10.「それは突然の嵐のようで」
新宿駅から丸の内線でおよそ15分程で東京都杉並区、中野富士見町駅がある。そこから徒歩三分で水樹と凉が住むタワーマンションがある。杉並区なのに、中野富士見町駅である。新宿まで乗り換えがなく、アクセスもよいのになかなかに住みやすい。閑静とまではいかないが、それなりに静かで、東京でよくある人が冷たいと感じることもない。スーパーも近くにあり、駅前にはそれなりに安くて美味しい回らない寿司屋もあるし、大手牛丼チェーン店や、ファーストフード店もある。水樹達が生きていくのになんの不自由もない。買いに行くのや、自炊が面倒ならば、いっそのこと宅配ピザや宅配弁当もある。
便利すぎる環境により、今のニートクリエイターが生まれたのだ。そのタワーマンションの隣が今日は朝から騒がしい。騒がしいといっても、水樹達の部屋は防音使用にリフォームされているので、実際に気が付いたのは水樹がネット通販で購入したPCのキーボードが届いた際に開けたドアから聞こえたときだった。
隣の部屋には0120から始まる電話番号が記載されている段ボールが作業員の流れるような動きで運ばれており、それを見てやっと、誰かが隣の部屋へ新しく入居するのだと理解した。
「凉、隣に入居する人がいるよ。」
「へー。どんな人?」
「いや、まだ見てないけど挨拶行った方がいいかな?」
「いや、なんでだよ。普通来るなら向こうからくるでしょ。ほら、菓子折りくらい包んでくれるんじゃない?」
「東京の人は冷たいから、挨拶行って怒られるのも嫌だしね。」
「水樹も今は東京の人じゃん。」
「僕、根は九州人だからさ。」
「いつ東京に来たんだっけ?」
「家庭の都合で、4歳から?」
「もう、九州は諦めて。」
「おい。」
等と、いつも通りの会話をしていると、インターホンが鳴った。
「はーい。」
と、液晶を見ると、とんでもなく怖い顔をした男がいた。
「・・・。」
無言で、インターホンの画像を消す。音声もミュートをかける。
「凉、なにして遊ぼっか。」
「今の、一連の動き見てたからね。大丈夫、落ち着いて。私も同じことすると思う。」
しばらく無視しているとドアをどんどんと叩く音が聞こえる。
「すいませーん。すいませーん。」
何故かすいませんしか言わない男。さらにとても低く、やたらと響く。それがやたら怖かった。
「・・・お隣さん・・・だよな?」
「もう、殺される覚悟で出てみなよ。私はそれ見てるから。」
「・・・。」
お隣さんならばまた会う機会は必ずあるだろう。今、シカトして、あとで今よりもドアのノックがエスカレートして、ドアドンになったら大変だ。水樹は決意を固める。
「よし、ドア開けてくる。」
「今、水樹に出会って一番頼りにしてる。」
玄関へ行き、一息ついて、ドアを開ける。
目の前には先程のとんでもなく怖い顔をした男が召喚されたばかりの悪魔のように立っていた。
「あ、あのー。」
気合いを出してやっと出た言葉だった。それ以外の言葉はもう、出てこない。向こうの出方を伺う迄だ。
「お忙しいところ、突然すみません。」
至極常識的なその一言に面食らった。
「今日から、隣に入居することになった黒川です。」
「ご丁寧にありがとうございます。笠原です。」
「知っていますよ。」
「え、」
背筋が凍る。新手の殺人鬼だろうか。人間、突然思考が停止すると世界がみるみる色をなくしていくが、水樹の目はまさにそれだった。
「斉藤さんから伺ってます。」
低い声が響く。知らない人間が自分の所在地を知っている。それもこんな怖い顔の男が。
「え、斉藤さん…が…僕のことを…殺そうと…」
「えぇ、親切に教えて下さいまして。あ、そうだ。これを…って、え!?殺そうと!?」
黒川は小さい箱を顔面蒼白な水樹に差し出そうとするが、水樹は謎の恐怖によりフリーズしている。さらには「殺そうと」という謎のフレーズにより黒川の脳内もフリーズしている。
「ねぇ、二人ともバカなの?」
全てを後ろから黙って見ていた悪魔のような天使によって収拾がついた。
*
水樹達の自宅兼スタジオ。
「てなわけで、ペンギンから私たちのことを聞いていたと。」
「はい。自分の顔が怖いのは重々承知なのですが、いざこんな形で恐怖を絵に描いたような表情をされると私自身も硬直してしまいますね。」
