黒の虚像(1)
「なぜだ! なぜ、我らがその位置なのだ! 蔡丁衛!」
乾いた空気の中、夏絶の声が響き渡る。大衆の面前で、彼がこうも声を荒げるのは珍しいと、横に立つ柳己がつぶやいた。
彼をよく知る柳己が言うのだから、普段はきっとそうなのだろう。千夜にとってはむしろこちらの方が夏絶らしく感じるわけではあるけれども。
央蛇の戦場。
禍蛇の道を通り抜け、たどり着いた決戦の地。変わらぬ睨みあが続く日々だったが、再び戦が過熱しそうな兆しがあるらしい。だからこそまた参戦するに至ったわけだが。
しかし今回の場合は、いつもと異なる配置に、隊の皆も少し浮ついているようだった。
「ここでは私が大将だ。口答えはよしてもらおう、黒王子」
「……しかし!」
「所詮貴殿は王の奴隷。お似合いな配置だと言っている」
「……っ!」
声を荒げる夏絶と対峙するは、“老いた”という言葉がなんとも似合わない老傑であった。
夏絶とて、男性の中ではかなりの長身であると言えるわけだが、そんな彼をも見下ろす将。誰よりも大きな身体は、がっちりとした筋肉に覆われた、まるで山のような大男だった。
浅い色彩となった古傷だらけの肌は、これまでさぞ厳しい戦いをくぐり抜けてきた証拠だろう。
本人もまた、戦の矢面に立ってきたからこそできた傷だ。
蔡丁衛。蔡将軍の名を知らぬ者はこの国に居らぬ。
片田舎に住む子どもまでもが、憧れ、あるいは恐怖する、嘉国きっての大将軍だ。
「いくら蔡将軍の直属とは言え、末端部隊の下につくなど」
「ふん、遊軍としては名を上げても、貴殿はまだ、将としては何も残しておらんではないか。いち小隊として扱うのは当然だろう」
「しかしだな!」
「黙れ黒忌よ! 望みの前線だ! 貴殿には似合いの場所だろう?」
「……!」
軽んじられたと、背中越しに夏絶の怒りが伝わってくる。
王子であるという身分でありながら、その扱いは中隊長にも届かない。独立すらさせてもらえず、たかだか一般兵の枠組みの中に、強制的に組み込まれる。
気高い夏絶が求めている地位とは、かけ離れすぎていた。
しかし、蔡将軍にとっては、夏絶が王子であることなど考慮すべくもないらしい。厳しい言葉を浴びせては、本来向かうべき場所を指し示す。
「考えを改められよ、黒王子! 今まで、貴殿に兵を任せなかったのは何故か、思い至らぬのか!」
「……っ!」
「貴殿も、いつまでも遊軍でいるのを良しとせぬのだろう? ならば、己の役割を見つめ直してくるが良い!」
蔡将軍の言葉に、夏絶は唇を噛みしめ、震えている。
公衆の面前でここまで扱き下ろされて、平気でいられるはずがない。
それは、千夜にだって痛いほどよくわかる。何故なら千夜もまた、王族としての教育を受けているのだから。
だが、蔡将軍とて経験豊富な大将軍だ。先ほどのような言い方で、夏絶が逆上するなどわかっているはずなのに。
(……何か、考えがあるのか?)
千夜は、蔡将軍の方へと視線を移動させる。
傷だらけのその顔に、厳しい表情。しかし、彼の目はひどく冷静で、落ちついている様にも見えた。
それが理解できたからこそ、千夜は、顔を上げた。
「高夏絶。すまない」
千夜の――いや、皆の前、今は白麟としての呼びかけに、視線が集まるのを感じた。
突然謝られたことに面食らったのか、夏絶はぴくりと肩を震わせては、千夜の方を振り返った。
「蔡将軍は、わたしのことを案じてくれているのだろう」
「お前……」
「君の部隊は少人数だからな。わたしでは、ついていけないと。だから、他の部隊の中に君ごと取り込んだ。――戦に慣れるまでだ。許してくれ」
「……」
「配慮、痛み入る、蔡将軍。だが、わたしの風評を守るために、高夏絶をこのような扱いにするのは感心しない」
そう告げて、千夜はゆっくりと瞬きをして見せた。これは、あなたの意をわかっている、という千夜なりの合図。
対する蔡将軍も、千夜と同じようにゆっくりと瞬く。
「……やれやれ。姫はすべてお見通しらしい」
演技なのだろうが、蔡将軍とて、折れた様子をみせてくれる。
そんな千夜たちの様子を見てようやく、夏絶は口を閉じた。
未だ憤りを抑えきれることはないようだが、それでもぎゅっと拳に力を入れて留まり――長く、長く息を吐いた。
(それでいい)
千夜がわずかに表情を緩めると、黒曜石の瞳と目が合う。
少しは、落ち着け。
そう伝えたかった千夜の意を、夏絶もなんとか汲み取ってくれたのだろうか。
皆がじっと、夏絶に注目しているのがわかる。そして夏絶もまた、黒曜石の瞳を閉じて、しばらく。ようやく、声を絞り出した。
「……最前に向かう。黒忌の名に恥じぬよう、殺し尽くしてくれる」
「高夏絶」
「白麟は、どうする?」
