黒の虚像(3)
鈍い金属音が聞こえるたびに、まるで肌がビリビリと張り裂けそうになる。千夜本人が刃を交えているわけではないけれども、相手の男が大きく見えるのは何故だろう。
こんな戦い、見たことがない。
躍りながらも、気持ちがどうしても戦う二人の将へと向いてしまう。
夏絶とジャック。両者一歩も引かずに刃を交えてしばし。
「王子! 姫!」
後方からは焦るような北深の声が聞こえる。さすがに夏絶と白麟が揃って残っていたら、彼とて完全に退くことも難しいのだろう。北深の迷いが伝わってきて、千夜も顔を歪める。
「北深! 退路の確保を頼む!」
杖の音をかき鳴らしながら、千夜は声を荒げた。どうにかして、この戦いを切り上げなければいけない。
戦況は徐々に夏絶が押してきているようだった。
ジャックは、夏絶のものよりもずっと重い大剣を軽々と振るが、夏絶とて負けていない。それを流すようにして打ち合っては、息を弾ませる。
最初は苦戦していたはずなのに、相手の出方に身体が慣れてきたのだろうか。徐々に夏絶の瞳が静かな色が宿りはじめた。
「ちっ――これか、そこの女の力って言うのは」
「ふん」
「本当に気にくわねェ……!」
「生憎、今は貴様に付き合ってやる暇などないのでな」
「優位に立ったと思えば、その態度かよ」
ジャックの頬に汗が噴き出るのが見える。瞬間、彼と目があって、千夜の肩が震えた。
「何が白の乙女だ!」
鋭い眼光に怯むが、夏絶とて黙って見ているわけではない。千夜との間に割って入り、相手によそ見する余裕を与えない。
「私が貴様より上、それだけだ」
「テメェの力じゃねえだろう! 正々堂々と戦いやがれ!」
「貴様がそれを言うのか、孤将ジャック」
夏絶は表情一つ変えず、容赦なく攻撃を続けている。
ジャックの大剣を流しては、彼の集中が切れる時を待っているようだった。
ジャックもジャックで、何とか均衡を保っているように見える。彼もまた、人並み外れた身体能力を持ち合わせているからこそできる芸当なのだろう。
千夜の力添えがあってもなお、夏絶と互角に渡り合える者がいるなど、思ってもみなかった。きっとイザリオン帝国軍の中でも突出した力の持ち主なのだろうが――向こうの兵は、ジャックの動向を気にかけている様子がないようだった。
孤軍奮闘、という言葉が似合うと千夜は思った。夏絶とて少数でありながら仲間がいる。
一方のジャックは、忌子でもないのに、彼だけ軍の中で浮き立っているようだった。もしかしたら、彼の風貌がその印象を抱かせるからなのかもしれないが。
漆黒の髪に黒曜石の瞳。そして浅黒い肌をした彼の姿は、どう見てもイザリオンの者とは思えない。
みなが皆、色素の薄い肌や髪を持ち合わせているかの軍の中で、ジャックの姿は異物とも言える。獰猛な目をした狼が、獲物を求めてギラギラするのを隠さない。
――ジャックと他の皆の差をぼんやりと考えていたからこそ、反応が遅れた。
ジャックが腰に下げた小型のナイフ。
それが光ったと気付いたのは、そのナイフが、すでに千夜めがけて飛んできていたときだった。
(――――!?)
