白麟と呼ばれる姫君(2)
黒に染まった太陽は、戦場の空気を変える。刃を交える最前線。血に染まった者たちが、まるで狂ったように恐怖を失う。
斬り合うことだけを心に刻まれる狂宴の地。
良くも悪くも、両軍の消耗が激しくなると言われる黒日。
数では不利なはずの嘉国軍だが、よく抑えていると夏絶は思った。
遠目に総大将の顔を確認しては、目を細める。
王の懐刀、蔡丁衛――老傑でありながら、まるで山のような大男が、自陣のしんがりに構えている。
彼もまた、遅れて出る夏絶たちを見つけたようだが、深く興味を示した様子はない。
ただ蔡将軍の横を通り過ぎるとき、白き髪の娘もまた、蔡将軍を見ていたようだった。
束ねてすらいない彼女の髪が、戦場になびく。
夏絶の馬は力強く前線へと向かうが、彼女から漂うほのかな花のような香りに、夏絶は気が遠くなった。
何が悲しくて、戦に女を抱えて出なければいけないのか。
嘉国が第一王子、高夏絶ともあろう者が、場違い甚だしい女を抱いていかねばならぬのか。
しかも、彼女はもともとただの平民。世間的にどう見えようが関係がない。夏絶と並ぶには相応しくない女であるにも関わらず、だ。
「とんでもない娘だ――」
不機嫌な眼差しで、夏絶はぼそりと口にした。
夏絶たちを助けると豪語した娘。先ほど、いざ戦へとなった際、馬は慣れぬから連れておらぬと言い切った。
何の冗談かと置いて行こうとすら思ったが、彼女の行動の方が早かった。
誰よりも早く、夏絶の馬へ駆け寄っては、その首を撫でていた。そして遠慮する様子もなく、夏絶の相棒の背に跨ったのだった。
「ふふ。君の腕のことは噂に聞いている、高夏絶」
全速力で駆ける馬に乗りながら、彼女は悠々と会話してみせた。
「“黒忌”と名高い、豪腕の持ち主だと」
馬には慣れていないと豪語していた癖に、なかなかどうして落ち着きがある。王宮ですれ違ったときは、ただの娘だと思っていたのに。
しかし、ふと彼女を見下ろした時、いつの間にか金色に染まっていた瞳がわずかに翳っていることに気がついた。そしてその不安を証明するかのごとく、彼女の肩も震えている。
だからこそ、呆れるしかない。
ここは戦場。生半可な覚悟で、女が来るべき場所ではない。しかも、この夏絶と肩を並べようとしているのだ。厚顔無恥も甚だしい。
「その通りだ。お前のような荷物さえ無ければ、だがな」
毒を吐き捨て、前を見るが、一蹴するかのように彼女は笑った。
「戦場で舞うのは初めてなんだ。少し震えるくらいは許してくれ」
「であれば都にひっこんでいれば良かったものを」
「そうはいかない。荷物になるつもりもない。――君ならばわかっているだろう、もう」
自信満々で言い放つ彼女の言葉。理解したくなくとも、すでに夏絶は悟っている。
今、己の身体は、感じたことのない類いの熱を宿していることを。
大陸を縦に分断する涛蛇山脈。そのさらに中央部、山脈のど真ん中を裂き、東西を繋ぐ一本の路が存在する。
央蛇と呼ばれる荒野は、まるで進軍するために存在するかように、真っ平らにえぐり取られたような路だった。
大陸の中央。
自然が生み出した戦のための約束の地――そこでは、大陸を制する二つの大国が睨み合い、何度も刃を交える場所となる。
大地には血が染み着き、飢えた獣が跋扈する。獰猛な者だけが生き残ると言われる荒野。
