神様の使い 1
あれは、夏の終わりのことだった。庭の李の木に留まったミンミン蝉が、過ぎ去っていく夏を惜しむかのように声を絞り出して鳴いていた。
僕は、隣町から遊びに来ていた久夫ちゃんと二人で裏山へ出かけた。僕は小学一年生。久夫ちゃんは二年生。久夫ちゃんは白地に青い格子柄の開襟シャツにベージュの半ズボン、僕は白い解禁シャツに茶色の半ズボンをはいている。二人並ぶと久夫ちゃんの方が少し背が低い。
裏山に沿った小道を行くと間もなく「清水」と呼ばれる湧水に着く。岩間から湧き出た水が注ぎ込む石造りの水溜にスイカが冷やされている。久夫ちゃんは好奇心旺盛だ。水に浮かぶ鮮やかな緑の球体に近付き、人差し指で突っつくとそれはいったん水の中に沈み、また直ぐに浮かんでくる。澄み切った水が小さな波紋を作る。そうした一連の動きがおもしろくて何度も繰り返していると、
「こらー、スイカさ触るなあ」
と、甲高い声が聞こえてきた。清水のすぐ近くにに住むおばさんだった。
おばさんの名は「節子」。近所の人たちは皆、彼女のことを「節ちゃん」と呼ぶ。一人暮らしの身の上を誰に愚痴ることもなく、気さくに近所づきあいをしている彼女への親しみを込めた呼び方である。
節ちゃんは台所の窓から僕たちの様子を見ていたのだ。久夫ちゃんはその声に驚き、水溜の縁に添えていた左手をずるりと滑らせ、頭から上半身を水の中に突っ込んでしまった。一瞬ばたついたようだったが、すぐに体を元に戻して、ずぶ濡れになった顔をぶるっと振るわせた。そして、
「クジラが泳いでたあ」
と僕の顔を見た。顔についた水を拭おうともせずにおどけて見せる久夫ちゃんを見て僕はぷーっと吹き出した。
「クジラがいたって。おもしれえわらしっこだごど。ほれ……」
見ると、節ちゃんが白いタオルを差し出して僕たちの横に立っていた。トレードマークの丸い黒縁眼鏡。青い縦縞のワンピースの袖から細い二の腕が出ている。淡い水色のエプロンをして、赤い鼻緒の下駄をはいている。
節ちゃんは、
「小林さん家さ来ている子だな」
と言って久夫ちゃんの頭をゴリゴリと拭いた。
「痛てててて」
久夫ちゃんが頭を反らそうとするが節ちゃんは容赦ない。両手で頭をつかみ顔を自分の方に向かせると、
「お前、名前何て言うなよ?」
とぶっきらぼうに訊いた。いくら女の細腕とはいえ、小学二年生など一ひねりである。久夫ちゃんが力なく、「ヒサオ」と答えると、節ちゃんはその力を緩めた。その瞬間、久夫ちゃんは節ちゃんの腕からスルリと抜けて走り出した。そして、十歩ほど離れたところで立ち止まり後ろを振り向いて、
「やーい、メガネザルー。アッカンベー」
と、お尻ペンペンをして一目山に駆けだした。
その逃げ足の速さにはさすがに着いていけそうにないと思ったのか、節ちゃんは二三歩走ると追うのを諦め、少し乾いた声で、「コラー」と一つ叫び肩を怒らせた。
一方、僕は、久夫ちゃんとは正反対のような性格で、引っ込み思案の恥ずかしがり屋で、近所に住む節ちゃんに対しても自分から声を掛けることができなかった。いつだって、節ちゃんの方から、「あら、崇志ちゃん。どさ行ぐどごだ?」などと声を掛けられ、少し間をおいてから、やっと一言「公園……」などと答えるのだった。
二人のやり取りを見ていた僕は、その場から走り去ることもできず、ちらりと節ちゃんの顔を見た。節ちゃんは、そんな僕を見て、
「崇志ちゃん、大丈夫だ。何ともねえがら……」
と少しずり落ちてきた丸い眼鏡を中指で押し上げた。そして、少し笑みを浮かべて家の中に入っていった。でも何だが、その後ろ姿が寂しそうで、僕はしばらくその場を離れることができなかった。
いつだったか、近所のおばさんたちが節ちゃんのことを話しているのを聞いたことがある。
