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戦場は白麟姫のしらべ  作者: 三茶 久
第1章 星合、鈴の音とともに
11/25

墜星と呼ばれる青年(2)

 さらさらとした煤色の髪が揺れる。

 その短い髪。一見この辺りに住む者かとも思ったが、そんなはずはない。これ以上、村など見つけたくなどない。


 だから千夜は、彼こそ雷王の手の者だろうかと身を強張らせた。

 しかし同時に疑問も湧く。雷王の手の者で、短い髪の者など存在しようか、と。

 となると、末端の兵がこんなところに来ているとでも言うのか。その割には、鎧などをかっちり着こんでいるわけでもないけれども。


 とはいっても、もし彼が一般兵ならば、千夜の事など知るはずがない。

 今の千夜は、男と間違われてもおかしくないような貧相な恰好をしている。もし、このあたりに住む村人だと間違われたら――。


(殺される……!)


 心臓が押しつぶされる心地がした。

 一歩二歩と後ろに下がり、そのまま相手に背中を向ける。そして慌てて駆け始めた。



「待って!」


 人当たりの良さそうな、真っ直ぐな声が聞こえる。けれども、待てと言われて待つつもりなどない。


 夏絶たちは、村人たちの誰に話を聞くわけでもなく、ただただ一方的に殺戮していた。

 雷王の手の者なら尚更、容赦するはずもない。千夜のような怪しい存在を見逃すはずがないのだから。


「待ってくれ!」


 しかし、相手は相当優秀な兵らしい。悪路をものともせず追ってきては、あっという間に千夜の手を掴む。瞬間、恐怖に息が止まった。



「やっ……!」


 首を刎ねられることも覚悟し、目を閉じた。身体を強張らせて、きっと襲ってくるであろう痛みを待つ。

 しかし、いつまで経っても痛みは襲って来ない。


「……?」


 掴まれた手にも荒々しさはない。そっと肩に手を置かれたところで、千夜はその両の目を開いた。



 青年は戸惑いの混じった様子で千夜を見下ろしていた。

 女の中では長身にあたる千夜だが、彼はもっと長身だ。がっしりとした肩には程良い筋肉がついているし、精悍な顔立ちが好ましい。


 歳は二十ほどだろうか。

 彼の瞳ははしばみ色。曇りのない凛々しい表情が印象的で――とそこまで彼の顔を認識したところで、何やら既視感が押し寄せる。


「君は」


 穏やかで心地良い響き。

 初めて聞く声のはずなのに何故だろうか。懐かしさすら感じて、気持ちが浮つく。


「……?」


 千夜が戸惑いの表情を見せたところで、男は驚きで目を見開いた。

 信じられない、ぽつりと呟く彼の声が聞こえて、千夜も記憶の糸を手繰り寄せる。



 ……声はすっかり変わってしまった。

 でも、その精悍な顔立ちに、なじみのある面影が残ってはいまいか。


 いつかたどり着いた世界の果て。

 幼かった千夜が縋ることができた唯一の相手。

 ――あの時、千夜の目の前で、崖の向こうへと落ちていった少年の顔とだぶって見える。



「せん、や……?」


 しかし、それは千夜の気のせいではなかったらしい。

 いつかのような少年のものではない、低い声ではある。だが、彼は確かに千夜の名を呼んだ。千夜は名乗ってすらいないのに。


 だからこそ、千夜の胸に熱いものがこみ上げてきた。


(まさか、そんな)


 頭の中で何度も何度も否定するのに、かつての顔に重なって見えると、もう“彼”にしか見えなくなってしまった。



「うそ……」


 無意識に、呟いていた。信じられないと口もとを手で押さえて、息を呑む。

 その千夜の表情の変化に、目の前の男もまた眉を寄せた。


 目の前で失ったはずの命だった。手を伸ばして届かなかった、幼なじみ。

 幼き千夜を背負っては、数多くの軍勢から逃がそうと奮闘してくれた。そして、千夜のために、その命をなげうった少年――。



万里(ばんり)


