黒忌と呼ばれる王子(3)
今すぐ見られる状態にする。あまりにも馬鹿げた物言いに、千夜は気が遠くなる。
ちょっと待てとついつい口にすると、呉服屋の主人がギョッとした。ためらいもなく夏絶に意見したことに震え上がっているようだ。
「わたしは戦の手伝いに来ただけだ。立派な着物など必要ない」
「この街にいる間は必要だろう」
「だったら尚更だ。長居など、したくない。わたしはすぐに戦に戻りたいんだ。戦は待ってくれないじゃないか」
「命令があるまでは動けぬ」
「だが、こんなの、無駄遣いだ!」
千夜が声を荒げるが、夏絶はすました様子で店の奥へと進んでゆく。
主人がひいた椅子にどっかりと腰掛け、すでに店の奥へと視線を向けていた。
「……見せてもらおうか」
「かしこまりました」
店主は絞り出すようにして返事をする。店主も千夜と夏絶の言葉なら、夏絶の言に従うのは当然だ。
そそくさと裏へ戻っては、女将をつれて戻ってくる。
そして奥にある低い卓に彩り豊かな羽織を並べはじめた。帯や小物も収納している箱をいくつも出しては、手に取りやすいように並べていく。
この地は北と南を繋ぐ交通の要所。北と南の意匠を同時に合わせられるなど、なんという贅沢なのだろう。
千夜とてひとりの娘。本来ならばじっくり見たいところだが、夏絶の手前、そんな表情は見せられぬ。
気をぬくと緩みそうな頬を無理やり引き締め、千夜は長く息を吐いた。
「……本当に君は、どうしようもないな」
しかし、千夜の冷たいもの言いに、夏絶は苛立つそぶりも見せず、堂々としたものだった。
「別に無駄遣いなどではないだろう」
「不必要だ」
「着飾ることで、お前が私の横に居やすくなるならそれで良い」
「迷惑だと言っているんだ!」
「ふん」
夏絶は己の三つ編みをぴんと弾き、千夜に背を向ける。そうして作業途中の店主の頭を見下ろしては、声をかける。
「主人、娘の準備は順調なのか?」
「っ! ……ええ、お陰様で。この秋には倉州へ――」
「そうか。では、持参金の足しにしておけ」
ふっと笑みをこぼす夏絶に対し、店主も女将も、顔を見合わせた後、揃って深く平伏する。
そのわずかなやり取りに、千夜は目を丸めることとなった。
夏絶は畏怖の対象ではあるようだが、この店では同時に、感謝されているようでもあった。
どう扱っていいのかわからない、遠い世界の存在。埋めることのできない距離があるはずなのに、夏絶は気にする様子を見せない。
(こうして、生きてきたのか――)
王族であるにも関わらず、その生まれゆえ、下町に居を構えなければいけなかった。
夏絶がこの街に移り住んでから、三年と少しだったはず。
町人との距離を無理に埋めようとするわけでもなく、不遜な態度を咎めるわけでもない。そして同時に、彼自身、王族という誇らしさは忘れない。
彼は、自身が異端であることを、受け入れているのだろう。
(忌子だから、恐れられているのだと思ったけど)
平民だなんだとすぐに口にするのは、それが、夏絶なりの距離の取り方なのかもしれない。
(宙ぶらりんな存在。それは、わたしと、同じ?)