「節ちゃん、本当は親方衆の娘なんだとな」
「んだんだ。元々は松川町の大きな金物屋だったんだども、かまどきゃし(倒産)てしまったななど」
「ふーん……。んだども、女学校出てるっていうからすごいよな」
「んだよ。今の横森南高だ。その頃、女学校さ行げる人なんてそうはいねがった」
「お嬢様だったんだな」
「んだんだ、昔はなあ」
「女学校出だ人、なして一人でいるべな?」
「いやあ、それは分からねえ。人だものいろいろあるべったあ……」
この話が本当かどうかは分からないが、女学校を出ているというのは本当だろうと思う。何故かと言えば、この間、節ちゃんと母との茶飲み話の最中、そこに居合わせた中学生の兄に、節ちゃんが、
「聡志ちゃん、ビートルズのレコード持ってるが。あったら聞かせてけねが。オラ、『イエスタディ』が大好きだ」
と話していたことがあったからだ。こんな田舎で中年のおばさんが英語の曲を話題にするなんて、節ちゃんが女学校出であることの片鱗だと思った。
僕は、久夫ちゃんの後を追って、お寺の脇の小さな坂道を下りた。その坂道を下りた所に、僕が通う小学校の軒先がある。コールタールの塗られたトタン屋根。薄茶色の木壁は老巧化し灰色を帯びている。その歴史ある木造校舎の片隅から裏山に向かう小径が始まる。左手に裏山の斜面、右手に校舎。青々とした雑草の道の向こうに久夫ちゃんの背中が見える。僕は駆けだした。学校の中庭を右手に見てから体育館の裏手を進むと、やがて左手に石段が見えてくる。
「たかしー、早くこーい」
久夫ちゃんが石段の下で手を振る。節ちゃんに叱られたことなどどこ吹く風。久夫ちゃんは、僕が追いつくと直ぐに二十段ほどある石段を駆け上がって行った。僕も休む間もなくそれに続いた。
石段の上は広場になっていて、ブランコや鉄棒などが設置され、学校の子供たちの遊び場になっていた。広場の中央には土俵がある。ここで年に一回クラス対抗の相撲大会が行われる。校内大会とはいえ、千人を超す子供たちのクラス対抗となると見応えがある。土俵を取り巻く子供たちの歓声が山の草木を揺るがす。クヌギの枝をリスが走り回り、灰色のヤマバトが羽音をたてて飛び立った。
しかし、今は夏休み。聞こえてくるのはミンミン蝉の鳴き声だけ。久夫ちゃんが土俵の上で土俵入りの真似をしている。痩せっぽっちの細い足が四股を踏む。かと思うと、今度は鉄棒にぶら下がり、逆上がりを一回二回とやって見せ、次にブランコに立ち乗りし、空中を何度も往復して見せた。僕は、そんな久夫ちゃんの姿を遊動円木を漕ぎながら見ていた。
広場の奥に赤い鳥居が見える。小さな鳥居の朱色が鮮やかである。よく見ると、その奥に重なるようにもう一つ鳥居があるのが分かる。しかし、更にその奥は薄暗くてよく見えない。背後に迫る山の樹木が深い緑の固まりとなって空を遮っているのだ。少し離れた所から見れば分かる。山の手前にとてつもなく大きな銀杏の木が二本並んでそびえ立っているのだ。そして、その二本の大銀杏の間に赤いトタン屋根のお堂が見える。横森稲荷神社(横森稲荷)である。
鳥居の奥には十数段の苔むした石段が続いている。僕たちは、神妙な面持ちで鳥居をくぐり石段に足をかけた。ひんやりとした空気が頬を撫でる。ここに来て、久夫ちゃんの歩みが急に遅くなった。自然と僕が先になって進むことになる。僕はいつもここで遊んでいるから慣れている。石段を一段とばしで上る。久夫ちゃんがその直ぐ後に続く。
石段を上りきった所の両脇に狐の石像が二つ設置されている。が、片方の石像には頭がない。そして、その両側に銀杏の太い幹が二本、どっしりと腰を降ろしている。神社はそれほど大きくはない。
