02-1.イザベラと母親の思い出
母は不治の病に侵されているらしい。
私がそれを知ったのは執事長のロイが泣きそうな顔で教えてくれたからだ。
母は私にはそれを知らせなくていいと言っていたらしい。それは、私が母の死が近いことを知り、動揺して公爵領を氷漬けにしてしまう可能性を恐れたからだなのだろう。
私はそれほどに動揺しなかった。
母が私に興味がないことは知っていた。母は私をスプリングフィールド公爵家の次期当主としてしか見ていないことも、私の忌々しい目の色だけを愛していることも知っていた。そういうものだと思っていた。
「……母上」
母の部屋に呼ばれたのは初めてだった。
九年間、母の娘であったのを急に思い出したかのようだった。
それはあまりにも不気味だった。それなのに、どうして、母が私を見てくれたことが嬉しくてしかたがないのだろうか。
「イザベラ」
母は私の名を知っていたらしい。
今までは名前で呼ばなかった。ただ、次期当主だと言われていた。時々、怪物だと呼んでいるのも知っていた。それでも、母が私のことを呼んでいるのだと知っていたから不満に思わなかった。
それなのに、名前を呼ばれた。
それだけで胸が痛くてしかたがない。
「母の傍においで」
「……はい。母上」
母は死が怖いのだろうか。
母も怖いものがあるのだろうか。
それが不思議だった。
私を怪物だと呼んだ母とは違う気がした。
まるで人のようだった。
母の笑った顔を見たことはないけれども、いつもの厳しい顔をしているわけでもない。初めて見る顔だった。それがどうしようもなく怖かった。
だから、私は母の呼びかけに答えた。
なにも恐れていないと自分自身に言い聞かせる。動揺はしてはいけない。私の魔力は私の支配下に置かなければいけない。
そうしなければ、今、生きている母を氷像に変えてしまうかもしれない。
私に手を伸ばしている母の姿のままでいてほしいと願ってはいけない。
その願いは危険だ。私の願いは暴走させてしまえば、人々の生活を脅かしてしまう。それはしてはいけないことだと私は知っている。
「顔をよく見せてちょうだい」
母は私の頬に触れた。
それだけなのに、どうして、こんなに苦しいのだろう。
「イザベラ。どうして、泣いているの? なにか辛いことでもあったの?」
母が心配をしている。
不治の病になってしまった母が心配をしている。
私よりも母が大変だと知っている。それなのに、母が私のことを気にかけてくれたことが嬉しくて涙が止まらなくなってしまった。
「なにも、ありません」
私の声は震えていた。
なんて情けのない声だろう。
「ただ、止まらないのです。涙を止める方法を知らないのです」
いっそのこと凍ってはくれないだろうか。
涙を流す姿を見せるくらいならば、怪物のように魔法に振り回される姿を見せた方が良い。そうすれば、母は私を娘として気に掛けることもなく、病に侵されてしまった自分自身と向き合うことができるかもしれない。
不治の病なんて信じない。
だって、母は目の前にいるんだから。
母がいなくなってしまうなんて信じない。信じたくない。
「そうなの」
母は表情が変わらない人だった。
それが私の知っている母の顔だった。
「イザベラ。貴女に泣き方も教えてあげられなかったわね」
「母上が悪いわけではありません。私がいけないのです」
「いいえ。イザベラ。貴女は私の娘よ。泣き方も忘れてしまった私の娘なの。だから、それを教えてあげることもできなかった母が悪いのよ」
母は泣かない人だった。
母はなにを考えているのか、わからない。
ただ、母がなることができなかったという立派な公爵に私がなることだけを目標としていた人だった。どうして母がそれを目標にしていたのか、わからない。
「母上」
謝らないでほしい。
貴女が悪いことなんてなにもない。
貴女はいつだって正しいのだから。
私はまだ立派な公爵にはなれないけれども、それでも、母が自慢できるような公女にはなれるはずだから。アイザックやマーヴィンよりも魔法を上手に使えるし、彼らの兄妹よりも私の方が先を進んでいる。
だから、母の教育は間違っていない。
怪物の私を人間として育てようとしない母は正しい。人間になれないのならば、怪物であることを隠して、人間のふりをすればいい。そうすれば、いつの日か、私は怪物ではなく人間になれる。
母はそうやって言っていた。
それが正しいことだと信じてきた。
それなのに、どうして、母は私に謝るのだろう。
「私は母上の娘です。必ず、母上の教えてくださった立派な公爵になります」
その姿を母に見てほしい。
母は正しかったのだと安心してほしい。
母の言い付け通りに振る舞うから、母には安心して笑ってほしい。
「その姿を見てください。母上。貴女は不治の病ではありません。だって、私を怪物ではなく、立派な公爵になるまでは死ぬわけにはいかないとおっしゃっていたではありませんか」
不治の病は治らない。
治療方法がないから不治だと言われているのだ。そのくらいのことは、私でも知っている。でも、諦めたくはなかった。
「国中の医学に詳しい人たちを集めましょう。そうすれば、誰かは治療法を見つけられるかもしれません」
公爵家の権力を使えばいい。
だって、母は公爵だ。公爵の危機を救えない権力なんていらない。
「イザベラ」
母は私の頬を雑に撫ぜた。
忌々しいことに止まってくれない涙を拭った手は優しかった。
「貴女は優しい子ね」
母は困ったような顔をした。
初めて見る顔だった。それなのに、なにも嬉しくない。
「貴女が私の娘でよかったわ」
やめてくれ。
それでは、まるで、別れのあいさつのようではないか。
「母様の娘に生まれてくれてありがとう。イザベラ。今まで冷たく当たってしまってごめんなさいね。こんな母を慕ってくれる優しい子なのに」
母の言葉を聞きたくないと思ったのは、初めてだった。