ほっとして声をかけると、白麟と、確かに夏絶は呼んだ。
やはり、と周囲のざわめきが届いてくる。だからこそ、千夜はにっこりと微笑んでは、トン、と杖をついた。
先ほどから皆、千夜の存在が気になって仕方が無かったのだろう。男性多数の戦場で、白麟こと、千夜のような娘は他にはいないからこそ。
光沢のある絹の衣装が風に揺れる。
大きくスリットの入った衣からちらりと見える柔肌を隠そうともしていない。頭のてっぺんからつま先まで、細やかな装飾に彩られた乙女。
何よりも、風になびく白き髪。
まるで鬣のようなそれは、艶やかに輝いては、戦場を白く染める。
シャラン、と千夜は、己の杖を鳴らした。もちろん、と形の良い唇から紡がれる言葉に、誰もが聞き耳を立てる。
「もちろん、わたしは、高夏絶とともに前線へ。そのために配慮してもらったのではないか。――しかしその前に、蔡将軍」
「む?」
「この軍の勝利を願い、ひと差し舞わせてはくれまいか」
「白麟姫……」
蔡将軍はその眉を寄せた。
その強ばった顔、大きな図体に一歩も引かず、千夜はただ彼を見上げる。
この男の事を、千夜はよく知っている。
蔡将軍だって同じだ。千夜のことを知り尽くしている彼だが、今は白麟として迎えてくれているらしい。
「あいわかった。白麟姫の舞は王家の至宝。皆の士気も上がろう」
「ああ、そのためにここに来た」
にこり、と千夜は微笑みを浮かべ、蔡将軍のいる高台へと足を進める。自軍が一望できる組木の上、蔡将軍の隣へ並び立つと、彼は何かを悟って少し横へ退いた。
楽も何もない。乾いた荒野に巻き起こる熱風。
赤土色した大地に舞い降りた乙女はその杖を振る。
遊環がシャラリと音をたてる。誰もが千夜に目を向けて、ただ呆然と口を開け、立ち尽くしていた。
見渡す限り、人、人、人。
灼熱の大地、砂埃ですすけた頬。
輝く太陽に目を細め、それでも千夜の姿を見ようと首をあげる。
汗が乾いた者たちは、数少ない資源でどうにか立っているのだと理解した。イザリオン、嘉国両国がにらみ合うこの地――最も重要な戦場だというのに、本国からの支援は十分でない。
雷王の最も信頼している蔡将軍ともあろう大人物が先頭に立っているのに、ままならない事実。それを目の当たりにして、千夜は目を細めた。
(本当に、嘉国は……)
一枚岩に、なれない。
この戦を、たかが儀式と呼ぶ者が居ることを、千夜は知っている。
しかし、実際に戦場に来てみて分かった。これは決して、儀式などではない。本当に、命の奪い合いでしかないのに。
敗戦する意味を――この戦場を破られるという意味を、理解していない者がいる。
それは、護れないと言うこと。ここから西へ、戦渦が広がると言うこと。罪のない者たちを、ますます巻き込むと言うこと。
「祈りなさい」
千夜は、声を張り上げた。
「わたしは白麟! 戦に身を投じる、貴方たちを支援するために、馳せ参じた」
そう告げ、千夜は杖を振る。大きく孤を描いては、空を斬る。
誰かが、ああ、と口を開いた。
皆の耳に、届き始めたのだろう。千夜の――いや、白麟の音が。
戦場に鳴り響くは、鈴の音だった。
楽も何もないただの荒野であるはずなのに、確かに聞こえるその音色。
ぱらりぱらりと己の耳を押さえる者が出始める。
どこからともなく脳裏に響く金属のような音。それは夢か幻かと、朧な意識に取り込まれていく。
千夜の舞は、まるで光の独楽。シャラリ、と鈴の音を響かせては、皆の熱を一点に集める。
そう、それで良いと、千夜は思う。
千夜が出来るのは、戦へ向かう者の背中を押すこと。
血を滾らせ、それでも頭を冴え渡らせて、本人の力を引き出す。いわばそれだけ。
しかし、戦場という異常な場所で、千夜の力は絶大だ。死と隣り合わせになり、恐怖せぬ者など存在しない。思う通りに身体を動かすこともままならないはず。
これだけの大人数、どれほどの範囲に舞術の効果を行き渡らせることが出来るかはわからない。……いや、きっと。さほど範囲は広くないだろう。
それでも、何でもいい。少しでも、皆の士気を高められるならば――。
「恐れるな。前を向け! わたしのしらべが聞こえているだろう? 君たちは白麟の加護を得た!」
トン、と杖を地についた。
恍惚とした感情が、千夜の身にぶつけられる。
夢か、幻か、おぼろげなる者を見つめていた彼らの瞳は、今や熱に浮かされたようになっている。
「イザリオンは我らを襲ってくるだろう。君たちも知っての通りの大軍が。だが、心配するに及ばない。君たちのことは、わたしが見守っている」
そして千夜は、高らかに笑う。
「戦え。護れ。君たちの国を、家族を。――君たちの全てをもって、購って見せよ!」
オオオオオオォォォ!!!