二人は、拝殿への階段を上り、鈴を鳴らして柏手を打った。神社の中は板の間になっていて、その奥の薄暗い棚にたくさんの狐の置物が並べられていた。それらは皆白い瀬戸物でできている。耳と目に朱を施し、太い尻尾を背負っている。正面を向いたもの、首を斜めに傾けたものなど、表情は様々だが、その目はどれも、僕たちに向けられていた。それらは一様に細くつり上がっており、人を寄せ付けない霊気を放っている。これには思わず目を反らさずにいられなかった。
ところが、久夫ちゃんは違った。一人板の間に入り、奥の棚に近付いて行った。さっき石段を上ったときの久夫ちゃんとは違う。少し虚勢を張っているのかなとも思ったが、そうではない。棚の上の狐たちに興味をもっているようだ。と、
「ふうん、狐の置物かあ」
と狐に手を掛けようとした。僕は思わず、
「さわればだめ。それ、神様の使いだよ」
と叫んだ。
「ええ、神様だって」
「んだよ。じいちゃんが言ってたよ。狐は神様の使いだからいたずらをせばだめだって。昔、狐に乗り移られてコンコンって手を狐のように動かす人を見たことがあるって」
僕は、その話をするだけでも怖かった。だけど、久夫ちゃんは、僕の話なんか聞こうとしなかった。棚の上の狐を一つ一つ手にとって
観察を始めた。まるで怪獣人形のコレクションを鑑賞するみたいに、その出来映えを一つ一つ見比べているようだった。その間、僕は鈴の下で黙って待っているしかなかった。
「もういいべ、久夫ちゃん」
僕が声を掛けると、久夫ちゃんは、名残惜しそうに狐を元に戻して、何度か後ろを振り返りながら僕の方へ向かった。
そのとき、久夫ちゃんの背後にある白い狐たちの目が一瞬赤く光ったように感じた。僕は目を擦ってもう一度見た。その光はあったのかなかったのか、曖昧さだけを残して消え去っていた。
僕たちは拝殿を下りて外に出た。
「わあ、まぶしい」
と、二人とも目を細めた。陽が西に傾き、さっきまで薄暗かった森の中に木漏れ日が差し込んできたのだった。と同時に、下の広場の方から声が聞こえてきた。見ると、子供たち数人がブランコや鉄棒で遊んでいる。僕には、その子供たちが誰だかすぐに分かった。
「明男ちゃんたちだ」
それは、僕の家のすぐ近くにある集合住宅に住む子供たちだった。彼らはいつも、六年生の明男ちゃんを先頭にしてグルーブで遊んでいる。さしづめ、明男ちゃんが親分で、その下の五年から一年までが子分のようなものだ。
久夫ちゃんは、下の広場の様子を窺うようにして石段の一番上に腰掛けた。僕もその横にちょこんと腰掛けた。そして、二人の横にはそれぞれに神様の使いである狐の石像が位置していた。やはり片方の狐には頭がない。僕たちは、しばらくの間、広場の様子を見物することになった。
明男ちゃんは黒い学生ズボンに白いランニングシャツを着ている。頭は丸刈りでその上にちょこんと学生帽を載せている。靴は黒いゴムの短靴だ。子分たちも一様に白いランニングシャツを着て、大抵半ズボンをはいているが、中には体に合わないブカブカの物を着ている者もいる。やはり頭は丸刈り。靴はゴムの短靴だ。
広場では、何時始まったのか、白いゴムボールを使った野球が始まっていた。どこから調達してきたのか、明男ちゃんが古びた棒切れのバットを振り回している。三角ベースの
ポジションと打順は、明男ちゃんの裁量で全て決められる。「バッター一番、ピッチャー
菊田明男」は不動だが、明男ちゃんがバッターのときだけ子分の誰かがピッチャーになる。キッチャーは次のバッターがやることになっている。後は大抵年の順番である。ピッチャーが下手投げで山なりの緩い球を投げると、その球を明男ちゃんが思い切り叩いた。白いゴムボールはフワリと上に上がり守備についている子分たちの頭上を越えて、赤い鳥居のすぐ下まで飛んできた。子分たち三人が慌ててボールを拾いにきたが、ボールは茫々に伸びた草むらの中に転がった。足で草をかき分けてボールを探す子分たち。やがて他の子分たちも走ってきて一緒に探した。そして最後には親分もやって来て、棒切れで草をかき分けてボールを探した。そして、
