11.「前兆、兆候」
都内某スタジオ。
表参道にあるこのスタジオはシャープロ御用達で、様々なアーティストがここでレコーディングをしてきた。練習スタジオは1階にあり、レコーディングスタジオは地下1階。ミリオンヒットを飛ばしたアーティストも中にはいただろう。
古びて、壁の色なんて変色している。PCや、DAW自体は最新のものになっているし、モニタースピーカーもきちんとチューニングされている。対照的に、音楽に関係のないもの。例えば、今僕が座っている椅子、目の前のテーブル、本棚なんかはかなりボロボロになっていて、いつ買い替えを検討されていてもおかしくない。
水樹はこのスタジオが好きだった。もともと、仕事で地下1階のレコスタにはよく呼ばれていたが、場所の雰囲気も初めから気に入っていた。なにより、その空間では水樹が持っている自分の音が出しやすかった。
さて、そんなレコスタのガラス一枚隔てた向こう側には、いつも通り、大きめのTシャツにショーパン。彼女の小顔からすればだいぶ大きく感じるヘッドフォン。オケを流して、さあ、今まさにその第一声が出んとするといった具合だったのだが、
「ふぁあ~。」
「凉、頼む。まず、目を覚ますところから始めてくれて構わない。だから歌ってくれ。」
「いや、ほんと。本気出すからもっかいオケ流して。」
「わかった。」
と、もう一度オケを流す。今度はきちんと歌い出したが、いつもと、調子が違う。
「ストップ。」
「…だよね。」
「お前、昨夜何してた。」
「銃撃戦?」
「阿呆!!!!」
完全なる寝不足である。
「仮眠取っとけ。えっと、他の録りきれてない楽器のレック先にします。」
中条がきょとんとする。
「えっと、録るって…」
「あぁ、ベースと、アコギとエレキです。ドラムとジャンベ、カホン、あと金物系はmidiで送ってたと思うんですけど。」
「いや、一応貰ったけどその、弦楽を弾く人が」
「僕が全部弾くんですよ?」
鳩が豆鉄砲食らったような顔をする。元より優しそうなおじさんという、印象を持つ中条の目が大きく見開く。
「予定と順番前後してすみません。じゃ、セッティングしますか。」
「OK。」
そう言うと、中条はリクライニングチェアから腰を上げる。それとほぼ同時に、凉がレコーディングブースから戻ってきた。
「毛布。」
「もうそこのソファに置いてる。」
「おけまるー。」
「二時間な。」
「おけまるー。」
「寝起きには、」
「リア◯ゴールド。」
「はいよ。」
いつもの掛け合いが終わった瞬間、凉は小さな寝息をたてて爆速で眠った。
「ほんと、こういうとこですよね。」
「ほんと、こういうとこですよね。」
中条が言う。ふと斉藤を見るとスケジュール帳とにらめっこで、会話に参加すらしていない。色んな意味で中間管理職な彼は無事に進んでくれればそれが一番幸せなのだ。見たところ、恐らく問題はRainy daysよりも他の現場のようだ。
「あぁ、凉は異端児だって事ですよね。頭のネジ取れてるんですよ。」
「いや、そうじゃなくて。」
「はい?」
「笠原さんも十分異端ですよ。」
「え、まさか?僕は善良な一般市民ですよ。」
「いや、雨水さんが悪いみたいになってますけど。」
「違います?」と何故かどや顔で水樹は返す。
「僕が言いたいのは、水樹さんの能力を妥当に評価しているってこですよ。今まで何百というレコーディングに携わってきて、同じだけミックスマスタリングも経験してきた。そんな僕だから、気付いたんだ。」
「いや、ほんと僕はそんなんじゃないですって。」
「この機転も含めて僕はそう思うんですよ。いや些細なことを拾うときりがないんですけど、雨水さんについていけるのが、むしろ同じ速度で歩めるのがその証拠でしょうに。」
「いや、僕はあいつほど頭ぶっ飛んでないですよ。」
「じゃあ一つ聞きたいんですけど、Rainy daysの売りってなんですか?特性でもいいですけど。」
中条は答えの分かった質問を確認作業のように
「意識の、シンクロですけど…」
「じゃあ、そういうことなんでしょ?」
返す言葉がない。凉のことを異端児、異端児と言っていた自分は、彼女と意識をシンクロさせていると明言しているのだ。
「僕は、」と、水樹はそのあとの言葉が出ずに「すいません。何でも無いです。さ、仕切り直しましょ。」と無理矢理話題を変えた。