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戦場は白麟姫のしらべ  作者: 三茶 久
第1章 星合、鈴の音とともに
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結びの音色(5)

 基準線から随分と離れたというのに、山から吹き下ろす風は、相変わらず冷たい。劣悪な環境は変わることなく、涛蛇山脈を分断する央蛇の路に、平等に与えられる。

 血が乾ききった、男物の衣。冷える首元をぎゅっと締めて、千夜は荒れた地を踏んだ。


 丸一日、千夜たちは休む間もなく駆け続けた。ひたすら真っ直ぐに続くこの地形では、相手の追撃も激しい。ようやく追撃を振り切ったときすでに、かなりの兵を失っていた。

 それでも、残っている仲間がいる。小休止の後、夜ごと走れば、明日の日中には天祥門へたどり着くだろう。

 しかしそれは、今ここにいる嘉国兵にしか当てはまらない。

 分断された後方がどうなっているのか、千夜にはもう、分かりようがなかった。




「休めるうちに休んでおけ。幼い頃から、そのように教えてきたろう」

「……わかっている」


 背後からの低い声に、振り向きもせず千夜は答えた。

 良い残った者たちはみな、肩を寄せ合い、暖をとっている。なけなしの兵糧を喰らい、失った体力を取り戻すので精いっぱいのようだ。

 中には、肉を抉られ、呻き声をあげている者もいる。命があるのが奇跡的で、まさかの大敗に茫然自失としている者だっていた。


 炎に巻かれた。敵に取り囲まれた。央蛇からの撤退を余儀なくされた。どれも完全に想定外の出来事で、形式じみた戦だけを繰り返してきた連中にはよほど堪えたのだろう。


 ぱらぱらと遅れて戻ってくる敗走兵たちを労う声が聞こえる。そんな集団から随分と離れた暗がり。

 そこにぼんやりと佇んだまま、千夜は今だ、央蛇の方向から目を逸らせないでいた。



「まだ敗走兵が、戻ってきているんだ。彼らを待たせてくれ、将軍」

「見守るのはそなたでなくとも良かろう」

「だが将軍!」


 千夜は、首を横に振る。そのまま彼の顔が見られなくなって、俯いた。ぎゅうと己の杖を握りしめたまま、動かない。

 蔡将軍の目は聡い。千夜が誰を待っているのかくらい、もうわかっているのだろう。


「……好きにしろ」


 それだけ言い残し、蔡将軍の足音は離れていく。

 再びひとり。一団の殿に立ち尽くし、千夜は、東の空を見つめていた。



「高夏絶。君は、こんなところで死ぬべき人じゃ、ないだろう?」


 天にも抗うほどに、誇り高い彼が――戦地に取り残されて、命を失うなんて似合わない。

 黒忌と言われる特殊な呪いを受けた身で――国のために死ぬと宿命づけられているといっても、今の彼は、国のためにまだ、何も成してはいないではないか。


 これっぽっちの兵を護って、何が宿命か。

 そんな運命、くそ食らえだ。



(死よ。どうせ彼の死を飾るなら、尊大な彼に相応しい場を)


 だからどうか、生きていてくれと、切に願う。


(鎮魂の踊りなんて、踊らない)


(眠ってもいない魂に、捧げる(うた)なんて知らない)


(君は、わたしを、君のものにするって言ったろう! あれだけ人を惑わしておいて、置き去りになんてするんじゃない!) 

 