反応しなければ。と、舞い踊る反動で身体をひねる。
近くを護る沙紗ですら、その速度に間に合わなかった。ナイフは真っ直ぐ、千夜の振る袖を貫き、右腕をかすめた。
「んっ」
ぴりり、と痛みが走って、千夜は表情を歪めた。
避けた勢いで地面に倒れ込み、ナイフが飛んできた方向を見やる。
「貴様――!」
瞬間、夏絶の剣がジャックの脇腹を打つ。それをジャックは大剣で受け止めるが、勢い余って彼もまた後方へ吹き飛んだ。
声にならない声をあげて、千夜は己の腕を押さえた。
まるで線を描いただけのような、綺麗な切り口だった。
傷は、さほど深くない――のだろうか。しかし、傷口から血があふれ出て、千夜は表情を歪める。
咄嗟の反応としては上出来、そう思いながら、千夜は己の杖を立てる。それに傷が付いていない方の腕で体重をかけながら、どうにか身体を起こした。
慌てて沙紗が駆け寄り、傷の確認をしている。
大丈夫、とだけ彼女に告げて、千夜はただただ夏絶たちを見守った。
夏絶は、倒れるジャックに長剣を振りかざす。
容赦なく振り下ろされたそれを、ジャックが転がりどうにか避けた。しかし、夏絶の剣はしっかりとジャックの左腕をとらえる。
鎧の隙間を縫うように貫くが、黙ってやられるジャックでもない。転がった反動で彼もまた大剣を突き上げる。
咄嗟に夏絶は後ろへ跳んだが、大剣の切っ先が彼の前髪をかすめる。
黒の髪がぱらりと散るのを横目に、忌々しそうに夏絶は声を荒げた。
「どこまでも、貴様は」
「チイッ!」
お互い舌打ちしあってにらみ合う。
しかし、今ここでするべきは決着をつけることではない。夏絶もそれは理解しているようだった。
「柳己!」
「分かってますよ!」
夏絶の合図が先か、柳己の行動が先か――。
地面に転がるジャックに向けて、柳己の鏢が跳ぶ。ジャックはそれを間一髪で避け、体勢を整えようと起き上がる。が、左腕の痛みに顔を歪めては、彼は大剣を地につけた。
その隙を逃す夏絶ではない。
「退くぞ!」
くるりと身を翻しては、周囲の隊員に指示を出す。
柳己に続き、梧桐、そして他の隊員たちも鏢を投擲しては、一目散に駆けはじめた。
千夜もまた、沙紗にぐいと手を引かれる。全力で退却する沙紗に付いていくのに必死になるが、どうしても後方が気になった。
振り返ると、夏絶の表情は満足などしていないようだった。
しぶしぶ、といった感情を剥き出しにしているが、それを理性で留めているのだろう。
「にゃろう! 待ちやがれ!!」
ジャックの制止など聞くつもりもないらしい。夏絶は殿を位置取り、他のイザリオン帝国兵を牽制しながら、西へと駒を進める。
「白麟! いけるかっ」
「……んっ。なんとか……」
最初に逃走を始めたはずなのに、千夜の脚は思うように動かない。皆の速度について行けるはずがなかったらしい。
気がつけば隊の最後尾に位置している。千夜を守るように沙紗をはじめとして何人かは付き添ってくれるが、このままでは皆に迷惑がかかる。
「ちぃっ」
殿を走る夏絶は忌々しそうに表情を歪め、沙紗に合図を送っては、彼女の代わりに千夜を手を掴む。
「少しだけだ! 全力で走れ!」
「……っ」
千夜に返事をする余裕はない。ただ、必死で呼吸だけをして、無心に脚を動かす。
正直、夏絶の速度は、千夜にとっては速すぎる。足がもつれて転びそうになるが、それすらも彼は引っ張り上げて、ただただ前へと進んでいった。
掴まれた腕がじんじん痛い。
けれども何故だろう。掴まれた感触は確かに違うはずなのに――遠い昔、こうやって腕を引かれた時のことを思い出すのは。
あの時もまた、敵兵に追われて――千夜は、ただただ必死に駆けて。それでも身体がついて行かなくて、地面へとへたり込んだ。
その時に手を引いてくれていた少年は、やがて千夜を背負ってくれたけれど。
(夏絶は、彼とは、全然違う)
「何をぼさぼさしている! この愚図っ」
「……わかっ……てる!」
背負うどころか、まるで千夜を蹴り飛ばすような言葉すら発してみせる。
自らの足で立ち、自らの脚で走る。己の力で何とかしてみせよと、千夜自身に課すのだ。
(わたしの舞術は、わたしには効かないのか――)
半ば気がついていたけれども、自分自身が身軽になった気は一切しない。不便なものだと、自分を呪いたくなった。
もともとの体力の差もあるだろうが、こうも皆の足をひっぱっては、もどかしい。
(迷惑はかけたくないのに――)
ジャックに傷つけられた腕が痛む。脚は思うように動かない。何もかもが、悔しい。
「基準線だ! 跳べっ」
「……っ!」
大地の裂け目。行きは余裕で跳んだけれども、今は、その距離が危うい。
それでもどうにか跳躍した。
地の底から吹き上げる風を感じる。そのまま永遠に落下し続けるような感覚を覚えて、千夜は目を閉じた。
満足に地面を踏み切れなかった。
着地したはずなのに、足が滑る感触を覚える。どうやら不安定な場所に足を落としたらしく、ああ、と千夜は思った。
(だめだ――落ちる……!)
