悪……」
案の定、メルの胸に生えたパーバートを見て、少女の顔は青ざめていく。それもそうだ。意味不明なことを言う女が胸に生えているのだからーー
「待て。お前、こいつの言葉が理解できるのか?」
「言葉って…… 当たり前じゃない」
キョトンとした顔をする少女。最早、最初の"神的な"設定も忘れているようだ。
そして、よく見ると彼女の両耳の上の方。そこには漆黒のいかめしいツノが生えているではないか。
「こいつの言ってることは、変態的な言葉のはず。それを理解できるということは…… お前もパーバート!?」
メルは素早く少女との距離を取ると、魔法発動の準備をする。
「答えろ。お前は何者だ? この魔法陣はお前が描いたのか?」
メルは鋭く問いかける。
少女の雰囲気に流され、普通に会話をしてしまったが、それも彼女の作戦の内だったのか。
「早く答えろ! 何も答えないというのなら、お前をここで殺す! この魔法陣は何だ! なぜ師匠の部屋を選んだ!」
大きな声を出しているが、これは虚勢である。
相手は結界内に自力で入り、飄々としていられるパーバート。もしかすると、左胸のそれより強い可能性すらある。正直、勝てるビジョンが見えてこない。
ハッタリが見破られた瞬間、自分の命はなくなるだろう。
「うっ……」
少女が言葉を発した。
「う?」
何を言うつもりだ。緊張が高まる。
「うぅ……」
来る。強烈な何かが。
「うわぁぁぁぁぁぁぁん!!!」
耳をつんざくような大音響。これが相手の攻撃。
何と強力なーー
「え?」
「何でそんな怖い声出すのよぉ…… ! わ、私、別にそんな悪気とかなかったのにぃ……!」
少女の両目からは大粒の涙。聞こえてくるのは、啜り泣く声。ついには、彼女はその場に崩れ落ち、顔を両肘に埋めてしまった。
「お、おい、パーバート! 俺の左胸の!」
「なんだ、俺の左胸のって。気色悪いな」
今の自分の姿を鏡で見せてやりたい。が、今はそれどころではない。
「あいつは一体何をしている!?」
「何とは?」
「あの行為は何だと聞いている! 何か魔法の準備か!? はたまた、既に俺は奴の術中にハマっているのか!?」
しばしの沈黙が訪れる。
「お前、意外とポンコツなのか…… ?」
「ど、どういう意味だ!?」
「いや、あれは誰がどう見ても、泣いているだけだろう」
メルは一瞬言葉に詰まる。
「泣いている…… ?」
「だから、見ればわかるだろう。お前の顔に付いているそれは、睾丸か何かか? ん…… ? ということは、喉ちんこというのは本当に…… なるほどな!」
「だが、あいつはパーバートで……」
「いいや。少なくともあれは同族ではない。人間だろう、たぶん。お前はそれを泣かせた。さしずめ、雌に欲情して吠えまくった挙句、拒絶された哀れな雄と言ったところか」
何を言っているんだ、こいつは。そのしたり顔やめろ。
「こ、こういう場合は謝るべきか…… ?」
「いや、そこは地面に這いつくばって、『どうか、この卑しい私めに厳しい罰をお与えください』と、懇願するのが筋だろう。まずはパンツ一丁になれ」
「お前は二度と喋るな」
この意味のない会話をしている間も、少女はわんわん泣いている。
彼女の正体は依然不明のまま。だが、他人を泣かせてしまったことの罪悪感は大きい。
「おい、もういいだろ? いい加減泣き止んでくれ」
「だってぇ…… ! 誰かに怒鳴られたことなんて、初めでだったしぃ…… !」
「くっ、どうすれば……」
このままでは話を聞くどころではない。何か方法はないだろうか。
そう考えを巡らせている時だった。ドンドン、と荒っぽく扉を叩く音。メルはギクリとして振り返る。玄関の方からだ。
「まさか、もう来たのか…… ?」
その訪問に、メルは心当たりがあった。
「王国騎士隊だ。メル・ドマーゾ、さっさと出てこい」
聞き慣れた男の声。
「騎士隊? 我の存在でもバレたか?」
「いや、そうじゃないはずだ。だが……」
先ほどよりも強く、扉が叩かれる。
「ここにいるのはわかっている。十秒以内に出てこい。さもなければ、扉を蹴破る」
「まずいな」
「十、九、八……」
カウントダウンが始まる。今はことを荒立てる訳にはいかない。
この少女も、この部屋の魔法陣も、そして左胸のパーバートも。見られてはいけないものが多すぎる。
メルは慌てて少女の腕を掴み、立ち上がらせた。
「え、ちょっーー」
「悪いが、もう一度この中に隠れていろ。俺が合図するまで出てくるなよ」
クローゼットの扉を閉める。後はーー
「三、二、一」
荒々しい音を立てて、扉が蹴破られる。入って来たのは、鎧姿の大男が一人。その鷹のように鋭い目が、メルを睨む。
「メル・ドマーゾ。いるのなら、さっさと返事をしろ」
「悪い悪い、ちょうど用を足していてな。それで、用件は何だ? 鉄壁のクリフさん」
メルは汚れたソファに座り、余裕そうにクリフを迎えた。