淡々と話す黒川に水樹は気まずい顔を隠さずにはいられなかった。落ち着いていればよかっただけの話なのだ。顔が怖いからという理由で妄想を膨らまし、失礼な態度を取った。考えれば考えるほど、失礼な行動である。
「で、シャープロなのは分かったけど、黒ちゃんは何する人なの?」
先ほど、黒川から「私もシャーププロの人間です。」と入館証だけ見せてもらった以外、何も聞いていない。
「あの、笑いませんか?」
「笑いません。」
間髪いれずに、水樹が誠意をもって返事をする。
「私は、声優です。」
「「…。」」
水樹に笑う余裕はなかった。凉は「くっ」となんとかギリギリで踏みとどまっている。
一拍置いて、水樹は気付けた。
「あ、今度のアニメの?」
「あ、そうです。オーディションに受かったその日に、住んでいたボロアパートが火事になりまして。」
「…。」
「そしたら、斉藤さんが格安の寮があるとのことでしたので、こちらに。」
「なるほど。よかったのか、悪かったのか…なんとも言い難い。」
一つ気になるキーワードが。
「あの、今寮って言いました?」
「えぇ。Rainy daysが住んでいる両隣はシャープロの寮になっていると、斉藤さんから伺っています。」
「へぇ、そんな売り文句が…。」
凉は斉藤へ電話をかけているスマホを水樹に渡す。
「もしもーし。凉さんから掛かってくるなんて珍しいですね。どうしました?」
「笠原です。今、黒川さんもいます。」
「お、早速仲良くなれましたか!」
「立派な寮だと伺ってますが、隣にRainy daysが住んでいるという売り文句付きだそうで。」
「え、えぇ。はい…。」
「個人情報って言葉知ってます?」
隣で他人事のようにけらけら笑う凉。やっと自体を把握した黒川。
「ギャラ三割増しでお願いします。」
「そ、それだと今年度の予算的に…」
焦るペンギン。
「大丈夫です。増すのは休暇の方です。」
「職務放棄じゃないですか!」
「こっちは個人情報売られてんだ!そんくらいは許されるはず。」
「前向きに検討します…。」
「ええ、是非善処してください。それと、」
「は、はい。なにか?」
焦るペンギン。売名行為以外にも聞くべき事があった。
「寮と伺ったんですけど、他にも何名かシャープロの人が?」
「あ、はい。右隣には黒川さんと、もう一名の男子寮。左隣はまたこちらも声優さんや、今回のシナリオライターさん等三名が住む女子寮になります。」
「また、僕らの生活が脅かされていくと…。」
「いや、そんな毎日パーティしてるみたいな言い方やめてくださいよ。め⚫ん一刻じゃないんですから。そのうち挨拶にでも行くと思うんで挨拶だけでも社会人風にやり過ごしてもらえませんか?」
「はあ…。」
イエスともノーとも取れない返事をして電話を切った。
「聞いてた?」
「聞いてた。」
「両サイドを会社に囲われた挙げ句、個人情報を売られたみたいだ。」
はぁ、と三人とも大きなため息が出る。凉、水樹は先日の疲れが癒えていないのだ。そして、黒川は引っ越し疲れ。
「あの、黒川さん。他に入寮する方ってどんな方なんですか?」
「私が一人目のようで、他の人は会ったことも、どんな方かすらも分からないんです。」
「よくそんな怪しげなとこに住もうと思いましたね。」
「必死なので。」と真っ直ぐな瞳で言い切る黒川の瞳を水樹は真っ直ぐ見れなかった。怖いから。
その後、黒川の今までの顔に対する苦労話等を聞いて、「じゃあ、僕はこれで。」と黒川が帰ろうかというまさにそのとき、再度インターホンが鳴った。
「あ、今度こそ僕のネット通販か。」
この声に被せるくらいのタイミングで
「すいませーん!隣に越して来ました三ヶ尻でーす!!Rainy daysさんいますかー!!」
「「「…。」」」
なんとも言えない沈黙。先陣を切ったのは黒川だった。
「こ、ここは僕が!!」
冷や汗をかきながら立ち上がろうとする姿はさながら幕末の敵将のようだった。
「黒ちゃん!相手失神しちゃうよ!」
「なんか、女性に言われるとかなり精神的に来ますね…。」
今まで苦労してきた割には打たれ弱いようだ。
「仕方ない、普通に僕が出るよ。」
