白麟と呼ばれる姫君(3)
夜の帳が下りる頃、嘉国陣営は松明の明かりを煌々と、束の間の喜びに沸き立った。
今日一日で、かなり体勢を立て直した。ここのところ央蛇の路を後退する一方だったからこそ、ようやく均衡を保てる段階に入ったことに胸をなでおろす。
二国を繋ぐ央蛇の路。丁度その中央部――大地の裂け目とも呼ばれる基準線。ここ央蛇では、この基準線を保つことを重要視されている。
央蛇の戦い。それは、古来より繰り広げられ続けている、形式上の――ある種儀式のような戦だった。
イザリオン帝国と嘉国。永く続く歴史のなかで、国の形は変わろうとも、大陸の西と東で争い続ける風習は変わりはしない。
しかしここ近年、形式上であった形が、崩れようとしているのもまた事実。
とはいえ、黒日は越えた。まだまだ油断は出来ぬが、この後戦況は硬直するだろうと胸をなでおろす者も多かった。
兵たちにはわずかだが酒が振る舞われ、束の間の宴に誰もが沸き立った頃合い、この戦の立役者は、こっそり暗がりへと消えていった。
白麟――皆にそう呼ばれる姫君は、その名にふさわしかった髪を、再び無造作にひっつめている。
その身に纏っていた白と紅の絹も、何の遊びもないつまらない男物の衣を羽織っては覆い隠してしまった。
光を失った彼女は煤色の髪。その色彩と同じで、くすんだ印象しか与えぬ姿に身をやつし、ただひとり、暗がりに隠れて息を吐いた。
身体が、重い。
初めての戦に負担がかかりすぎたかと、己の肩を抱く。
「お疲れさま、白麟姫」
すると、軽い口調で声をかけられ、白麟は何度か瞬いた。
振り返ると、松明の明かりを背に、先ほど夏絶とともにいた部隊のひとりが立っている。
人懐っこい笑顔の彼は、夏絶の一番近くにいた青年だ。
今の姿のまま、白麟の名を呼ばれることは、よろしくない。だから白麟は静かに、首を横に振った。
「ここは戦場ではない。わたしはもう、ただの千夜だ」
「千夜?」
「ああ。そう、呼んでくれ」
はにかむようにして笑うと、向き合った彼もまた、白麟――いや、千夜に合わせるようにして笑う。
「徐柳己」
「柳己か。よろしく」
柳己もまた千夜に名乗りをあげると、お互い、確かめ合うようにしてうなずき合う。
「皆の所には、来ないのかい?」
「今、わたしは、あまり関わらない方がいいだろうから」
「……そうかもね」
今の千夜は、戦場に立った乙女とはまるで別人だ。
かの白き姫君が、この煤けた娘と同一人物と言っても、皆の混乱を招くだけだろう。
同時に千夜は、白麟の姿で名乗ることに強い制限をかけている。
祈りを込めて踊らなければ白の乙女にはなり得ない。あの特殊な力を持つ姫君が自分だと言って回る必要性も、感じない。
「夏絶様と同じだ」
柳己は苦笑しながら、千夜に何かを放り投げる。月夜に照らされたそれを目で追い、両手で受け取ったとき、ちゃぷん、と何かが揺れる音がした。
しっかりと蓋を閉じられた瓶。この祝いの場で、何が入っているのか想像するのは容易だった。
「今朝、君が現れた場所。あそこは夏絶様のお気に入りなんだ」
「……」
「あの方も、皆とともにはいられないから」
少し困ったような顔をして、柳己は頬をかく。彼の言いたいことを把握しては、千夜はくるりと背を向けた。
「いただくよ」
「ありがと。よろしくね」
軽く手をふって、千夜は小高い崖の上を見やる。
さほど距離もない。月を見るなら丁度いいだろう。そう思い、千夜は迷うことなく足を進めた。
***
昼間は灼熱の地でも、日が沈むと一気に気温が下がる。肩を抱きながら、千夜は夏絶たちと出会った場所へと足をすすめた。
央蛇の路には草一本生えていないのとは対照的に、岩山を登るとだんだん草木が生い茂ってくる。そうして小さな林を抜けると、戦場が見渡せる場所へとたどり着く。
そして千夜は瞬きをした。
ほの明るい月の下。今は閑散としている央蛇の荒野を見下ろしつつ、適当な岩にひとり腰掛ける男がいた。
