第25話 黒原虹華のプロット相談 夕編
私は、今、頭を抱えていた。
「……っ、…………!?」
「虹華さん……」
不安げな眼差しを向けてくるのは、可愛い男の子、夕くん。
「……大丈夫、心配しないでここは任せて?」
私は笑って見せたが、夕くんは言う。
「いえ、あの……その問題、分からないなら飛ばしてもいいんですが……」
「だめよ! 絶対に解いて見せるからちょっと待ってなさい!」
――私の目の前には、夕くんの宿題である数学の問題集。
……なぜ夕くんの数学の問題集で私が唸っているのか。少々時間を遡る。
三時間前。
私と夕くんは、同人誌のプロットを立てるために集会所へ集合していた。
夕くんの推しキャラはセカンドという女性キャラ。
題材となる原作『ブラッディ・フール』に数多く登場する女性キャラの中でも、主に戦闘員として作品の雰囲気を引き締めているキャラクター。
主人公の相棒として戦闘時は常に隣に立っているが、武骨すぎるその性格や仕草、振る舞いから、あれだけ主人公に近い位置にいるにもかかわらず、ヒロインどころかサブヒロインとしても見られていない珍しいキャラだ。
……まあ、男らしさを求める夕くんには、どうやらその点がドツボに入ったらしいのだけれど。
さておき、そんなセカンドをヒロインに据えるというのだからこれはなかなか大変な作業じゃないか……? と思った私だったが、意外なことにすんなりと話が進んだ。
「セカンドって普段が男らしいし、あの二人が普通にデートするっていうのもちょっと違和感があるので、組織からの任務ってことにすればいいと思いません?」
原作でも組織からの無茶ぶりで、主人公とヒロインの誰かがデートまがいのことをするというシーンもちらほらあったが、確かにそれならデートせざるを得ない。
「じゃあ、部隊は他のヒロインじゃ踏み込めないような危険地帯とかにすればいいかもね。それなら組織がセカンドにデートさせるのも自然だし」
「ですね! それで慣れない女物の服を着て照れてるところとか……は、彼女の場合はちょっとないですかね」
「女物に慣れてないっていう点では間違いなさそうだから、まともに歩けなくて主人公に縋り付くとか?」
「おおー、不可抗力の密着ですね! 他には――」
その後もわいわいと盛り上がり、あれよあれよという間にプロットが完成した。
「思いの外すんなりできちゃったわね……」
「時間が余っちゃったのは、正直ちょっと助かりました」
夕くんのそんなセリフに首を傾げていると、彼が鞄から取り出したのは、夏休みの宿題と思しき数学の問題集。
「実は、まだもうちょっと終わってなくて……」
ちょっぴり恥ずかしいのか、問題集で口元を隠して、上目遣いになる夕くん。くっそ可愛いな……鼻血が出そうになるのを堪えて、私は言う。
「ああ、もう夏休みも終盤だったわね」
あと四日もすれば夏休みが明け、二学期が始まるのだ。
「虹華さんはもう済んでるんですか? 宿題」
「ふっ……愚問ね」
私はニヒルに微笑んで、夕くんにきっぱりと言い放つ。
「私が宿題なんてまじめにやるような人間に見える? あんなもの、多少期限を過ぎたところで大したことないわ」
「ダメな部分でも男らしい虹華さん……さすがです!」
どこに感銘を受けているんだろう。この子本当に大丈夫かな……と、らしくもなくお姉さん感を出してしまう私である。
ともあれ、夕くんは宿題をやり始める。今日の用件はもう済んでいるので、私も帰ってもよかったのだけれど、夕くん一人を残して帰るのも忍びないし、なにより夕くんと二人っきりというこの珍しい状況を、わざわざ棒に振るのももったいないと思ったので、私は『ブラッディ・フール』をさらに読み込むことにした。
問題集にペンを走らせる音を背景に、流し読みながらも一冊丸々読み終えたところで、夕くんの手が止まっていることに気づく。
「あれ、何か分からないところでもあったの?」
「えっと……はい。何か答えに違和感が……」
「どれどれ……」
読んでた『ブラッディ・フール』に栞を挟んで、私は立ち上がって夕くんの隣へ移動する。確率の計算問題だったけど……
「……これ、そもそも当てはめる公式が間違ってるんだけど」
「えっ、うそっ!?」
「うん。夕くん、覚え違えてるみたい。ここはね――」
ペンを借りて、問題集の端にさらさらと正しい公式を書く。夕くんがそれに当てはめて計算すると、あっさりと正しい答えにたどり着いた。
「虹華さん、すごいです! ありがとうございます!」
「……!」
お礼を言ってくる夕くんの笑顔がものすごく近くにあったので驚いた――よく考えてみたら、肩も触れ合う寸前だ。やばっ、急にドキドキしてきた……。
「……に、虹華さん、数学得意なんですか?」
「ま、まあ、こんなんでも一応理数系だしね。分からないとことがあったらどこでも訊いて?」
……まあたまたま今の問題が分かっただけなので、これはかなり見栄を張った発言とも言えるのだけれど、数学が得意寄りの科目であるというのは間違ってもいない。
よほど変な問題でも来ない限りは、十分対応できるはず……!
