1.「重いの反対は重くない。ないなんてない。」
午前2時頃。大体これくらいの時間に雨水凉は寝ることが多い。寝る前に少し部屋でギターを鳴らして、呟くように歌って、絵を描いて寝る。それが基本的な流れになっていた。
その日の晩、もとい深夜にふと水樹の夢の話を思い出す。水樹が珍しく昔のことを自分から話したからだ。きっと大切なことだったのだと、改めて感じる時間。
「初めてか。」と一人部屋の中で呟く。その声は防音仕様のこの部屋からリビングでアレンジの音作りをしている水樹には到底届かないだろう。
凉が初めて音に触れたのは十歳の頃だが、その時は地味な音くらいにしか思っていなかった。しかし、その後出会い直した。それは実家の物置にという近すぎる場所にあった。当時十八歳、高校三年生。親の手伝いで、物置の整理をしていたときだ。
少し古めのフォークギター。迷わず手を前に出した。六弦から一弦に撫でるように優しく鳴らした。どうしてこんなに真っ直ぐに手が出たのか本人ですらその時は分からなかった。
綺麗な音だなというのが素直な、純粋無垢な当時の凉の感想だった。
そこからギターを弾いて歌うまでは早かった。学校へ行く以外の時間、ほぼ全てギターを弾いていた。音が鳴る度、凉の中で何かが弾けた。それは今まで生きてきた人生が、今そこにある日常が目に見えるような、そんな音だった。
凉の人生を変える衝動はふいに訪れた。
その日、いつものように学校から帰ってきてすぐにギターを弾いていた。その音に呼応するみたいに、声が零れた。それは次第に、勝手に、自然に旋律になり、歌になった。歌い始めると凉は止まらない。もとい、止まれない。ある種の快感に似たような、自分の中の黒いものを吐き出すように、絵を描くように、呼吸をするように、自分を切り取って歌った。
誰にも渡さない。この痛みは自分のものだと主張するように、次の日も、その、次の日も、歌い続けた。
そんな、ことが続いたある日。テレビで見た名のあるシンガーソングライターのようにするのはどうすればいいのだろうと、興味が湧いた。
別にプロになって売れたい訳じゃない。ただの興味本意だった。
マイクを使って、歌もギターもマイクで音を拾って、という一連の流れをやってみたかったのだ。インターネットで調べた下北沢のスタジオへ行ってみた。そこを選んだ理由は単純にレビューが良かったからだ。
行ってみると実際に店員の愛想も良く、機材の使い方も簡単に教えてくれた。
初めてマイクを通して音を出したときはほんの少しのリバーヴで感動した。今まで意識的に聞こえなかった倍音が聞こえたのだ。
そこからはその、そのスタジオへ週に一度のペースで通った。そして、その数日後に水樹と出会った。
それは予約していたAスタジオが空く30分前に到着してしまい、待合室で小さな音でギターを弾いていたときのことだ。その頃の凉は、現在程ではないが、24時間ほぼ作曲中ということもあり、コードに迷っていたら、話し掛けられた。
Fmja7というコードがある。それに、3フレット1弦のGを足すだけで。アドナインスというコードになる。さらに、2フレット3弦を開放したGと、3フレット5弦のCを足した分数コード。「この二つがあれば今頭に流れている旋律をもっと近い音で投影できるじゃないかな」と、水樹らしいアドバイスをした。
試しに鳴らして見ると世界が変わった。凉の絵に色が付いた。その日の晩、凉はそのコードを使って三曲を、書き上げた。
これが二人の音が、意識がシンクロする前の物語である。