月明かりに照らされ、長い睫毛の影が落ちる。
艶やかな髪に、黒曜石の瞳。宵闇に沈むはずの黒の色彩でありながら、彼の横顔はどことなく華がある。
戦場とはうって変わって、ゆったりとした振る舞いは、王族の気風。王宮で静かに佇むのと変わらぬ所作で、彼は遠くを見つめていた。
(昼間とは、雰囲気が違う――)
ぼんやりと眺めていると、黒曜石の瞳が向けられる。
目が合ったとき、千夜はその違和感の正体に気がついた。
長く伸びた艶やかな黒の髪。昼間はしっかりと三つ編みにしていたそれが、今ほどいて、なすがままに流してある。
月光をうけて艶々と輝くのは、その髪がしっとりと濡れているからだった。埃と血にまみれて泥だらけな下の連中とは違い、彼は身綺麗にして、ゆったりと佇んでいる。
彼は誰よりも血を浴びていたはず。だからこそ、先ほどまで先の小川で沐浴をしていたのだろうと合点した。
千夜の存在に気がついた夏絶は、少し気まずそうに顔を背けた。
ありのまま流れていた髪を、手櫛で梳いては隠すように背中の方へと流す。
水気を帯びてもなお、うねったままのその髪は、元よりくせっ毛なのだろう。昼間のかっちりとした印象とはかなり違う。
「隣、いいだろうか?」
「――好きにしろ」
拒絶されるかと思ったが、彼は何も言わなかった。千夜に背を向け、再び戦場へと視線を落とす。
戦を終えて緊張が和らいだ彼の横顔は、ただの十九の青年でしかなかった。
“黒忌”――嘉国の忌子と呼ばれる存在であることなど、全く感じさせない。ただただ高貴な者のようにも見える。
しかし千夜は知っている。彼が背負うものは、いち王子のそれとは比べものにならないことくらい。
時代にひとり、嘉国の王族には、必ず凶命を授かる者がいる。
夏絶の場合は“絶”の文字。
不吉の名を与えられ、その身に厄災を背負うことを義務付けられた者。
やがて国に厄災が訪れるとき、その禍を一手に引き受け、必ず壮絶な死を遂げると約束された存在。
この国の過去を辿っても、節目となる事件が起こった年には必ず忌子に死が訪れ、次の忌子が誕生している。
長い長い嘉国の歴史の中で、その厄災を免れた者――それは、千夜の知る限りたったひとり。
現嘉国が“雷王”高夏瘴。夏絶の父である彼のみだった。
どのように忌の呪いが夏絶に移ったのかはわからない。しかし確かに、雷王の禍は消えたと言われている。
忌子が王位を継承する――嘉国の歴史としてあり得ないことだが、雷王は自らの手で王位を勝ち取った者だった。
そんな雷王の第一王子――嘉国の現忌子“黒忌”高夏絶――王宮で彼とすれ違ったのは数える程だった。
忌子である彼は公の場に顔を出すことが許されていなかったし、千夜は逆に、公事以外で表に出ることは許されていなかった。
だから、立場上は兄妹にあたるとは言え、彼のことはよく知らない。
ただ、雷王と同じ黒曜石の瞳を見るたびに、心をぎゅっと掴まれるような心地がした。
かつての記憶。
幼い千夜を捕らえた黒曜石の男は、今の夏絶と恐ろしいほどよく似ている。
……ただ、遠くを見やる夏絶の瞳は、記憶の中のあの男――雷王よりも、ずっと静かで、落ち着いているようにも感じる。
整った横顔はどことなく女性的な美しさすらあり、気がつくと見惚れている。
ちらと向けられた視線に気恥ずかしくなり、千夜は柳己から受け取った酒瓶を彼に差し出した。
「柳己が、君にって」
ちゃぷん。と鳴る水音に、その中身を理解したのだろう。夏絶は訝しげな瞳を向けながらも、その瓶を受け取る。
しかし、警戒心を剥き出しにしては、それに口をつけることなどなかった。
「莫迦莫迦しい戦だ。君たちは、いつもこんな環境で戦っているのか?」
「莫迦莫迦しい、だと?」
「ああそうだ。よりにもよって、この劣悪な環境で。横に広い戦場は、数に劣る嘉国には不利だろう。その上、央蛇は平地。地形による恩恵も得られることはなく、両側を崖に囲まれた地では、正攻法でしか攻めることなどできない」