 顔をくしゃりとゆがめて、千夜は己の懐に手を入れた。

 つるりとした感触を手にしては、目を細める。

 月明かりに鈍く光は、金の簪。月を模した形に、星屑の石が輝く。


 今の千夜には不相応だ。埃だらけで、煤だらけ。煙に巻かれた身体からは、花の匂いも消えている。そして血濡れた衣は、貧相な男ものでしかない。


 きっと、似合わない。

 こんな、ちぐはぐな千夜では。


 それでも、千夜が手に持つ金の簪があれば、彼が近くに歩いてくる気がするのだ。

 不器用なあの手で、何度も挿すのに失敗して。自分のことを棚に上げながら、千夜に身につけろと口うるさく言う。

 きっと、千夜自身も、口うるさくして欲しいのだろう。





「――どうして挿さぬのだ」

「……!」


 声をかけられてはっとする。

 ずっと待っていた。聴きたかった声は、心地よく響いて、千夜は顔を上げた。

 すると、ゆっくりとこちらに近づいてくる集団が見えて、口を開ける。



「あ……」


 薄暗闇の中、血にまみれた男は先頭に。

 その集団は、嘉国軍でも、最後まで戦場に残り、最後まで敵に追われ続けた――。


「高、夏絶」


 その名を呼びかけると、彼はふ、と表情を緩める。

 彼の隣では柳己が肩をすくめて、皆に合図を送る。そして、夏絶だけを残して、一団が横を通り抜けていった。


 とたんに背後が賑やかになり、各々、生き残った事に対するねぎらいの声を交わしながら遠ざかっていくのがわかる。



 そうして、暗がりにふたり、取り残された。

 しかし、千夜は、何を口にして良いかわからなかった。

 生きていて良かった。無事で良かった。そんな当たり前の想いが胸を駆け巡るが、同時に湧いてくるのは怒り。


 相変わらず、心配ばかりさせる。

 自分を振り回す目の前の男に、ねぎらいの言葉などかけたくない。



 戸惑いながら目を伏せると、彼はまっすぐ、千夜の前まで歩いてきた。

 そのまま肩をすくめて、彼は千夜の握りしめる簪を見た。


「……だから。これ以上私を心配させるな。ちゃんと身につけていろと言っているんだ」


 心配させているのは夏絶の方だと、千夜は思った。


 彼のことなんかで、心を支配されたくない。不本意だ。惑わされたくなど、ないのに。

 だから千夜は、その金の簪を彼の胸に叩きつけようと手を振り上げた。

 しかしその手も、慣れた様子で受け止められる。たまらなくなって呻くが、彼は気にせず、千夜の背中に腕を回す。


 しゃらり。

 杖が揺れて、音をたてる。

 すっかり戦場に馴染んでしまった、その音色。


 煙と、血の臭い。

 染みついて離れない、戦いの香り。



 顔を上げると、見慣れた黒曜石の瞳に喜色がともる。

 だから、悔しい。千夜は、怒っているのだ。なのに、なぜ、彼は愉悦の表情を浮かべているのか。


「……君が挿さないのなら、絶対、身につけないからな」

「なるほど」


 苦笑いを浮かべて、夏絶は千夜の手から、するりと簪を奪い取る。

 そうして彼は、真剣な眼差しで、その簪を千夜の髪に挿した。慎重に。千夜の教えたとおり、真っ直ぐに。


 月の装飾に星の石が揺れるのがわかった。

 ずっしりとした重みを感じて、千夜は何度か瞬いた。


 空には月。

 千夜の代わりに、彼を見守り続けた、優しい灯り。

 身体がゆっくりと抱き寄せられて、千夜は身を強ばらせた。


 しゃらりしゃらり。杖の音が、やけに強く耳に響く。

 月明かりはやがて、大きな影で隠されて――。


「ん……」


 唇を塞がれて、千夜は、目を閉じた。

 くらくらするような血の香り。

 まるで獣に喰われるような感覚すら覚えるが、嫌じゃない。


 そして千夜は悟った。

 いくら離れようと思っても、自分は、夏絶の生き方に巻き込まれる宿命なのだと。



(天よ)


 彼は、怒るだろうか。王のものでありながら、彼の息子に心が揺れる千夜を罰するだろうか。


(……万里)


 戦場で別れた幼馴染みは、自分を、赦してくれはしないだろうな――。


 ぼんやりと、自分を取り巻く人たちの顔を思い浮かべる。

 しかし、それすらも許さないと言わんばかりに、夏絶は強く千夜の唇を吸いつづけた。


 蕩けるような熱に躯を蝕まれる。

 悔しいけれども、嫌じゃない。杖を握りしめていたはずの手の力が緩み、気がつけば、彼に身を預けている。




「いい加減、諦めて私のものになれ」


 そして、耳元に優しく届いたのは、何度も聞いた彼の言葉。考える前に、口がうごく。


「――本当にどうしようもないな、君は」


 自分の感情など、知らない。

 自分がどんな顔をしているのかすら、定かではない。


 けれども、千夜の表情を見るなり、夏絶は嬉しそうに目を細めた。

 再び、彼に身体を引き寄せられる。

 そして彼は、見たこともないほど柔らかな笑みを浮かべて、もういちど唇を重ねた。

【第1章 星合、鈴の音とともに】 完



ここまで読んでくださり、ありがとうございました。

今後の進行については活動報告にて。

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