戦場となる央蛇の荒野へ降りると、南の山から吹き下ろす風が強い。大地からは乾いた砂埃が舞い上がり、視界を塞ぐ。黒き太陽が肌を焼き、逃げ場のない灼熱が容赦なく襲いかかる。
戦場を駆ける兵たちは、渇いた喉を開けることすら叶わぬ。あけた瞬間、熱された砂が喉を焼くからだ。
しかし今の夏絶たちは、そのようなその劣悪な環境をものともしない。
こんなことは、初めてのことだった。
「何これ! すごいですよ、夏絶様!」
後ろで柳己が驚きの声をあげる。いや、驚いているのは彼だけではない。彼女の舞を見た夏絶の仲間、皆である。
「身体が――すごく、軽い!」
柳己の言葉を夏絶とて実感していた。彼女の踊りを、そして彼女から降り注ぐ光を浴びてから、身体中に漲る力を。
そしてそれは、夏絶だけではない。今、彼が跨る青毛の馬もだ。今だって白麟と二人を乗せているのに、いつも以上の力で大地を駆け抜ける。それは戦場ではまるで鬼神のごとく、人々の目に映った。
敵も味方も、夏絶たちの勢いにまたたく。
人ならざるものの速さで前線に詰め寄る鬼神。先頭に立つは、黒曜石の男。その姿を知らぬ者は、戦場にはいない。
“黒忌”。嘉国の呪われた王子。
並外れた彼の力は、かつて“雷忌”と呼ばれた男を思い起こさせる。
出現するたびにイザリオン帝国軍に大きな打撃を与えた、かつての戦場の王。現嘉国が“雷王”高夏瘴と瓜ふたつの姿を見せては、前線を恐怖に染めてきた。
しかし、この日の“黒忌”をどう表現すればいいのか。戦場にいる誰もが、その目を疑った。
戦をかき乱す黒き禍が、彼の姿とは対照的な白き乙女を連れていたからだ。そして、二人で騎乗しているにも関わらず、彼を乗せた馬は、いつもの倍の速さで前へと向かっているのだから。
「私に攻路を開けよ!」
高らかに宣言する夏絶に呼応するように、嘉国軍の兵が左右に立ち退く。一切失速することなく、夏絶は正面の壁――敵陣を目指す。
目的の地は、近い。白麟もまた息を呑み、覚悟を決めるようにそっと夏絶の手の甲に、己の手を合わせた。
「舞術が途切れぬよう援護はする。でも踊っている間は無防備だ。護りは任せた」
「お前っ!」
「それだけの能力は、授けただろう?」
いけしゃあしゃあと言ってのける彼女の顔には、遠慮がない。この土壇場で無茶なことをぬかす彼女に正直腹が立ったが、ここで出来ぬと言うような夏絶でもない。
「ちっ――梧桐! 沙紗! この娘を護れ! 決して血を浴びせるな!」
「「応ッ!」」
夏絶の声に呼応して、二騎が夏絶の左右へと上がってくる。
一騎は、紫みを帯びた黒き短髪の青年。細い目がにたりと弧を描いては左手に細身の槍を構える。
一方、夏絶の仲間で紅一点の沙紗は、小柄ながらも梧桐と同じ槍を携え、勇敢に前に躍り出る。彼女もまた、梧桐と同じ色の髪を三つ編みに結い上げ、風に靡かせた。
「亥胆! 左は任せる!」
「応ッ!」
続いて夏絶は別の者の名を呼ぶ。亥胆。到底人の名とも思えぬ名だが、がっしりとした巨漢が反応しては先頭に押し上がる。
夏絶を除く部隊の中で最も戦闘能力の高い男。白麟の舞術で彼の能力もまた向上しているのだろう。身の丈ほどもある大錘を軽々と片腕で背負い、真っ直ぐと前線を見据える。
そうして異様とも言える黒の集団の中心に護られる姫君。その不思議な光景を、誰もが目で追う。
まもなく最前線。敵とぶつかる直前に、夏絶は声を荒げて白麟に問うた。
「本当に馬に慣れておらぬのか!?」