市井に紛れながらも、平民と同じ位置には立てない。立つつもりもない。しかし、王族たるには、大きく何かが欠落している。
どこにも属することができず、埋められない距離を、ただ受け入れる。
そんな彼に共感してしまいそうで、心がざらりとした。
夏絶は商品を眺めながら、今度屋敷に訪れるようにと伝えている。今日のものとは別に、いちから誂えるとでも言うのだろうか。
しかし、それが夏絶なりの店への気遣いなのだろうと理解して、千夜は何も言えなくなった。
人の良さそうな店主と女将。並んでいる品も良品であるし、きっと良い店なのだろう。
商品を物色しはじめた夏絶は、千夜が彼の見方を変えたことに気付く様子もなく、商品に夢中だ。
発注して一から誂えるのが本来の流れ。すでに仕立て上がっている品は、店としても見本品が多い。
さほど数もないのだが、しっかりとした縫製は見ていて嬉しくなる。
正直、千夜だってひとりの娘。
普段は目立たぬように地味な恰好をしているが、彩り豊かなものに惹かれぬはずがない。
夏絶への怒りがおさまってくると、今度はしっかり、それぞれの装飾模様を目で追っていた。
幼い頃から教育された審美眼を遺憾なく発揮し、着物の素材や模様を見ては、産地や職人の腕を確認する。
めぼしい着物もすぐに見つけたが、夏絶は千夜とはまったく違った一枚を手に取った。
「主人。これは良いな」
「ええ、それは北の司州で生産されているものでして」
目を引く大柄な牡丹が染められ、金糸が細やかな見栄えのする一枚。長身の千夜にはよく合いそうだ。
「これもいい」
次に手に取ったのは、金色の帯だった。
見事としか言いようのない蓮の葉の刺繍。所々に蓮の花や水泡が細やかに散りばめられており、隙間のない緻密な意匠が施してある。
「……となると、裳はこれか?」
さらに帯の下に重ねる裳の色も白地に金。それ単体は実に好ましい。
……が、金に金に金をあわせるなど、どれだけ金が好きなのだと言わずにはいられない。
店主も流石に目を見開くが、意見する訳にもいかないのだろう。なんとも言えない笑顔を貼り付けていた。
(まずい)
このまま何も言わなければ、問答無用で金ぴかになりそうだ。
千夜はあからさまにげっそりとした顔を見せているわけだが、振り返った夏絶の顔は自信ありげだから余計に厄介だ。
「どうだ。私の女に相応しい装いだろう?」
「……言いたいことは色々あるけれども」
呆れてどこから言葉にして良いのかわからない。凜々しく整った夏絶の顔が、爛々と輝いている。一体彼は何を求めているのだろうか。心底これが良いと考えているのだろうが、千夜としては全力でご遠慮したい。
まずは夏絶の選んだ衣装をまとめて目を向ける。
ひとつひとつを見ればそれぞれ完成された品なのに、合わせ方が極端すぎる。
店主が遠慮しながらも、品のある商品をそっと上に持ってきていた。その涙ぐましい努力と勇気に気づく様子もなく、夏絶は千夜の反応を待っているようだった。
「何というかだな――高夏絶。君は、一体いつ、これをわたしに着せたいと思っているんだ?」
「いつでも好きなときに着れば良かろう」
「この街でか?」
「当然だ」
答える夏絶に迷いはない。
連れ回しておいてその上拷問のような衣装を着せられるのか。
ただでさえ注目を浴びることに抵抗があるのに、全身金ピカなんて見世物もいいところだ。
「悪目立ちが過ぎる。ひとつでいいだろう。他の色彩を程々に抑えても、十分だよ」
「お前、誰に向かって――」
否定されて声を荒げる夏絶に向かって、千夜は首を横に振る。しかしその手は、彼の選んだ帯に向けた。
蓮の模様は、金ながら煌びやか過ぎず、嫌いではない。柄自体も小さく、地紋になりやすいからこそ、どんなものと合わせてもなじみそうだ。全身金、以外ならば。
裏を見ると、浅い緋色も悪くない。合わせ方にもよるが、小物や裏地の見せ方によっては、かなり落ちついた印象になるのではないだろうか。
「君の選んだこの着物も、裳だって好きだよ。でも、あえて一枚選ぶなら、この帯だな。刺繍が綺麗で、とてもいい。他をもっと抑えた色のものにすると、きっと映える」
「――え?」
「ん?」
千夜の評価に、夏絶は目を丸くする。目が合った瞬間、みるみる彼の顔が赤くなっていき、何ぞと思った。
決して褒め言葉ではなかったはず。それなのに、彼はそうか、とだけ言い捨てて、そっぽ向いた。
千夜は表情を硬くしたまま店主に向き直る。そして幾つか着物を物色しては、彼に直接尋ねはじめた。