 生きていたのか。なぜこんな所にいるのか。数々の疑問が思い浮かぶのに、言葉にならない。

 十年の時を経て、すっかりと大人の出で立ちをした幼なじみとの突然の再会に、頭が真っ白になる。

 先ほどまで、雷王の所業に絶望していたはずなのに、それがすべてどこかに吹き飛んでしまうくらい、胸がいっぱいになる。

 無意識のうちに、じわりと目の奥から熱いものがこみ上げてきて、息を呑んだ。



「千夜!」


 瞬間、ぎゅうと強く抱きしめられた。幼い頃と違う、太くて、力強い両腕。

 ああ、本当に大人になったんだな――と、懐かしさと戸惑いで苦しくなる。それでも、やはり嬉しくて、千夜もまた彼を抱きしめかえした。


「万里、万里っ……!」


 すがりつくと、大きな手が頭にぽんと乗せられる。そのまま甘やかすように頭をなでられて、ああ、変わらないな、と千夜は思った。



 あの時は、まだ六つと十。それでも、当時倍ほども年の離れた万里は、千夜にとっては大きなお兄さんだった。

 ずっと側で見守ってくれて、一緒でなかった事などなかった。

 その誰よりも近かった存在は、十年の時を経ても何も変わらない。千夜をただただ甘やかしてくれる。


「生きてた……万里が、生きて……!」


 ひとりで生きてきた十年を想う。

 仇の手中に収められ、それでも耐えた。己の地位を確立するため、雷王の期待に応えようと気を張り続けた。

 たったひとり、心細くなかったかと問われれば、答えは否だ。



「――会いたかった」

「ああ、千夜。何度も探しに来たのに……お前は、今までどうして」


 しかし、彼の質問に急に現実に引き戻される。

 呼吸が止まり、答えに詰まる。

 背筋に寒気が走っては、目を見開いた。



 今の千夜は、表向きにはしがない平民にも見えるが――夏絶たちと引き合わせたら、たちまち真実が明らかになるだろう。


 忘れて良いはずがない。

 千夜は今、雷王の養子。罪なき村の者の命を奪った、仇に与する者。

 それだけでも十分、万里にとっては受け入れがたい事実だろうに――もうひとつ、絶対に彼に知られてはいけないことがあった。



「あ……」


 唇が震えて、言葉が出てこない。


 かつて、幼き千夜を掴んで持ち上げた、あの大きな手。

 千夜を離せと迫り寄る少年――かつて、万里の身体を弾いたのは、初老の、山のような大男だった。

 万里がどうして生き延びたのかはわからないが、彼にとっても、きっと忘れられない顔だろう。


 幼き万里を谷へと突き落とした男は、雷王、(こう)夏瘴(かしょう)の右腕。嘉国軍を率いる大将軍、(さい)丁衛(ていえい)

