巣立ち
外に出ると、雨が降っていた。傘を持ってきていなかった僕は雨に濡れながら走って帰る。そういえば、ワーテルストフ教授に初めて会ったのもこんな雨の日だった。
とにかく自分のことを誰も知らない場所に行こうと大陸一の大都市ベルセリウに来たはよいものの、魔法の使えない僕ができる仕事と言えば、飲食店での給仕か皿洗いくらいのものだった。したいことも無く、目についた繁盛している酒場で働かせてもらっていたが、そこに来る冒険者たちの自慢話が、否が応でも耳に入ってくる。
「今日のミスティックボアーは特大だったな。明日の鑑定が楽しみだ。20万カイザーくらいあってもいいんじゃないか?」
「冒険者さんすごーい。じゃあ今日は浴びるほど飲んでくださいよー。」
聞いていると、田舎から出てきてやってることが田舎でもできる酒場での給仕をしている僕が惨めに思えてくる。結局、1週間ほどで耐え切れずに逃げ出してしまった。雨のおかげで、惨めさで泣いていてもあまり気にならなかった。泊まっている宿に帰る気も起きず、軒先で俯いてうずくまっていた。
「どうした坊主、ママとはぐれたか?」顔を上げると、白髪のおじさんが僕に話しかけたようだった。
「坊主なんて年でもないし、親なんて暫く顔も見てません。」精一杯強がった。
「そうか、とりあえずほれ。」おじさんが指をくるくると回すと、濡れ鼠になっていた僕の服から、水分がみるみるうちに無くなっていった。
「ありがとうございます。魔法ですか?」
「そうだ。そんな嫌そうな顔をして、お前さんは魔法が嫌いか?」
「嫌いです。こんなもの無ければとさえ思います。まぁ魔法が使える人には分からないでしょうけど。」
「俺には分からないが、俺の研究所にいる奴らはお前さんの気持ちを分かるかもしれないぞ。」
「どういうことですか?」自慢顔のおじさんに質問する。
「何か知らんが、俺の研究所には、魔法が苦手なやつばっかだぞ。どうだ?特にやりたいことが無いなら、お前さんも来るか?」
「やりたいことは、ある。だけど、やれない。」
本当は冒険者として活躍して魔王を倒したいなんて、魔法が使えない僕は口が裂けても言えなかった。
「じゃあ、やりたいことが出来るようになるまで、俺のとこにいていいぞ。強いコンプレックスを持つ奴は研究者に向いているからな。まだ名乗っていなかったな、俺は、ワーテルストフ。化学者だ。」
「オーラム・イレーヴェンです。本当にいつでも出ていっていいんですか?」
「ああ、いいぜ。だが、やるからには半端は許さねえからな。」
それが、ワーテルストフ教授との出会いだった。その後、研究所で有機化学の研究をするようになった。自分で自由自在に作りたい有機化合物を合成していくことは、僕にとっての魔法だった。
いつの間にか家に着いていた。風呂で体を温めながら、教授に言われたことを考える。魔法が使えないという理由で冒険者の道を諦めていた。しかし、魔法が使えるようになった今、その道を目指すことも出来る。しかし、教授にはそこら辺で野垂れ死んでてもおかしくなかったところを拾ってもらった恩がある。頭の中で思考が上手くまとまらないまま、この日は眠りについた。
次の日、いつもと同じように研究所に向かい、教授にもいつもと同じように挨拶をする。昨日のことについて追及されたくなくて、逃げるように自分の実験デスクに座る。
「教授と喧嘩でもしたの?オーラム君?」隣の席のケクレさんが話しかけてきた。
「まぁそんなところです。あと、これは僕自身がどうとかではなく、単純な興味として聞いてみたいんですけど、ケクレさんだったら子どもの頃の理想と大切な人に対する恩義のどちらを優先しますか?」
「単純な興味か、まぁいいや。個人的な意見なら、その2つは比べるものではないような気がするけどね。自分自身の願望と他人への感謝はそれぞれ大事にするべきことで、どちらを取るかというのは違和感があるかな。もしかしたら、君の望む答えになっていないかもしれないけど。」
「なるほど、ありがとうございます。そういう考え方もあるんですね。」
思いつめていてもしょうがないと考え、手を動かすために実験をすることにした。
実験も一段落着いたところで、昼食でも食べに行こうと外へ出ようとした時、教授に話しかけられた。
「どうだオーラム、一緒に昼食でも?」流石に逃げられないだろう。
「そうですね、行きましょうか。」近くの食事処に向かった。
「それで、答えは出たか?」
「思ったんですけど、この手から原子を出す力があれば、もっと実験の効率が上がると思うんですよね。複雑な構造も理解さえしていればいくらでも出せるわけですから。」
「まぁそうだな。」
「それに、今から冒険者になったところで遅くないですか?大体の冒険者は18歳でギルドでのクエスト受けてるのに、僕はもう23ですよ。今まで全く魔物と戦って来なかった僕が今更、冒険者を目指すなんて非効率じゃないですか。」
「それで?」
「えっと、教授の話では原子を出す魔法を見たことが無いということは、この魔法で実際に魔物を倒せるかなんてわからないですよね。もしかしたら、全然通用しない可能性だってあるんですよ。」
「つまり?」
「つまり、えーっと、その。」
「そんな、言い訳が聞きたいわけじゃないんだよ。俺が聞きたいのは冒険者になりたいかどうかだ。別に研究は今やんなくても、歳いっても別に出来るだろ。お前さんが今やりたい、今しか挑戦できないことをするのかどうかを聞かせてくれや。」
教授は真っ直ぐ僕の目を見つめる。
「俺に初めて会った時言ってたじゃねえか。やりたいことがあるけど、その力が無いって。今のお前さんにはその力があるんじゃあねえか?」
「それは、そうですけど。」
「もし、俺に対して恩でも感じてるんなら、研究所辞めて冒険者になって、誰でもが羨む冒険者になってくれ。俺が冒険者時代に成し遂げられなかった目標だ。お前さんに託すことにするわ。」
教授がそんな目標を持っていたことなんて初耳だった。そもそも教授が元冒険者だったことすら、今まで話してくれなかった。
「わ、分かりました。やれるだけやってみたいと思います。それがあの雨の日にした約束ですから。」
「おう、冒険者が無理ならまたいつでも戻ってこい。ただ、半端は許さねえからな。」
「もちろんです。」
研究所に戻り、他の研究者たちに説明することになった。自分のしたいこと、そして今までの感謝の気持ちを自分の言葉で伝えた。
「じゃあ、今日はオーラムの新たな門出ってことで、宴会でもするか!」
「いいですね!やりましょう。」教授の鶴の一声で決まった。
笑って送り出してくれた研究所の仲間たちには感謝しかない。素晴らしい人に巡り合わせてくれた教授には一生頭が上がらないだろう。
・解説コーナー
有機化学の研究内容の一つである全合成と呼ばれる研究は、出発物となる買うことができる化合物に対して様々な反応を経て、複雑な天然物などを作り上げていくもので、自由自在に化合物のかたちを変えていくさまは、まさに魔法と言えるかもしれませんね。
あと、この大陸の通貨であるカイザーは、赤外分光光度計での結果などで使われるcm-1を多くの有機化学者が何故かカイザーと呼んでいるものが元ネタになっていて、カイザーは国際単位系の一つとしては認められておらず、教科書等にもcm-1をカイザーと呼ぶとは書かれてはいない謎の単位です。
次話からついに冒険が始まります。ブックマーク、評価よろしくお願いします。