第8話 黒原虹華の初体験
「――い、い、嫌ですよ!」
――同人誌即売会、『コミックラフト』の設営準備の日。
私の頼み事の内容を聞いた夕くんが、後ずさりながら拒否した。
「……そこをなんとか」
「なりませんよ! だって――だって僕、男なんですよ!?」
男の嗜虐心を煽るような涙目でそんなこといわないでよ、いじめたくなっちゃうじゃない――じゃなかった、今ばっかりは彼の可愛さに「しょうがないなぁ」なんて流されてる場合じゃない。
そう、この交渉が実を結ぶかどうかが、カギなのだ。
――私が、コスプレをしなくても済むように!
事の発端は約一週間前。セミが元気にジーワジーワと鳴く夏のある日。
私、そして目の前でいやいやと可愛らしく首をふるふるしている夕くんなどが所属している同人サークル『キラーハウス』が、この『コミックラフト』に参加することになったのだ――それはいいのだけれど、売り子を務めることになる、私をはじめとしたサークルメンバーの女性陣が、なんとミニスカ系衣装(十中八九メイド服)のコスプレをすることになってしまったのである。
一度殺取り……じゃない、あやとりが趣味のときわさんに脅さr……説得されたとはいえ、やっぱり私の中ではミニスカコスプレなど踏ん切りがつかず。
そこで私は考えた――私よりも可愛らしく見える人に着てもらえば、万事解決なのでは!?
そこで、私の趣味をそのまま形にしたかのような、下手な女子どころかそこらを歩く普通の女子より可愛い年下くん、もとい夕くんに頼んだのである。
『イベントの日、私の代わりにコスプレしてくれない?』と。
――思いのほか強く反発されたが、まぁ反発されるのは想定の範囲内……!
ここから、丸め込んで見せる!
「とっ、とにかく、女性ものの服なんて、僕絶対に着ませんからね!」
ぷりぷりしながら(可愛い)私に背を向け、荷物運びを再開しようとしたその背中に、私はやれやれというニュアンスたっぷりに、言葉を紡ぐ。
「ふっ……甘いわね、夕くん。そんな狭い了見で真の男になれると思っているのかしら」
「……っ!?」
女の私が何を言っているんだろうと思いつつも、夕くんは「真の男」というフレーズに足を止める。よしよし、悪くない食いつきだ。
「いいこと。真の男というのは、たとえ自分の意にそぐわない仕事であっても引き受け、さらっとこなして見せるものよ」
「……!」
ぬけぬけとほざく(これ自分には使わないわよね、普通)私の言葉に、夕くんは突っ込む様子もなくただただ目を見開いていた。
……積極的に丸め込もうとしている私が言えた義理ではないけれど、この子いろんな意味で大丈夫なの? しかし今更止められない、毒を喰らわば皿まで。コップも机も食い散らかしてやる!
「ましてやそれが女装するという話であっても、文句の一つも言わずにこなすでしょうね――それが、プロの男よ」
「プロの……男……!」
……口に出しておかしいとは思わないのだろうか、彼は。
そしてしばらく唸るように思案した後。
「……分かりました、虹華さん。僕、虹華さんの代わりにコスプレを――」
「何をさせようとしてんだあんたは!」
「ごぎゃっ!」
突如私の頭に振り下ろされた手刀。
背後に立っていたのは、親友たる霧だった。
「い、いきなり何すんの」
「そっちこそ何を口説き落とそうとしてんの。小野木くん、別に虹華の代わりにコスプレとかしなくていいから」
「いえ、でもコスプレをすれば真の男に――」
「目を覚ませ」
「んぎゃっ!?」
夕くんも霧の手刀の餌食となった。
「普通の男は女装コスプレなんかしないって。虹華も諦めて、自分の役目は全うしないと」
「んむ……仕方ない」
腕組みする霧に諭されて、私は渋々、諦めた。
「ごめんね、夕くん。変なこと頼んじゃって」
「い、いえ……でも虹華さん、そんなにコスプレ嫌なんですか?」
「ああ、コスプレが嫌なんじゃなくて……」
ずむっ、と霧のぼいんを指でつく。夕くんが、一瞬後に顔を真っ赤にして目を逸らした。
「これと比べられるのは同性としてちょっとね……」
「小野木くんの前で何をしやがるのコラ」
「ほぎゃっ!」
直後、若干顔を赤くした霧に、さっきより強めに叩かれた。
――そして後日、『コミックラフト』開催二日前。
「じゃあ、イベントの時用の衣装を隼太郎が仕入れてきてくれたから、お前らちょっと試着してみてくれ」
メンバー勢揃いの中、ヘッドの部屋で手渡されたのは、思っていた通りメイド服だった。……中峯さんって、平然としてるけど一体どこからこんなものを仕入れているんだろう……?
しかもスカートの丈が短い……うわぁ、これを着ちゃうのかぁ、と中々に憂鬱な気分になっていた私だけれど、一つ気づいた。
「あれ、ヘッド。これ一着多くないですか?」
「あ、ほんとだ。四着ある……それにこれだけ丈長いじゃん。なんで?」
霧が件のメイド服を持ち上げて、不思議そうにヘッドを見る。
「あ、もし余ってるんなら、せめて私にこれを--」
「却下。それ着るやつはもう決まってるからな」
「そうなんですか?」
まさか、『キラーハウス』七人目のメンバーが登場するのか――? と思った矢先。
霧が持ち上げているメイド服の下に、もう一つ何かが置かれているのを見てしまった。
それは、茶色い長髪のウィッグ。
……これは、まさか。
「…………あの、ヘッド。これなんですか?」
「カツラ」
「見ればわかりますよ。なんでこんなところに置かれてるんですか?」
「そりゃお前、必要だからに決まってるだろ――夕に」
「……………………えっ」
本気で想定外だったのか、短く放たれた夕くんの驚愕の一言は、思いの外低い声だった。
……どうやら、私が衣装を譲るまでもなかったようだった。
――そして、二日後。
私の人生初のイベントが、始まる。
コスプレからは逃げられなかったよ……的なお話でした。