第一高校 立花宗の物語 第二章
動き出した四つの光は、冷たい氷を溶かしてゆく。
五月の風は蒼みを帯びていると思う。
春でもなく梅雨でもない。まして夏でもない時期の少し大人びた美しい空気。そんな五月を俺は割と気に入っている。
市民大会は六月だ。その間の大切な一か月、目下の目標は唯一の一年生である怜の強化である。
怜は俺たちとは少し特質が違っていた。何というか、加速が早い割にそれが長続きしないのだ。じりじりとペースを速める弘人や、一定のリズムを体内で構築できる賢介とは明らかに違う武器。お飾り顧問しかいなくて練習メニューも自分たちで決めているような環境で、その武器を考える余裕はあまりにも無かった。
「とりあえず怜は体力じゃねえの?体力ガンガン付ければ無敵だろ」
弘人はタイムの集計結果を眺めながら腕を組んでいる。そこにひょいっと覗き込んだ賢介は、少しだけ苦い顔をした。
「……どうかな。そんな上手く体力を付けたままスピードを維持できるとは思えない」
その言葉にむっとしたのか、弘人が賢介に向き直った。顔は般若のようである。そんな二人に慌てて割って入ったのは怜である。
「落ち着いてくださいよ! とりあえず体力、人並みにつけられるように頑張りますから!」
泡を喰って急き立てる怜の言葉に黙り込む弘人と賢介。一堂に微妙な空気が流れるのが嫌で、俺は部室の外を指さした。
「トラック、陸部に借りるのはどうだ?そこで一旦タスキ練習に切り替えるとか。互いにフォームを見たら、また見えることもあると思う」
何とか妥協案を出せたと思ったが、返ってきたのはどこか釈然としなさそうな微妙な反応だった。賢介はどこか困ったように眉尻を下げて、学校から配布されているトラック使用割り当て表を指さした。
「この後ずっと陸部の割り当てだしなあ……。それに、俺たち陸部から白い目で見られてんの、お前も知ってるだろ?」
「そうだぜ。まあ、はっきりと言ってこないだけだわな」
賢介に同調するように弘人も苦言を呈する。怜は何も言わなかったけれど、その表情から二人と同じ気持ちであることが読み取れた。
第一高校陸上部は、多岐に渡る種目で好成績を残している伝統ある部活だ。そのことに誇りを持っている選手が多く、ぽっと出の駅伝部をどこか見下していることは何となく感じ取っている。
それでも俺は、万全の状態で試合に臨むべきだと思うのだ。
「なるべく早く怜の方向性について考えるべきだと思う。どうせ毎日陸部が使ってんなら、いつ借りても構わないだろ」
俺はすうっとトラックを指さす。
そこには使われていないスペースがあった。そこなら簡単なフォームの確認くらいならできるし、タスキの練習なら十分な広さである。
「……分かったよ」
賢介は諦めたように笑う。こいつは本当に昔から、何だかんだと受け入れてくれる。その優しさに甘えてしまっている部分もあるが、今はただそれが有難かった。
「あそこの部長はもう二年がやってんだっけ。一応、話に行ってみるか」
行くぞーと間延びした声に弘人と怜が威勢よく返事をしている。俺も行かなければ、と足を動かしたら、若葉の爽やかな香りを感じた気がした。
「……というわけで、少しだけでいいから貸してほしいんだけど」
四人で陸上部部室まで行くと待ち受けていたのは、二年で部長になったばかりの神崎一だった。神崎は突然の俺たちの訪問に怒ることもなく、にこにこと笑いながら話を聞いてくれている。一通り話し終えるとパタリと目を閉じた神崎は、何を考えているのか。
「なるほどね。話は大体分かったよ」
静かなやつだと思った。何を考え、何を思っているのか分からない笑顔。
「好きに使ってくれて構わないよ。何なら、これからも使いたい時に使っていいし」
「え!?それは流石に申し訳ないよ」
いきなりの提案に面食らった賢介は、腕をぶんぶんと神崎の前で振って見せた。それでも神崎の笑顔は崩れない。
「見たでしょ?トラック」
「え?」
思わず声に出したら、神崎と視線がかち合う。その瞳はどこか冷え切っていた。神崎はすぐに笑顔を浮かべ直して続ける。
「俺が部長になってから、だね。あんまり上手くいってないんだ。だから使われてないトラックが出てしまうんだよ。でも、使われないなんてトラックが可哀想だろう?」
神崎の声は雨のようだった。しとしとと空気に調和するような静けさの中に、地を叩きつける強さを持っている。そんな静かな雨の中に傘を差したのは賢介の陽だまりの様な声だった。
「でもそれなら貸したりなんかしたら、神崎の立場が悪くなるだけだろ」
「へえ、さっきまで借りたいって言ってたのに?」
「い、いやそれはそうなんだけど!」
「ははは!ありがとう。気遣い嬉しいよ。でも、使われないトラックが出て練習に無駄が出てしまっているのは、完全に俺の落ち度だよ。駅伝部の皆さんには関係のないことだ。だから気にしないで。俺は大丈夫だから」
神崎はにこりと寂しそうに笑った。部室には神崎以外の陸上部はいない。だからか、部室が神崎を守る要塞のように感じられる。
「ありがとう。しっかりと使わせてもらう」
賢介が頭を下げるのに習って俺たち三人も頭を下げる。神崎は困ったように笑って、頭をあげてくれと頼んでいた。
「俺もたまにそっちの練習見に行っていいかな?駅伝って面白そうだよね」
「ああ」
自分でも驚くくらい声が滑り出た。少し驚いたように怜が俺を見ているのが伝わる。それでも俺は神崎のひんやりした瞳を見つめ続けた。
「駅伝は、楽しい。今はお遊びでしかないけど、ちゃんとした場所で走りたい」
「へえ、そっか。じゃあ尚更、しっかりとこの目で見なきゃいけないな」
神崎の声はどこまでも静かで穏やかだった。でも少しだけ、ほんの少しだけ弾んでいたような気がする。いつか神崎が競技をしている姿を見てみたいと思いながら、陸上部部室を後にした。
どうもどうも甘夏みいです。また一人増えました。彼は今後重要な立ち位置なので、心に留めておいて頂けたら嬉しいです。連続で失礼しました。これからどんどん人物の人柄や走るときの特徴を明らかに出来たらと思います。次話投稿難しい……!!