 万里を直接殺したその男こそ――都で、それも王宮の外で、千夜を監視し、保護し続けた者だったからこそ。


 白麟として、雷王の養子に。そして千夜としては、蔡丁衛に世話になり続けた。そんな千夜が、今さら何を言えば良いというのか。




「……」


 言葉が何も出てこない。

 何か言わねば、そう思うのに、身体が自由に動かない。


 いくら事情があったとは言え、許されることではないことくらい、千夜も理解している。

 十年かけて導き出した結論が、彼らの駒になることだったなど、万里には言えない。……そう、万里だけには、どうしても。


 このまま彼と話していたら、いつかその事実を知られる――そう考えただけで、震えが止まらなくなる。




 同時に、今、この山で行ってきたことを思い出す。

 千夜は今、かつて己の村がされた行為とまったく同じ行為を、目の前で見てきた。何の罪もない人たちを、無為に殺した。

 直接手を下さなかったとは言え、見ていただけなら同じこと。

 それを万里に言えるか。自分自身に問いかけても、ぎゅうと、拳を握ることしか出来なかった。



「わたしは……ただ……逃げて……」


 千夜は言葉につまって、ごくりと、唾を飲み込んだ。

 何から、など言葉に出来ない。言及されることも頭によぎらず、その場しのぎの言葉を吐き出す。


 けれども、目の前の万里もまた、同じように硬直していた。

 ああ、という短い言葉を吐いただけで、しばし口をつぐむ。

 しかし、すぐさまはっとして、彼はごく真剣な顔つきを見せた。そして千夜の両肩を押さえては、強く言葉を吐いた。



「――そうだ。いいか、今すぐに逃げろ、千夜」

「え?」

「ここは、駄目だ。ここは、危ない」

「どうしたの、いきなり?」


 困惑する千夜に、万里はただただ首を横に振る。


「知らない方がいい――だが、本当に危ないんだ。いいからお前ははやく逃げろ」

「どうしてそんな」

「俺の言葉は、信用できないか?」

「ううん――でも、折角会えたのに」


 話がしたい。したくない。

 相反する気持ちが同時に押し寄せて、それでも懐かしい手を離したくなかった。

 すがりつくように千夜は彼の手を握ろうとするが、彼は千夜に何かを押し付け、突き放す。



範州(はんしゅう)治葉(ちよう)。ひと月――いや、ふた月もすれば俺はそこに向かう。治葉だ。いけるか、ひとりで」

「治葉」

「そうだ。今は、とにかく逃げてくれ」


 何が何だかわからない。しかし、彼に押し付けられた袋を握りしめると、じゃり、と音がして瞬いた。


「これは」


 中身をのぞいてみると、それはかなりの額の路銀だった。

 一人で旅をするには――いや、用心棒を雇うくらいの余裕があるほどの。


「待って。どうして万里、こんなに――」

「いいから。道は大丈夫か?」

「……うん。でも、万里は?」

「心配するな。仕事だ」

「でも――」



 こんな場所で、普通の仕事なはずがないではないか。

 それでも、切羽詰まった彼の表情を見ていると、言うとおりにしないわけにはいかなかった。


 だから千夜は、彼を抱きしめる。今生の別れにならぬよう。再び巡り会えるように願いを込めて。

 すっかり大きくなった幼なじみ。今の彼の姿を、忘れぬように。


「千夜、すまない。すぐに連れていけなくて――」

「ううん」

「必ず、治葉で。いいな?」

「うん」



 そして千夜は背を向ける。

 何度も振り返りながら、彼の元から離れてゆく。


「千夜! かならず、治葉で……!」

「うん……!」


 十年越しの逢瀬は、ほんの僅かな時間だった。けれども、千夜の心は熱くなる。

 久しぶりに会った彼は、すっかり大人になっていた。何をしていたかも分からない千夜を、それでも正面から受け止めてくれた。

 頭をなでて、甘やかされる事などいつぶりだったろうか。


 誰に対しても気が張ってしまう千夜が、素直になれる相手。

 十年の時を経ても、それは変わらなかった。だからこそ、気持ちが浮き立たないはずがない。



「万里……!」


 必死で駆けるが、視界が滲む。

 ごめんなさい、と心の中で謝罪する。

 嬉しくて、とても喜ばしいことなのに、また会えたのに――そう思うのに、心に影が落ちる。


(わたしは、もう、雷王の手の者になってしまった)


 村を失って、誰もそばにいなくて、ただひとりで考えた末、選んだ道がそれだった。

 自分の描きたい未来を手にするには、それしかなかった。胸を張って選んだ道だけれども、どうしても、万里にだけは話せそうにない。


(君の仇になったんだ、万里)


 苦しくて、次から次に涙があふれてくる。

 逃げろ、彼がそう言ってくれて、正直助かった。あのまま彼の前にいても、千夜は何を伝えて良いのか分からない。

 突然の再会に、取り繕う事も、真実を語る事も出来なくて、無様に狼狽するだけだった。


(範州の、治葉――今の状態で、わたしは、行ける?)


 そもそも、自由がきく身でもない。それに、次に会ったとして、雷王との関係をどう隠せばいいのか。

 万里に会いたい気持ちは満ちている。聞きたいこともいっぱいあるのに、自分のことなど何ひとつ話せない。こんなに、ひどい話はない。



 ひと月――いや、ふた月、と言った。しばしの猶予を与えられ、ほっとしている自分にも、愕然とする。

 彼に会うのか、会わないのか。自分のことを明かすのか、明かさぬのか。心の中で、汚い感情ががぐるぐる渦巻く。

 先ほどまで、この山に生きる民のことで心を痛めていたというのに。なんてげんきんなことなのだろう。


 次から次へと涙がこぼれて、千夜はついに走ることも出来なくなってしまった。

 木々の合間の月明かり。その下で、ぽつりと立ち尽くす。




「千夜、ひとりでどこに――千夜?」


 そこで声をかけられてはっとする。

 来た道をかなり戻ってきたわけだが、当然、仲間たちは近くで野営の準備をしていたはず。


「あ……」


 最も見られたくない相手に、涙を見られて硬直する。


「泣いていたのか」


 きっと千夜を探していたのだろう。暗がりの中から姿を見せた青年――夏絶は黒曜石の瞳を大きく見開いては、不審そうに眉を寄せた。


「違うっ」


 しかし、彼に涙など見せるつもりはない。頬を拭って否定する。しかし、上擦った声に感づかれないはずもない。


「大きな口を叩いて、その程度か。やはり、お前は物見遊山に来ただけだったか」

「違うってば!」

「しかし、泣いているではないか」

「そうじゃない!」


 否定するが、夏絶が千夜の涙の意味を理解できるはずがない。万里と出会ったことすらも、夏絶に伝えるわけにはいかないのだ。


 なぜこのような場所で出会ったかはまったく分からない。しかし、嘉国軍でない者の存在を口にせぬ方が良いことくらい理解できる。



 同時に千夜は思い出す。

 万里が千夜を走らせた際、彼は何か言っていなかったか。

 このは危ないから、逃げろ。確かに彼は、そう言った。


 万里は、夏絶たちのような者がいることを知っていたのだろうか。何もないただの人が、この山に入ってはならぬと――。


「……っ」

「言い返せぬではないか。やはりお前は……千夜?」

「――戦場で、出来ることはきちんとするよ。死者を悼む気持ちを忘れたくないだけだ」

「……」


 だから、尊大な態度の夏絶の隣を、千夜は通り過ぎる。念入りに、涙の跡を拭いて。


 今から野営で良かった。危ないのは、万里だって同じこと。万里にこそ、この近くを離れてもらわなければならない。

 すぐに陣に戻り、皆の様子を探ること。もし万里の方向へ向かうのならば、その足をとめること。これが千夜に出来る全てのことだ。


 万里の無事を確保することで、頭がいっぱいになって、千夜は表情を強ばらせる。

 しかし、それを何と勘違いしたのか、夏絶は千夜の肩を叩いた。驚いて顔を上げると、不機嫌そうな表情が目の前で緩められていく。



「ひとりでどこかに行くな。心配するだろう」


 千夜が泣いたのが気にくわなかったのではなかったのか。

 そう問いかけたかったけれども、目を細めた夏絶の表情に、千夜はもう何も言えなくなっていた。

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