「帯も司州のものだな。だが、あちらの着物だと織りが細かだ。範州の――南の街とも取引しているだろう? 治葉染のものはないのか?」
「あいにく、仕立ててあるものは――反物ならご用意がございますが」
「そうか。ならば――このあたりか?」
千夜が手に取ったのは、これも深い染めのわりに素材の軽さが心地良い南の織物だった。
くすんだ青碧のそれは、上品なうえ、千夜の髪にもよく似合う。所々に金や朱、墨の小物などを使っても映えるのではないだろうか。
「……どうだろうか、高夏絶」
「え? ああ」
「どうした、君が選んだものだが。気に入らないのか?」
いや、と短く言葉をきって、彼は首を横に振る。
そうして彼は、着てみるといい、とそれだけ告げた。
千夜はその長い睫毛を伏せた。
白麟でなくて、千夜として着飾ることなど初めてだった。
戦地に来たはずなのに、良いのだろうかとわずかな不安が頭をかすめるが、着々と準備は進んでいく。女将が一式を衝立にかけて、どうぞと千夜を奥へ呼んだ。
仕方なしに、千夜はおそるおそる衝立の向こうへと足を進める。慣れた手つきで今の男物の着物を脱いで、件の衣装に目を通す。
豪奢すぎず、さりげない。白麟姫でであるときは、決してお目にかかれない類いの着物だった。
「……」
恐る恐る、手触りの良い衣の袖に腕を通す。
その手が震えていたのを、女将はどう受け取っただろうか。
真夏でもよく風を通して涼しい。とても素材感の良い着物だった。帯を巻いて、適当に見繕った小物を飾りつける。
派手すぎず、落ち着きのある印象。
流石にひっつめたままの髪も合わないかと、一旦その髪をほどく。ばさりと落ちる煤色をとかすと、どこか落ち着かないながらも、心が浮き立つのを感じた。
(今、わたし、普通の、女の子みたいだ)
どうにも気持ちが浮ついているのを感じる。
着飾るときは、白麟として公に姿を現すか、裏で教育を受けるときのみ。その際身に付けるのは最上のもの。
それ以外の時は、ただの千夜だ。屋敷の隅で存在を隠して生活している小娘――いや、少年と言うのが相応しいのかもしれない。
(普通の娘として着飾ることなんて、夢のまた夢だと思っていたのに――)
今の千夜なら、商家の娘くらいには見えるだろうか。街を歩くのに不便もなく、落ち着いた女性らしい服装だ。
自分で自分を見下ろして、千夜は黙り込む。心臓の音が大きくなっていることは、偽りようがない。
とてもお似合いですよ、と、にっこりと女将に微笑まれて、千夜はぎゅっと両手を握りしめた。そしてそのまま女将に導かれ、衝立の向こうへと連れて行かれる。
恐る恐るその姿をさらしてみると、こちらを見つめる黒曜石の瞳と目があった。
「――えっと」
まるで、穴があきそうだった。
白麟の魅せるための踊り子衣装とも程遠く、姫君の衣装とも言えない。
素朴ながらも上質な艶感があるものをきっちりと着込んでいるだけ。
年頃の娘さんのように見えているだろうか。
気恥ずかしさとともに、先ほどまでぷりぷりと怒っていた気持ちもどこへやら。
「――何か言ってくれ」
無言で見られるのはどういうことか。娘としては高い身長だから、似合ってないのかもしれない。
色や形を合わせるのは苦手ではないが、千夜という人物の顔や背丈までは直しようがない。似合っていないと言われればそれまでだ。
すると、夏絶は何も言わぬまま、千夜の手を引いた。そして思い出したように懐から金子を取り出しては、店主に差し出す。
店主がぎょっとした顔をみせていることから、かなり多いのだろう。しかし夏絶は気にする様子を見せない。
「良くやった――ではな、主人」
それだけ伝えて、夏絶は問答無用で外へ出た。
千夜の制止も聞く様子がなく、振り返ることすらなかった。
ただただ真剣な眼差しで、真っ直ぐ進行方向を見つめている。何に一生懸命になっているのかはわかるべくもないが、千夜を引っ張っては街中に連れ出す。
風雅な印象のある黒くて高貴な青年と、凜とした長身の乙女。手を繋ぐ二人はよく目立った。
ただでさえ畏怖の目で見られている夏絶なのに、その隣に女が並んでいる。
信じられないものを目の当たりにしたと言わんばかりの視線に晒され、どうにも落ち着かない。
しかし夏絶は、衆目など気にすることもなく、ある程度進んだところで、ようやく千夜に向き直った。
「何がしたい?」
「え?」
「欲しいものはないかと、聞いている」
「えっと」
千夜は言葉に詰まった。
見下ろしてくる彼の表情は真摯だった。