「あ、ちなみに虹華さん、この問題なんですけど――」
「うん、どれど――」
……うわぁ。マジか。
「……まあまあの難題ね」
「ですよね、僕いっつもこれ分からなくって……」
夕くんが示してきたのは、いわゆる証明問題というやつだ。
『ある数値をXと仮定して~』とか言う文章が出てくるあのクソ面倒くさいやつ。
…………説明の仕方が面倒なのよねぇ、これ……!
だが、夕くんの期待を裏切るわけにはいかないのよ!
「……五分もらえるかしら、夕くん」
自分の中の数学知識をかき集めて、脳みそをフルスロットルで回転させる。
さあ、勝負よ――!
……それから三十分後の光景が、冒頭のアレである。
夕くんの問題集を独占して早三十分、問題を解く糸口も見つかりそうにない。
「あ、あの、本当に大丈夫ですよ? ですからあの、そろそろ次の問題を……」
「ダメ! 今さら引くに引けないから!」
「いえあの、数学の問題一つにそこまでマジなトーンにならなくても……」
夕くんの言葉に、私は少し正気に返る。
考えてみれば、夕くんからすれば早く宿題を片付けたいだけの話だったのだ。それをあろうことか私が独占して、牛歩どころか一歩も進まないとなると、これは本末転倒もいいところである。
……さすがにこれ以上は無理か。
「ん……そうだね。ごめんね、夕くん。止めちゃって」
「あ、いえ、最初に頼ったのはこっちですから」
と、言いあったところで、玄関から扉の開く音がした。
「おう、お前らいたのか」
やってきたのは、ヘッドだった。バイト帰りなのか、日焼けした額には汗の粒が浮かんでいる。
「あ、ヘッド。お疲れ様です」
「お疲れでーす」
「プロット会議でもやってんのかと思ったら……何だそりゃ、宿題か? どらどら――なんか懐かしい問題が並んでんな。おっ、証明問題で躓いてんのか? こんな簡単なのに?」
文句をつける間もなく、ヘッドが問題集を奪っていく。そして聞き捨てならない一言を吐きやがった。
しかしそれを咎める間もなく、ヘッドはちゃぶ台の反対側に陣取り、解説を始めた。
「いいか、これはな――」
それからさらに二時間後。
私と夕くんは、謎の敗北感を抱えて集会所を後にした。
「……ヘッド、脳筋みたいなキャラのくせして、私があれだけ頭悩ませても解けなかった証明問題をあんなにさらっと……」
「しかも、ものすごく分かりやすかったですね……ちょっと驚きました」
あの後ヘッドは、夕くんの質問によどみなくすらすらと答えていった。私の立場がなさすぎて辛い。
「……帰ったら、数学の宿題でもやるかな」
なんだか紅茶の底に溶け残った砂糖のような消化不良感を覚えた私は、珍しくそんなことをぽつりと呟く。
遠くなりつつある蝉の声に、夏休みの終わりを感じながら。