「……」
「戦が長引けば長引くほど、両国はただただ消耗していく。それがわかっているのに、ここで均衡を保つ意味がわからないんだ」
千夜の言葉に、夏絶はちらと目を向けるだけ。
とくに反論するわけでもない。彼も彼で、同じような想いを抱いていたのかもしれない、と千夜は思う。
「上は、過去の慣習に縛られているだけ。君には、それがわかっているんじゃないのか?」
「……ふん」
特に答えが返ってこない。
それが肯定しているようにも見えて、千夜は戦場を見下ろす。
ほんとうに長い、一日だった。
思い出すと、今でも呼吸が苦しくなる。
覚悟だけはしていたが、実際の戦場の空気は、想像していた以上に澱んでいた。
二人並んでしばし。すると崖の下から冷たい風が吹きあげてくる。
「寒い、な」
初めての央蛇の夜。
千夜は目を細めて、己の腕を搔き抱いた。
闇の向こうの央蛇の荒地。宵闇に紛れてわからないが、数多くの亡骸が、今もあそこで眠っているのだろう。
それだけで空気が、血生臭い匂いがする気がした。今になって、ぞくりと背中が冷えては、恐怖で脚に震えがくる。
「軟弱者め。怖いならこんな場所に来るでないわ」
一蹴するように夏絶は言葉を投げかけるが、その声に昼間のような棘はなかった。
たった一日。
それでも無事に戦を切り抜けられたからこそ、彼の千夜を見る目も少しは変化したのだろうか。
苦笑しながら夏絶の言葉を受け止め、千夜は首を横に振る。
「そうはいかない。わたしは、わたしの目的がある。君にも君の目的があるように」
「目的?」
「――このくだらない戦をはやく終わらせたい」
「夢物語だ」
「そうかもな」
相槌をうちながらも、千夜の瞳に迷いはない。
遙か遠く、この涛蛇山脈のどこかに眠る者たちがいる。
千夜が未だ幼きおり、嘉国の者によって屠られた同族がいる。
そして祖母の首は刎ねられた。養父の手によって。
憎むべき仇だと言ってしまえばそれまでだ。それでも――その仇の手を借りたとしても、生きながらえたからこそ、成さねばならぬことがある。
ふと笑って、千夜は背伸びした。
そしてそのまま身体をひねり、舞い踊る。
髪をひっつめた紐を解くと、ぱさりと音を立てて髪が背中へと落ちた。そのまま独楽のように回転すると、宵闇にふわりと光が舞い始める。
眼下の戦場に、草は生えぬ。それでもどうか、命よ。安らかに眠れよと想いを込める。
いつか散っていった一族を弔えなかった。せめて目の前で失われた命には、安らぎあれと祈る。
時代はまだまだ血を欲するだろう。黒日がやってくる限り、そして人が変わらぬ限り、この形式上の戦が終わることはないだろう。
途方の無い道だというのは千夜もよくわかっている。それでも、動かずにはいられなかった。
タン、と。ひと差し舞ったところで、千夜はその瞳を開いた。
周囲に舞うは命の灯火。まるで星空へと消えてゆくかのように、舞い上がっていく。
それらをぼんやりと見上げていると、夏絶が横から手を伸ばした。
漂う光に触れようと、天高く、右手をかざしている。
「不思議だろう? こんな女が存在する時点で、すでに夢のようだとは思わないか?」
今や千夜の髪は白。金色に染まった瞳で彼に笑いかけると、夏絶は気まずそうに手を下ろす。
「……たようなものだ」
「ん?」
「いや」
きちんと聞き取りきれず、千夜は瞬く。しかし、彼は千夜から目を逸らすだけ。
夏絶にははっきり否定されるものだと思っていた。
過去に王城で何度かすれ違った。その時はいつも、平民の出であった千夜を侮蔑するような瞳を向けてきたからこそ。
「君の言う平民が王の養子になったんだ。それでいて今度は、望み通り戦場にいる。全てが、夢のようだろう?」
「――後宮を追い出されたという噂は?」
「噂? はは、天の不興を買ったというやつか? そんなものは噂にすぎない。天がわたしを手放すはずがない」