単に千夜を利用したいだけなら、ここまでする必要なんて全くない。わざわざ気を引かずとも、最初から千夜は、夏絶を助けるために戦に来ているのに。
千夜が欲しいという彼の言葉も世迷言としか思えないが――何故だろう。彼のまっすぐな態度は、悪い気がしなかった。
(……都を出て、気持ちが緩みすぎているのかもしれない)
はじめて監視の目から解放された環境に、浮き足立つのはやはり良くない。
わけのわからぬ間に甘やかされて、千夜の心がくすぶり始めた。
普通の女の子のように扱われて、少し、調子に乗りすぎたのかもしれない。
「……もう十分だよ、ありがとう」
千夜という姿で、こんなにも人の目を集めることなどなかった。
だから千夜は足を止め、まぶたを伏せる。
人々の視線が突き刺さる。やはり彼は、黒忌で王子。そして千夜は、影で戦を支える者。決して、表舞台に出るつもりなどないのに。
「だから、屋敷に帰ろう」
そう告げるが、彼は聞く耳など持たない。
「早く慣れろ。私と共にいるということは、こういう事だ」
「わたしは、了承していない」
「かまわん。私が決めた」
「――迷惑だと言っているんだ!」
ばっ、と、力任せに彼の手を振りほどく。
千夜は将来、雷王のものになる。それを知っているはずなのに、どうして彼は危ない橋を渡れるのか。
夏絶の顔を睨みつけ、千夜はそのまま背を向けた。早くここから立ち去りたい。彼とともにいたくない。
強引に手を引かれ、ともに見る新しい世界に心踊らないはずがない。そのままうっかり絆されそうになった自分に、駄目だと何度も首を横に振る。
遊ぶために、こんなところまで来たのではないはず。千夜は、千夜の目的のために――。
「……帰るっ!」
自分の不甲斐なさに落胆し、千夜は元来た道へと駆け出した。
待て、と声をかけられるが、知ったことではない。
全力で走って、足が重くなった頃、夏絶の屋敷の門をくぐる。
驚いた顔で迎えに出た柳己と向き合い、千夜はずかずかと彼に近づいた。
「何かないか! わたしに、できる仕事は!」
***
屋敷に戻って早々に着替えて、一日中全力で働いた。
まだまだ溜め込んでいるらしい仲間たちの洗濯物を片付けるのを最初に、景符では手が回っていない屋敷の大掃除を行う。
後は食事の準備やら片付けやら走り回って、気がつけばすっかり夜が更ける。
クタクタになって自室に戻ると、入り口の側に大きな影が落ちていることに気がついた。
闇の中からじろりと睨むその双眸。
闇に身を溶かしている黒き青年――今はまだ会いたくなかったのに、夏絶は確かにそこにいた。
暗がりの中で向き合うと、彼は黙って、千夜の方へと足を進める。
きっと、怒っているのだろう。
公衆の面前で怒鳴りつけ、置き去りにした。誇り高い彼を皆の笑いものにするかのような行為、咎められても仕方がない。
彼は千夜の正面で足を止め、口を閉じたまま、その視線を注ぎ続けた。
何を考えているかわからない黒曜石の瞳。
千夜も一歩も退く気はなくて、折れてたまるかと彼を睨みつける。そのまましばし見つめ合うが、彼は何も言わなかった。
やがて彼は目を細め、前へと踏み出す。そうして千夜とすれ違う際、彼は千夜の胸へと何かを押し付けた。
慌てて両手で受け取ると、そこにはつるりとした何か細いものが握らされている。
無言で去っていく彼の背中を見つめるが、やがてそれも闇に消える。
仲間たちとは隔離された仮の住まい。誰もいないがらんどうで、たったひとつの足音が遠ざかる。
闇の中にひとり取り残された千夜は、手渡された何かを見下ろした。
ずっしりと重たい金の簪。
月を思い起こさせる大胆な彫刻に、まるで星屑のように細やかな石が散りばめられている。――千夜という名前を意識したとでも言うのだろうか。
しかし、煤色の髪には豪奢すぎる。
千夜にはとても相応しいとは思えないそれを見つめて、ただただ口を噤んだ。
彼なりに、謝りたかったのだろうか。機嫌をとりたかったのだろうか。
(まるで、何も分かっていない)
千夜が怒ったのは、彼に近づいて欲しくないからだ。
彼のためにも、千夜のためにも、必要以上に近寄らない方がいい。
それなのに――千夜は、その簪を握りしめる。
あんなにも皆に遠巻きにされているのに、それでもひとり、街中を歩き回ったのだろうか。どんな顔してこれを用意したのだろうか。
「……」
(――今だけ、だから)
そう思い、千夜はそれを、まとめたお団子に刺す。
きっと似合ってない。
絶対、不相応だ。
――なのにどうしてだろう。
胸の奥が、じんわりと熱を帯びていた。