黒忌と呼ばれる王子(4)
タン、と空気を揺らすのは、千夜の軽い足取りだった。
つま先で地面に降り立ち、それを軸に回転する独楽。袖をまるで炎のように揺らしては、空に図形を描いていく。
暗がりの中庭。千夜は煤色の髪をひっつめたまま、みすぼらしい服装で袖を振る。練習用に袖は長いものを羽織ってはいるが、それだけ。その髪に、金の簪が揺れることはない。いつものとおり、なんでもない千夜の姿のまま。
シャラリ、と杖を振っては調子をとる。
村を襲われたあの日から、この舞を踊らなかったことはない。
これは鎮魂。望む生をまっとうできなかった、仲間たちへと手向けるもの。
幼い頃から祖母に教え込まれた踊りに、不思議な力があると知ったのはいつだったろうか。
『白紋を描くのよ』――踊りとともに、祖母がつぶやいていた言葉を思い出す。
絵を描くように、と彼女は言っていた。
奇しくもその本当の意味を知ったのは彼女を失ってからだったが、これは千夜の家に伝えられてきた踊り。あの村の――しかも族長を継ぐ者のみが知り得たのだと、今は理解している。
村の中でも、族長である千夜の家は特殊だった。
人口は二百に満たない小さな村だったが、長である祖母に対して、誰もが敬意を払っていた。そして、その孫娘である千夜にも。
思い出すたび、胸が苦しくなる。
宙に描く紋様は、千夜の内腿に宿った紋様によく似ている。炎にも見える部分を抜き出し思い描いては力にする。
こんな場所で力を発動させても仕方がないから、身体が鈍らないようにする動作確認と体幹を鍛えるに過ぎない。一日でも休むと身体が思うように動かなくなる。だから決して休むつもりもない。
くるくると回転して、やがて足を止める。
夜の帳の中、暗がりの中庭は静か。
観客も何もないひとり踊りだったはずなのに、後ろからパンパンと手を叩く音が聞こえてきた。
振り返ると、見覚えのある男がひとり。
紫ががった黒髪は短く、不恰好に切りそろえられている。ひょろりとした長身で、細いタレ目がますます細められ、にたりと笑っては千夜に近づいてきた。
「見ていたのか、ええと――梧桐」
「覚えてくれてたのかい、お嬢さん」
調子良さそうに頭をぽりぽり掻きながら、彼は適当な岩に腰掛ける。
ああ、今日も疲れたよー。と大仰にため息をついては、ぐったりと肩を落とした。
「あ、良かったら、踊り。続けて続けて? それ見に来たんだからさァ」
「えっと、でも今日は――」
「そー言わずにさァ。ほら、先日の戦で護衛したさ、お礼だと思ってさァさァ」
もう終わり。そう言おうとしたのに、梧桐はそれを許さない。
調子よく千夜を持ち上げては、先に拍手までする始末。
先の戦。央蛇での戦いでは、夏絶に命じられて戦場で千夜に付き添ってくれたのは、彼と、彼によく似た娘だった。
顔立ちや態度からおそらく兄妹だと推測できたが、兄の方は口を開くとこうなるのかと目を丸くする。
戦場でも、この屋敷にいる時も、夏絶の仲間たちとは一定の距離を置いていた。というより、距離をとりあぐねていたというのが正しい。
戦場では、千夜は白麟――王の養子として参戦しているのもあり、気軽に彼らと接することはできなかった。だからこそ、千夜となったとき、どんな立場で居たら良いのかと戸惑う。
しかし、きっと梧桐には今後も世話になるのだろう。仕方ないかと息を吐き、千夜はその杖を彼に渡した。村の踊りを踊らぬのならば、杖は必要ない。
代わりに、両腕をそっと上げる。
せめて戦のときとは別物の、都で覚えた踊りなどどうだろうと、長い袖を振っては、空気を揺らす。
静かな中庭。楽の音も何もないのに、千夜が風を切る調子は心地よく響いた。
ひとさし舞うと、再び惜しげもない拍手が響く。
梧桐は満足そうに立ち上がり、いやあ、贅沢だなぁ、と感嘆した。
「ひらひら衣装じゃなくても、なかなかどうして色っぽいじゃない? 流石に上手だねェ」
「ありがとう」
梧桐の褒め言葉が新鮮に感じる。
白麟と違って、今の千夜はみすぼらしい小間使いのような格好をしている。それでも褒められるのは、立場でなく、純粋に踊りを楽しんでもらえた気がしてこそばゆい。
「あっ。俺、こんな態度だけどダイジョブ? 後で首跳ねられたりとかしないよねェねェ?」
「ははは、ないさ」
「そ。なら良かった。ええと、千夜ちゃん、で良いよネ今は?」
「そうだな。少しくすぐったいが」
千夜は少し恥じらったのち、服の袖で額を拭う。幾ら夜は気温が下がるとは言え、今は夏。激しく踊りを続けていては、汗くらいかく。
ふう、と深呼吸していると、彼はじっと千夜の髪を見ているようだった。
「今日はくくったままなんだ?」
「え?」
「ほら、ぼさぼさしてたじゃん」
彼はくいと、手で千夜の髪形をかたどっては、ねぇ? と小首を傾げる。
「不思議だったんだよなァ、あの姿のとき。とても綺麗な恰好をしているのに、髪だけああだから」
「そのことか」