千夜を讃える声がこだまする。
熱風吹きすさぶ荒野が益々熱を持ち、千夜は蔡将軍の顔を見た。
蔡将軍はその表情の皺を一層深くし、疑いに満ちた視線で千夜を刺すが、千夜はただただ頷くだけ。
これで良いだろうと、まるで挑発するように笑った後、彼に背中を向けた。
「高夏絶。待たせたな。最前線に移動するぞ」
「……」
「高夏絶?」
呼びかけても、夏絶は黒曜石の瞳に千夜を映すだけで、しばらく言葉を口にできないようだった。
しかしそれもしばらくの間。
やがて、信じられないと言わんばかりに、夏絶は眉間に皺を寄せる。
「いや。……お前、こんな広範囲に」
「舞術が効く範囲はたかがしれているだろう。あとははったりだ」
ないよりはましだろう? そう肩をすくめて、千夜は足を進めた。
夏絶はと言うと、不機嫌そうな顔を張り付けたまま、千夜の隣に並ぶ。
しかし、それもわずかな間のこと。二人と部隊を通すために、自陣が大きく左右に分かれたところで、夏絶はすっと前へ出た。
禍蛇の路を歩いていた時と同じ。彼は振り返ることなんてない。
(まだ気が立っているな)
まるで子供みたいだな、と千夜は苦笑する。
(……彼の気持ちは、分からないことはないけれども)
指揮官としての経験値が足りないことは、柳己に聞いた。彼の能力は、いち指揮官にするには勿体なさすぎるからこそ、今まで特別な位置づけだった。
しかし、夏絶がこの国に貢献してきたことは間違いがない。
彼の功績はもっと認められるべきだし、今回のような扱いに不満が出るのはもっともだ。
(これが、黒忌――)
軍の中に組み込まれるにしても、それなりの処遇は必要だろうに。
(しかし、どうしていきなり。遊軍として独立するのに、何か問題でも……?)
蔡将軍の考えがいまいち読めない。
ちら、と夏絶の横顔を見ると、滾る怒りをどうにか鉄面皮で隠していた。……いや、千夜にはお見通しだけれども。
肩をすくめて、千夜は小走りに、夏絶と並ぶ。
目が合った瞬間、彼はむきになったように足を早めるから、困ったもの。ぽんぽんと肩を叩いては、気を引いてみせる。
「丁度良いじゃないか。君はある意味、真っ当な立場に立ったんだ、高夏絶。他の小隊と実力の差を見せつけてやれば言い」
「は? ――ああ、その話か」
「? 何だと言うんだ?」
「……分からぬなら、いい」
それだけ告げて、彼はそっぽ向いた。
しかし、機嫌は少しだけ戻ったらしい。気持ち歩く速度を落としてくれたらしく、千夜は頬をゆるめる。
「いくら雷王の手の者とは言え――あの人は、君に悪いことはしない。何か考えがあるんだ」
「……」
「そう言う人だ。君も、知っているだろう?」
「そうだな」
千夜の言葉に、夏絶も思い当たるところがあったのだろう。
先ほど声を荒げていた彼とは打って変わって、冷静な表情で前を見据えている。が、何か言いたいことがあるのか、眉間に皺を寄せたままだ。
「――高夏絶、どうした?」
「何がだ」
「他に気に入らないことでも?」
その言葉に、彼は少し気まずそうに目を逸らし、千夜の頭を一度だけ小突いた。
なぜ小突かれるのかまったく理解できず目を白黒していると、夏絶は言いにくそうに言葉を続ける。
「面白いはずがなかろう」
なぜだかはわからないが、やはり怒っているらしい。
ふん、と息を吐いて、彼は千夜の一歩前へ出た。そして対の皆へと指示を出していく。
「亥胆、お前はいつも通り先頭だ」
「応!」
「柳己、今回はお前も前だ。いけるか」
「もちろん、夏絶様」
「梧桐、沙紗、お前達は――」
「白麟姫を護れば良いんですよね? 了解了解」
そうして皆が己の立ち位置を確認し、得物を構えて前へ出る。そうして、一帯ををまとめる将の方をギロリと睨み付けては、尊大に腕を組んでみせた。
「貴様ら、私と肩を並べたいのなら、それなりの戦果を上げてみせよ」
ふん、と言い放ち、彼は己の長剣を構えた。
千夜の舞術で昂ぶる気持ちと冷静な頭の二つを持ち、さあ、戦だと腕を鳴らす。
「前線は、我らが制す。気張れよ、皆――!」