この家では基本的に凉が出ることはない。例外としてはピザを頼んで30分以内にインターホンがなったときのみ出るのだ。それ以外で水樹が用事でいないときは出ない。
というわけで、今までそうしてきたように水樹が立ち上がる。ドアを開けると元気そうな綺麗な女性が立っていた。これでリクルートスーツでも着ていれば完全に新卒の求職者だ。
「おはようございます!シャーププロダクション所属!三ヶ尻花火です!!」
「…あ、笠原…です。はい。」
「すみません、Rainy daysのお二人はいらっしゃいますか?ご挨拶をしたいのですが。」
色々と言いたいことを押さえる。
「あのね、三ヶ尻さん。Rainy daysに会わせるのはもちろんいいんだけどね、」
「ほんとですか!!!」
「…あ、あのさ。」
「はい!いかがなさいました?」
「少し声を小さくしてくれる。」
本当によく通る声だった。
*
三ヶ尻を連れて部屋に戻ると、二人はスマホアプリで麻雀をしていた。
「うぉ、黒ちゃんやるじゃん。」
「いえいえ、僕なんてまだまだ…リーチ。」
「ひー。その顔でリーチとか言われるとすごい怖いけど。」
「ですから、顔の事は…」
「じゃなきゃ水樹の連れてきた女の子がそこで棒立ちで硬直しちゃうよ。」
「え、」
時既に遅し。三ヶ尻の目には可愛らしい女の子が怖い男にマージャンを強要されているようにしか映らない。
「あ、三ヶ尻さん。あの怖い顔の人が今日から男子寮に住む声優の黒川さん。その隣の顔が綺麗な子は凉。Rainy daysのボーカルだって言えば説明はいらないよね?」
「笠原さんは黒川さんと男子寮に?」
「ぶっ!」と凉が吹き出すのが聞こえたが、聞こえないふりをする。
「いや、僕Rainy daysの水樹。作曲以外の全部やってる人。」
「え、」
三ヶ尻は再度硬直する。基本的に顔出しをしていない為、よくある反応だ。水樹という名前からもよく女性に間違われる事がある。
「こ、こんな方だったんですね。」
「まぁ、よく驚かれるよ。」
「えぇ。オーラないですもん。」
「凉、僕少しトイレに籠ってもいいかな。」
「その時間、何にも生まれないけど大丈夫?精神的コスト消費半端ないよ。」
「はぁ…。」と大きなため息をついた。オーラがない、地味、目立たない、等々。今まで言われた事はあるが、全て綺麗にネチネチした水樹の胸に刺さっている。このデリケート過ぎる内容においては慣れるということはないのだ。
「あわわわ…。私、とんでもない事をいってしまいました?!」
「大丈夫。花火ちゃんが思ってる数倍ヤバいから。」
「それ大変じゃないですか!」
三ヶ尻にフォローを入れるどころか、火に油を注いで遊んでいる凉はとても楽しそうだ。
その隣で水樹は「あは、はははは」とヤバい人オーラ全開で放心状態だった。
「こうなると三日は仕事が出来なくなるのが水樹の弱いとこ。」
「三日も!?」
「プライドが高すぎるからこうなる。」
「では、」
黒川が突然水樹の両肩を正面からがしりと掴む。
「笠原さん!!お気を確かに!!!」
「うぉ!!!怖ぇええ!!!!」
水樹が一瞬にして夢うつつから現実に帰ってきた。
この時、シャーププロダクション本社では何処からか迷い混んだ猫を探して斉藤、副社長のチームお転婆おじさん達が奮闘中である。
場面は戻り、時を同じくして、凉は目を見開き硬直していた。
「み、水樹が…水樹が、還ってきた…だと?」
その言葉に水樹含めその場の全員が硬直していた。
「黒ちゃん!凄いよ!」
「え、あ、はい?」
「黒ちゃんはユニークスキルを持ってたんだね!」
興奮する凉の言葉を中々受け止めきれない黒川である。
「いや、僕復活というか引っこ抜かれたマンドレイクみたいになってっから。」
「いいじゃん。ほら、時短でさ?」
「三日で自然治癒なのが寿命縮めて復活とかどこの少年誌だよ。」
二人がいつものやり取りをしている中、気まずそうに「あのー…。」と三ヶ尻が切り出した。右手は掌を上にして、賄賂でも差し出すようだ。その指先の向こうには黒川が俯いている。
「うぉ!!!!やっぱ怖ぇええ!!!!」
この顔をみたら叫んでください、という新手の遊びならばかなり上手くいっただろう。
「…やっぱり怖いですよね。」
「黒ちゃん落ち込まないでよ。余計怖いよ。」