「ちぇっ、買ったばっかりだなさ……」
と舌打ちをした。
僕と久夫ちゃんは、石段の上から明男ちゃんたちがボールを探す様子をじっと見ていた。明男ちゃんは、最初は棒切れを振り回して乱暴に草をかき分けていたが、ボールが見つからない深刻な状況を知り、棒切れを捨て、腰をかがめて手で草をかき分けて探した。その必死な様子を見ると、僕は明男ちゃんが少しかわいそうに思えてきた。
隣に座っている久夫ちゃんに目をやると、鼻穴に人差し指を突っ込んで一生懸命鼻くそを丸めていた。僕は、広場の方に目を戻した。そのとき、隣から、大きなゲップの音がした。鼻くそ集めに夢中になって鼻穴を塞いでいたものだから口から空気が一杯入ったんだろう。それを出すためのゲップだった。
ゲボッ。明男ちゃんは、腰を屈めたまま顔を上げその不穏な音に眉をひそめると、立ち上がり辺りを見回した。
「アイムソーリー」
久夫ちゃんがほとんど条件反射的に頓狂な声をあげると、
「誰だ? そこさいるのは」
と久夫ちゃんがこちらに目を向けた。
「アヤシイモノデハゴザイマセン」
とまたもや久夫ちゃんの宇宙人の真似をしたふざけた声。明男ちゃんは、素早く鳥居の下まで来て、もう一度、
「誰だ? お前」
と威嚇するように声をかけると、今度はゆっくりと石段を上った。石段の上にいたのは、明男ちゃんにとっては初めて目にする顔だった。が、となりに座っている僕を見ると、
「なんだ、崇志でねえか」
久夫ちゃんは、ニヤッと歯を出して最高の笑顔で明男ちゃんを迎えている。
「誰だ、こいつ」
「久夫ちゃんだよ。僕の友達だよ」
「ふううん、友達か。ふざけた奴だな」
明男ちゃんは久夫ちゃんの方を見た。久夫ちゃんは、口角を上げ、またにんまりと顔を作った。明男ちゃんは、頬を緩め、
「お前たち、ここで何やってるなよ?」
と訊いた。もはや久夫ちゃんに対する敵意は微塵もないようだ。
「何もしてねよ。ただお稲荷さんを拝んだだけだ」
「ふううん、そうか……。」
明男ちゃんは少し間を開けて、今度は久夫ちゃんに話しかけた。
「久夫っていったなあ。お前、この神社の言い伝えを知ってるか?」
「何? それ」
久夫ちゃんは、また惚けた顔をしたが、明男ちゃんはそのまま続けた。
「ここの神様の使いは狐なんだ。だから拝殿には狐の置物をいっぱい飾っている。でも、本当の狐は誰も見たことがない」
僕は小さく頷いた。久夫ちゃんが、
「知ってるよ。そんなこと」
と、また口を利いたが、明男ちゃんはそれにかまうことなく続けた。
「お前たち、本当の狐を見たくねえか?」
「ええっ、オラは見なくていいよ」
僕は即答した。
「何だ、弱虫だな。」
僕は言い返しはしなかった。
「お前はどうなんだ」
明男ちゃんは久夫ちゃんに訊いた。久夫ちゃんは、しばらく憮然とした顔をしていたが、急に表情を変え、
「そんなの見たいに決まっているべ」
とニヤッと笑った。
陽は西山の方へ大きく傾き、青空に広がる雲をうっすらとピンク色に染めた。
「いいか。この神社の周りを息をしないで三周するんだ。もし成功すれば本当の狐が出てくる。」
「もし失敗したらどうなるの?」
久夫ちゃんが真面目な顔をして訊いた。
「それは大丈夫だ。ここにいる連中はみんな挑戦しているども、成功した者は誰もいねえ。失敗しても何もおこらなかったから大丈夫だ」
「なあんだ、お兄さんも成功していねなが」
久夫ちゃんは思ったことを直ぐ口にする。
「そうだ。俺だげでねえ。成功したという話は聞いたことがねえ。だから、今日こそ俺が成功一番乗りになるんだ」