「お肌の手入れにしてもそうだし、君が服の下につけてる装飾品も、かなり良いものでショ? 普段は地味を装ってても、相当気をつけてるようだしネ?」
よく見てる、と、千夜は思った。
ちゃらんぽらんな印象を見せながらも、押さえるべきところは押さえている。
「なのにその髪。切って整えたりしてないでショ? 都にいた時も、ずーっとそれだったの?」
確かに、千夜の髪形は姫君どころか貴族らしくもない。
男性もそうだが、長くて整えられた艶のある髪というのは、地位を示すためには必要不可欠なものだ。
長さと艶だけはあれど、のばしっぱなしの整えられてない髪は、異様だ。
見せつけるように、千夜は髪をといた。
ばさりと重たい量が、彼女の背中に落ちる。煤色をしたそれは、野暮ったく、重たい印象だが、ざあっと風が吹いては彼女の髪を巻き上げる。
「天が切るなと仰せでな。鬣、なんだそうだ――」
白麟。
その名を与えられたときから、髪を整えることを禁じられた。
白の紋様をこの身に受けたときから、千夜は雷王の奴隷。人にはあらず、獣のようなもの。
都に連れて来られたあの頃は、彼に抗い、噛みつき、心身ともに獣のようだった。
それでも――いつしか復讐するよりも彼を利用した方が、望む未来を手に入れられると気がづいた。それは、彼に引き取られてから何年もしてからのことだったけれども。
それでも、雷王が仇であることは、何ひとつ変わらない。
だからこそ、千夜にとっても、これは戒めだ。獣の己を忘れないという戒め。
「女の子が恐い顔しちゃってまァ……」
腰を落とし、下から覗き込むようにして、梧桐は呟いた。
まるで感情を見透かされているようだった。
細い目から覗く紫黒の瞳。底の見えない静けさに、千夜は息を呑んだ。
「夏絶様もずいぶん君のこと気に入ってるみたいだけど――どうするつもりだい?」
そのまま彼は、静かに問う。
雷王の話を持ち出して、己の立場をわからせたとでも言うのだろうか。
「どうもしないさ。わたしの事情は知っているのだろう? わたしはもう、天のもの。王奴としてこの戦に参加しているだけだ」
「今日も夏絶様と逢瀬に勤しんでおいて?」
「おうっ……違うっ、あれは!」
やはり昼間のことはしっかり見られていたらしい。
屋敷を出るまでも、一悶着あった。怒鳴り散らしていた千夜の声が、屋敷中に響き渡っている可能性を考えると、なんとも気まずい。
「今日だって、怒って帰って来ちゃったのは知ってるよ? でもさァ、だとしたら、厄介な方に気に入られちゃったよネ」
「……」
「――あのヒト、気位が高いわりにめちゃくちゃしつこいからネ? 特に欲しいものはとことん粘るヒトだから覚悟した方がいいよ。経験者は語るってヤツ」
「いやいや、マズイだろう。流石に、わたしは……」
「それでもやめないと思うなーあのヒトってば。早いとこ覚悟しといた方がいいってのが、俺の忠告かな」
「一体何を覚悟するって言うんだ」
「え? そんなの、決まってるじゃん」
彼の表情から笑みが消える。じいと千夜を睨みつけ、容赦なく凄味をぶつけては、飾ることなく率直に伝える。
「雷王様と夏絶様。どちらにつくか、早めに決めた方がいい」
「な――っ!?」
まさかの二択に絶句する。
しかし、そんなことを問う方も馬鹿らしい。
元々千夜は雷王のもの。立場的に言っても、夏絶につくなど有り得ないと思うのに。
「雷王様につくなら、早いところ都に戻ることを勧めるね。今ならまだ間に合う」
「莫迦莫迦しい!」
「って思うでショ? ところがどっこい、油断してると危ないよー。千夜ちゃん、絶対絆されるから」
まさか、と口にするが、実際千夜の心は揺らぐ。実際、彼と出会ってから振り回されてばかりだ。
夏絶の目的が“白麟”の力であることくらい自覚している。それなのに、彼は白麟でなく、千夜の姿ですら態度を変えない。
千夜の状態で甘やかされるのに慣れなくて、どう反応すればいいのか度々わからなくなる。
「俺たちは夏絶様に賭けてるからネ。君が悪い子じゃないのはわかるけどさ、心配ごとはなくしておきたいワケ。理由はホラ、わかるでしょ?」
梧桐の言葉に、千夜も頷く。
夏絶にも直接注意を促したほど。千夜は雷王のもの。それに手を出そうなど、狂気の沙汰でしかない。
それなのに、夏絶は、手を出すのだ。
――まるで、天に抗うのを恐れぬように。
「ほーんと、雷王様ったら。わかっててやってたとしたら、えげつないよねェ」
「え?」
「父子の好みが似ること、よくわかってるんでショ」
そう言い残して、梧桐はくるりと背を向けた。
ひらひらと手を振りながら、千夜の前を去っていく。
思わせぶりな彼の言が引っかかるが、千夜はただただ見送ることしか出来なかった。
梧桐の忠告を胸に、夏絶と距離を置く。――そう決めてから数日。
悶々とした日々を過ごしていたが、ある時、夏絶の屋敷に伝令が訪れる。
届けられたのは、新たな任地を知らせる書面。
皆の前で、夏絶が読み上げたとき、戦場とはまた違った緊張感が漂い、誰もが表情を強ばらせた。