彼の疑問はもっともだ。
千夜が天と呼ぶ存在。雷王と千夜の関係性を、正確に把握できている者などいない。
彼は千夜にとって、養父であり、将来の夫であり、主であり、他人であり、仇である。
そして千夜は、彼の治世を護るために“託された者”であり、何よりも“興味の対象”である。
千夜は十六となり成人した。そして王とは、新たな契約を結んだのだ。
戦で戦果を上げるのならば、千夜を、都に縛りはしないと。
誇らしげに笑うと、いつの間にか、黒曜石の瞳が射抜くかのように、千夜を見つめている。
だから千夜も、真っ直ぐに見つめ返す。
恥じることなど、何もない。
「わたしに力があるのなら――わたしは、わたしに出来ることをするよ」
千夜には迷いがなかった。わずか十六の小娘でありながら、戦に身を投じることに。
雷王の望むがまま、物珍しさに後宮の花で終わってたまるものか。
一族が、踊りの力を託してくれたのなら、何か出来まいか。そう考えたからこそ。
「この戦に身を置く。わたしを使え、高夏絶。君ならば、出来るだろう?」
「随分とわかったような口をきく」
「そうだな。――でも何故だろう。戦へ向かう君の迷いなさが、わたしは好きなのかもしれない」
黒日の噂はもちろん耳にしていた。彼はそれをわかっていながら、千夜を戦場へ連れて行った。
誰に押しつけるでもなく、千夜を自ら抱えていった。そして、戦場で千夜の力を信じてくれた。
口ではいろいろ言っていたけれど、彼は戦に対して真摯だ。
王子でありながら、自らが戦場に立つ。黒忌と恐れられながらも、自分を蔑む者たちのために、国の未来を切り拓く。
彼の部隊は少数だけれども、個々のことを信用しているのも勿論わかったし、彼も、彼自身の力を信用している。
その関係も、少し羨ましかったのかもしれない。
そうして彼に微笑みかけると、夏絶が妙に真剣な眼差しを向けていることに気がついた。
そのまま彼は手に取った瓶の栓をあける。毒見すらされていないその中味に、彼は臆することなく口をつけた。
こくり。
彼の喉仏がゆっくりと上下する。
柳己に頼まれはしたが、千夜が持ってきたその酒を口にしたことに驚いた。
少しは受け入れてもらえたのだろうか。
不思議に思って首をかしげた瞬間、彼の右腕がのびてくる。
見た目以上に強い力で引かれては、瞬きをするのとほぼ同時――夏絶の唇が、千夜のそれに触れた。
目を見開くと、夏絶の長い睫毛がそこにある。
ぷんと、強い酒気が鼻腔をくすぐる。味わいがいのない、酔うためだけの酒。くらりと意識を持っていかれては、千夜は目を細めた。
いつか雷王のものになるからこそ、誰にも触れられなかった唇。それを、いともあっさりと奪われた。
左腕も背中に回され、身動きがとれない。
柔らかな彼の黒い髪が、頬に触れてくすぐったい。
強く吸うばかりで離れる様子のない彼の胸を、千夜は慌てて両手で押した。
いくら何でも、これは駄目だ。
馬鹿げているという言葉ではすまない行為だ。
夏絶も知っているはず。
白麟としてであっても、やがて千夜は雷王のものになる。いくら王子とて、気安く触れて良い存在ではないのに。
しかし夏絶に迷いはない。
千夜を逃すまいと搔き抱いては、容赦なくその唇を味わい尽くした。
やがて満足したのか、夏絶はそっと唇を離す。
ぼんやりとした意識の中、ふわり、と酒の匂いが風に流れた。
相変わらず彼の腕は千夜に巻き付いたまま。そして息が触れるほど近くで、彼は淡々と断言した。
「お前は、私のものになれ」
あまりに突飛すぎる提案は、千夜の頭にまったく入ってこなかった。
千夜は目を丸めて、ただただ狼狽する。
しかし、彼の視線は相変わらず真っ直ぐで、まるで迷いはない。千夜の立場も、雷王の存在も――彼の思い描く未来には、考慮に入れられるべくもなかった。
「私はやがて、この国の王となる。――雷王の、ではない。お前は私の妃となるんだ」