「そうだ。けれど、わたしのことは気にせず、行っていい」
白麟は夏絶の焦りの意味を知っているらしく飄々としたものだ。
そうして彼女は、己の杖を握りしめる。シャラリ、と音を鳴らしては、不敵な笑みを浮かべていた。
「いつものように――跳べ。高夏絶!」
なぜ彼女が知っているかはわからない。誰よりも長い得物を操る夏絶の本来の戦い方を。
しかし、彼女の後押しで、何かが吹っ切れた。どうにでもなれと、まるで彼女をいないものと扱うかのごとく、夏絶はいつも通りの表情をみせた。
敵とぶつかるその直前。
夏絶は、己が馬の背を蹴りあげ、高く空へと舞い上がる。
彼から離れた馬も慣れたもの。その身を翻し、彼の着地点から離れるようにと進行方向を反転させた。
視界の端に馬の行方をとらえながら、夏絶はその身を翻す。そして両手でもって長剣を構える。
降り立つは、地面でなくて敵兵の頭。タン、タンと踏み台にしては、敵陣深く入り込む。
身体を動かすとなおハッキリする。少々やり過ぎと言えなくもないほどに、全身が軽い。
血という血が沸き立ち、やがて夏絶は地面へと長剣を振り落とす。そのまま半歩右脚を前に出しては、ぐるりと一周、長剣を振り回した。
シャラン。シャララン。
脳裏に響くは鈴の音だった。
それに遅れて、敵兵の絶望が耳に届く。
血気盛んな最前線の兵たちが、金切声のような悲鳴をあげては腰を抜かす。
しかしそれを赦すべくもない。
ここは央蛇。永遠に続く、戦の場。死の覚悟を持てない者が来る場所ではない。
容赦無く夏絶は前に出た。目につく敵兵という敵兵を斬り払い、乾いた大地を血に染める。
焼きつく黒い太陽。
禍々しい空気が血を侵し、穢れが周囲に飛び散った。夏絶にも、周囲を取り囲む敵兵にも、狂気は平等に拡散しては、戦場に狂い咲く。
黒忌と呼ばれる彼に恐怖することすら麻痺した敵兵たちは、その目を虚ろに一斉に襲いかかってきた。
そしてこれこそが、黒い太陽に染められた血の呪縛。
本来ならば夏絶とて、我を忘れて戦に身を投じる日。しかしこの日ばかりは、何かに護られるように、血は滾ろうとも精神を手放すことなどなかった。
夏絶に続くように、夏絶の部隊がなだれ込む。誰もが己が身ひとつとなり、己が脚で戦場を駆けた。
遅れて現れた少数の兵。夏絶の率いるわずかな部隊が、この日の戦を制することとなる。
黒忌。そして彼の後方に控える白き乙女。
猛る血と、黒日に失われぬ心が戦線を押し上げる。
(黒日にこんな――初めてだ)
たったひとり、人間が増えただけで、こうも変わるものかと実感する。
あまりの驚きに夏絶がちらりと後方に目をやったとき、その光景に息を呑んだ。
夏絶が馬に残したはずの彼女もまた、自身の脚で、血の流れる大地に降り立っていたのだ。
(――あの、莫迦!)
夏絶は舌打ちしながらも、迫り来る敵を薙ぎ払う。漲る力がどこから来るのか、考えればすぐにわかる。
この血に触れて、大丈夫か。黒日に染まる血の穢れが、彼女を侵さないか。
不安にかられるが、彼女はどこ吹く風だった。
戦場に舞い降りた彼女は花。
場違い甚だしい彼女の舞いは、大地にまるで絵を描くように光を灯す。
その踊りの意味を知るのは、夏絶の部隊のみ。
黒日なのに確かに残る己が心。それは、彼女が護ってくれたもの。
狂気にまみれず、黒日に溺れないこの奇跡は、間違いなく、彼女が作り上げたものだった。