「おい、凉。追い討ちはやめろ。」
その後、なんとか一段落して黒川は寮へ戻った。このあとレッスンがあると言っていたが、彼が発声練習をしている様は恐らくとてつもなく怖いと思う水樹であった。
「で、三ヶ尻さんはうちの隣の女子寮に入るんだよね。」
「あ、はい。今回のプロジェクトを機に、人員の大幅な増員をするらしく、それの第一陣というか、そんな感じですかね?」
絶望したような目をして「…まだ、増えるというのか。」とぼそっと呟く水樹である。
「ねぇ、ハキハキ喋る花火ちゃんは声優?」
「はい!…ただ、私の場合は黒川さんの場合とは違いまして。」
「それってどゆこと?」
「黒川さんの場合は声優の養成所に通っていて、そこのオーディションに受かって、そこから今に至っています。
「あ、じゃあ三ヶ尻さんは養成所とか行ってないんだ。」
「そうなんです。私はインターネット上の声真似投稿サイトで投稿し続けたら副社長さんが私にメールをくれて。」
あの人ならやりかねない。そして、あの人はそういう素人投稿サイトにはらわ会員してそうだ。と二人が思考をシンクロさせた。
「初めは、詐欺かな?とか思っちゃったんです。だって、あのシャープロですよ?しかも、Rainy daysさんと同じマンションの寮つき。」
「それは、一旦置いておこう。あのさ、三ヶ尻さんは何で声優になりたかったの?それとも、趣味が偶然実った感じ?勝手なイメージだけど、芸能とかクリエイターとかそういう特殊な仕事って専門学校や養成所に行ったりするものだと思ってた。」
素直な疑問だった。
「あ、うち貧乏なんで。」
素直な返答だった。
「今も派遣社員としてコールセンターで働いてますし、生きていくために働くのは普通だと思ってます。」
「花火ちゃんは働くのが好きなの?」
プロニートである凉の質問は重みが違う。しかし、ししせ
「働くのは正直、嫌い…でした。」
「今は?」
「嫌いではなく、好きに近いけれども、普通ですかね。なんか、日常になってしまって。えっと、例えばなんですけど、凉さんって呼吸するの好きですか?」
「んー。なんとも、当たり前にやってることだし。でも、花火ちゃんが言いたいのはそういうことでしょ?」
「はい。私にとって、今月曜日から金曜日まで、9時から17時まで働くこと。金曜日のお昼休みには、今週も頑張ったなーとか、土日が待ち遠しいなって思うのも、全部日常なんです。だから、日常に好きも嫌いも、ましてやその枠組みすら無いんです。」
「その歌詞いい曲じゃん。」水樹がそう思った瞬間に凉はもう口にしていた。
部屋の隅、本棚の上にあるデジタル時計をみると「あ!日用品買いにいかなきゃ!そろそろ失礼します!」と初々しい隣人感を出して疾風の如く去っていった。
「なんか、急に静かになったね。」
「さっきがうるさすぎたんだよ。まぁ、でも人が集まって来てるってことはさ、製作が進んでるってことなんだろうな。」
「私はもうやること終わったし、あとはAmazanで何か物色しようかな。」
「いや。」
「なに?」
「僕はまだ編曲だったり、ミックスだったりと仕事が残ってるけどさ、」
「存じておる。」
「凉、この前のあれ、仮録りだからね。あと、若干の修正もあるからまだまだ歌録り終わってないよ。」
「え…。」
絶望した顔。これ以上開かないだろうというくらい目を見開いている。凉はそれらが受け止められないのだ。
「…げたい。」
「え?」
「逃げたい。」
あまりに現実逃避し過ぎるあまり口に出てしまっていた。
「ちょっとボストン行ってくる。」
「いや、お前本当に行くだろ。やめろ。」
「私が本気じゃなかったことなんてないよ。」
「浮気相手の振られる直前みたいな台詞やめなさい。」
「わかった。今回はこの前の水樹の頑張りに応じて、やってあげる。」
「え、ほんとに?」
いつもに比べてあまりにも協力的過ぎる凉に気が抜けてしまった。
「私もいつまでも子供じゃないし。」
「うんうん。」
「どう頑張ったら最終的に今より働かなくていいかくらいは分かるよ。」
言っていることは少しどうかと思うが、今日はえらく聞き分けがいい。凉も大人になったなと水樹が安堵したまさにその時であった。言葉はブリッジされる。
「再来週から頑張るわ。」
「おい。」