ぐらり、と背中の方向へ身体が引きずられる。体勢が崩れて、身を強ばらせた。
もう思うように身体を動かせない千夜に、為す術などないのだから。
「っこの! 莫迦者!」
しかし、ぐいと腕を引かれたかと思うと、ふわりと落ちるような感覚が消えてなくなり、千夜は目を丸めた。
視線を上に移動させると、黒い影が日光を遮断している。
「あ……」
瞬間、高夏絶に抱き留められたのだと、千夜は理解した。
「ぼさぼさするな、行くぞ!」
しかしそれは一瞬のことで、背に回されたはずの腕が解ける。千夜の身体は再び解放されて、ぐらり、と揺れた。
それをどうにか、今度は自身で支えて、また前へと進み始める。
ジャックを退ける形になったことで、イザリオン帝国軍も怖じ気づいたようだった。夏絶たちを追う兵も、ぱらぱらと足を止めるのがわかる。
敵将も、これ以上夏絶を追うつもりはない様子がうかがえてようやく、皆、速度をゆるめる。
「はぁ……はぁ……」
しかし、千夜の息は、荒いままだった。
「あと少しだ――気を緩めるな」
「……ああ」
返事をするのにも、声を絞り出してようやくだった。頭がうまく働かないが、どうやら千夜は、危機を脱したらしい。
胸をなで下ろして息を吐くと、大量に汗が噴き出ているのがわかった。
肺が縮んで、呼吸が苦しい。けふっけふ、と息を吐こうとするが、上手くいかない。
同時に千夜は己の腕を押さえるが、血が止まる様子もなかった。
「油断をするな、莫迦者」
「……そうだ……な」
彼の声に、千夜はその目を伏せる。
その殊勝な態度が意外だったのか、夏絶は不思議そうに目を見開いた。
「……君に……気をとらせた。すまない」
戦では一瞬の油断が命取り。
千夜自身もそれを身をもって知ったと同時に、夏絶に対して申し訳が立たなくなる。
歩調が緩まったせいか、ゆるゆると呼吸が整ってきた。何度か深く呼吸をして、千夜は言葉を続ける。
「君の援護を名乗り出ておきながら、足を引っ張った。さっきも……今も」
ナイフにやられたとき、もし夏絶が気を緩めていたら、彼自身が斬られていた可能性もあったろう。それが歯がゆくて、腕を抱く。
夏絶ですら手を焼くジャックと言う人間。千夜の力で強化されてようやく、夏絶が優位に立てる相手。
対峙してよくわかった。ジャックは勝つためにはなんだってやるだろう。だからこそ、千夜は、夏絶の気を逸らせてはいけなかった。
「――ほんとうに、すまない」
だから、腕の傷などたいしたものではない。
頭を下げたが、夏絶は益々不機嫌になるばかりのようだ。
ふん、と鼻息荒くし、己の髪をその手で摘まむ。不格好に不揃いになってしまった前髪が気にくわないのか、何度か手で梳いては、視線を逸らした。
「別段、どうと言うことはない」
そう彼は言うものの、絶対何か引っかかっている顔をしている。そんな少し情けない夏絶の顔を見ると、少しばかり落ち着いた気持ちになるから不思議だ。
「……そうか。ならば早く本陣へ戻ろう」
「ふん、その様子でよく言えるものだ」
彼は不機嫌に目を細めたけれども、結局、同じ方向を向く。
砂埃の先。――嘉国軍、本陣の方へと。