明男ちゃんは鼻腔を大きく広げて両手の拳を握った。
ジャンケンの結果、明男ちゃんが最初にやることになった。二番目は久夫ちゃんだ。
拝殿の前に明男ちゃんが立った。大きく三回深呼吸する。三回目に特に大きく息を吸って胸一杯に空気を溜めると、明男ちゃんは走り出した。他の者は、狐の石像の辺りで息を潜めて見守っている。聞こえてくるのは、久夫ちゃんが走る足音だけ。ダッダッダッダ、と軽快だ。遠ざかった足音は、またすぐに近付いてきて一周目がカウントされる。
「一周」
見ている者みんなで声を合わせる。
「二周」
三周目に入った明男ちゃんの背中を見送る。足音が、ダッ、ダッ、ダッ、と聞こえた。明男ちゃんの姿が見える。口を右手で押さえている。「もう少し」。その瞬間、明男ちゃんの右手が口から離れ、ブファアと息を吐いて吸い込む音がした。三周回ってゴールはしたものの、もう少しというところで息をしてしまったのだ。子分たちが駆け寄って労いの言葉をかけた。
一息ついた明男ちゃんが久夫ちゃんに声を掛けた。
「まっ、精々がんばれ」
久夫ちゃんは、明男ちゃんがやったのと同じように深呼吸をしてから大きく息を吸って、「オッス」と右手の人差し指と中指の二本で軽く敬礼をしてから走り出した。ダッダッダッタッ、ダッダッダッタッ。明男ちゃんとは明らかにピッチが違う。足音は遠ざかったかと思うと、またすぐに近付いてくる。見ている者たちはその速さに驚いた。
「一周」
目の前を過ぎ去っていく久夫ちゃんの姿をいくつもの目が追う。
「二周」
ペースは落ちない。むしろ一気に上がっていく感じだ。涼しそうな顔をして久夫ちゃんが通り過ぎた。そして、三周目。神社の裏側にその姿を見送ったとき、急に足音がしなくなった。「どうしたんだ」。皆が顔を見合わせる。
「久夫の奴、二周半でおしまいか」
明男ちゃんが、してやったりという顔をして言った。子分たちはどう思っているのか、ただ小刻みに頷いていた。僕は「調子良かったのに……」と心の中で呟いた。ところが、肝心の久夫ちゃんが戻ってこない。
「久夫、失敗したって大丈夫だ。速く戻ってこーい」
と明男ちゃんが叫んだ。
「久夫」
「久夫ちゃん」
今度はみんなで呼んだ。だけど、久夫ちゃんはいっこうに戻ってこようとしない。
「なにやってるなよ」
と明男ちゃんが神社の後ろに回っていった。そして、直ぐに明男ちゃんの声がした。
「あれ、久夫いないぞ」
なんだって。久夫ちゃんがいない。そんなわけないだろう。僕と子分たちが裏に回ると、そこにいたのは明男ちゃんただ一人。久夫ちゃんの姿はない。
「ひさおー」
「ひさおちゃーん」
みんなで声を大きくして呼んだ。いたずら好きの久夫ちゃんだ。縁の下に隠れているのかも知れない。木登りをして上から僕たちを見下ろしているのかも知れない。そう思って至るところを探してみた。神社の裏側に続く斜面も藪をかき分けて捜した。城跡に繋がる山道の方へも行ってみた。でも、いくら探しても見つからない。
「崇志、大変なことになってしまった。お前、家の人に知らせてこい」
明男ちゃんが真顔で言った。
僕は走った。さっき上ってきた広場に続く石段を駆け下りて家に向かって引き返した。ピンクに染まっていた空がいつの間にか真っ赤な夕焼けに変わっていた。広場のブランコも、学校の体育館も、中庭も、全てのものが赤く染まっている。学校の軒下を通り、お寺の坂を登り切ったとき、清水のところで人影を見つけた。節ちゃんだ。節ちゃんは近所のおばさんたちと立ち話をしているようだ。血相を欠いて走ってくる僕を見て、節ちゃんが声を掛けた。
「崇志ちゃん、なじした? そんたに急いで」
僕は、
「久夫ちゃんが大変なんだ」
とだけ告げてそこを駆け抜けた。夕闇が迫っている。急がなければ……。
(つづく)