墜星と呼ばれる青年(1)
禍蛇の路。千夜がその存在を知るのは此度がはじめてのことだった。
央蛇の路へ直接入らず、涛蛇山脈の北側へ進路を向ける。
路などとよく言ったもので、あまりの悪路に、馬を連れて行くのもままならぬ。皆、己の足で、道なき道を進んでいった。
木々の合間をくぐり抜けていくと、うっすらとした一本の道をようやく見つける。
獣道とも、人が歩いたからこそできた道かも定かでは無い。それでも、草木は分けられ、赤茶色の土が見える。
ようやく草に絡まることもなく、まともに歩けるようになって、千夜はほっと息を吐いた。
同じ涛蛇山脈でも、草一本生えていない央蛇の道とはまったく環境が異なっている。
絡まるような湿気を含んだ熱気。そして石がごろごろとした悪路に足をとられては体力を奪われる。
千夜以外の皆は慣れた様子で前に進むし、夏絶に至っては振り返りすらしない。
「千夜ちゃん、ダイジョブ?」
唯一、梧桐だけが小声で気を遣ってくれるが、皆の足を引っ張るわけにもいかない。
杖を本当に杖として利用し、体を預けながら、どうにか前に進む。
すると、前の方から大男がのっしのっしと戻ってきた。
そしてその男は、梧桐の横に並んでは、千夜の荷物をひっさらう。その上で、心配そうに手を出してきた。
「手を、貸そうか」
筋肉でずんぐりとした身体を丸めて、視線を合わせてくるその瞳は鳶色。
傷だらけの頬は、この隊の中でも特に修羅場をくぐってきたからこそだと一目でわかる。
戦場ではいつも、夏絶が真っ先に名を呼ぶ彼の名は、亥胆。猪の胆。人の名らしからぬ不思議な響きも、ようやく聞き慣れてきたところだ。
がっしりとした身体に似合わず、穏やかそうな表情をした彼は、千夜を心配しているのだろう。
完全に息が上がっている千夜の顔をのぞき込んでは、困ったような顔をする。
「亥胆。ありがとう」
「ん」
これ以上隊の皆に迷惑をかけるわけにはいかない。しかし、ひとり遅れるわけにもいかない。
よって、千夜は素直に亥胆の厚意に甘えることにした。
一回りほども大きな彼の手に己のそれを重ねると、ぐいっと前に引かれる。
「わっ」
急に身体が引っ張られて、景色が動く。
さほど力を入れずともぐいぐい前に進めてしまうのは、亥胆が引く力が大きいからだろう。しかし、亥胆はなんと言うこともない様子で、変わらぬ速さで歩いて行く。
足場の悪いところだけ、気をつけて、と細かく声をかけてくれては、千夜もほっと表情をゆるめた。
「すまない、少し楽になった」
「気にしない」
くしゃりと表情を緩める亥胆の顔。戦場の彼とはかけ離れた様子だが、千夜にとっては今の彼の方が好ましかった。
夏絶の部隊の中でも当然浮いてしまっている千夜だが、夏絶さえ側にいなければ、こうして親身になってくれる者があらわれる。
千夜としても、彼らのことをもっと知りたい。これから、千夜としても長いつきあいになるだろうから、もっと話してみたいという気持ちは当然、あるわけだが――、
「おい」
――案の定、こうして邪魔が入るわけで。
「亥胆」
「……はい」
高圧的に亥胆を呼んだのは、黒曜石の瞳の青年。……彼は隊の先頭を歩いていたのではなかったのだろうか。
千夜を気にする様子すらなかったのに、嫉妬だけは一人前の男、高夏絶。
この目があるから、千夜は余計に、彼の部隊の皆と馴染むことができないわけで。
夏絶の余計な介入に、千夜は目を細める。
亥胆も困ったような表情を浮かべているのは、夏絶の気持ちを汲み取ったからだろう。だから亥胆は遠慮がちに、千夜の手を夏絶に差し出した。
「千夜」
まるで咎めるように名を呼ばれて、千夜は肩をすくめた。呆れからため息をついてしまうのは、仕方のないことだと思う。
「軟弱者め。仕方がない、私が――」
「かまわない」
「は?」
夏絶が全てを言い切る前に、千夜はすっぱりと彼の言葉を切った。どうせ恩着せがましい態度を押しつけてくるのは目に見えている。だから千夜は、ふい、と夏絶から顔を逸らしてしまった。
「亥胆ありがとう。気をつかわせたな」
亥胆の手を掴んでいたら、今度は彼に迷惑がかかる。そう千夜は判断して、ひとり、山道を前に進む。
小さな問答だったが、皆の注目は十分に集めてしまったらしい。隊の皆が心配そうに振り返っているのが目に入る。
すっかり足を引っ張ってしまっているのももどかしくて、息を切らしながも足を前へと出した。
(絶対、弱音をはいてたまるか!)
そう肩をいからせて前に進む。
「ふん」
後ろから横に並んできた夏絶は、わざわざ千夜に聞こえるようにため息をつく。しかし千夜はそれも一瞥するにとどめた。
後悔するなよ。そう言い残し、夏絶は再び隊の前へと走っていった。
***
朝から日が落ちるまで、かなりの距離を歩いた。そろそろ野営の準備だろうかと思ったところで、前から柳己が姿を現す。
先に進んで周囲の状況を探っていたのだろうが、その表情は厳しく、夏絶に何かを耳打ちしているようだった。
途端に夏絶もまた、目を細めては部隊全体に見えるよう手を振る。
その時の異様な空気の変化を、千夜は肌で感じた。
皆の目が、暗く、深く、沈む。先ほどまで穏やかな顔をしていた亥胆も。飄々とした表情が印象的な梧桐ですら。
そうして皆、顔を見合わせて、各々の荷物をひとまとめにし、軽い装いで前に出た。柳己に誘導されるまま進んで行くと、獣道のような細い道は、とうとう人の手が入ったものへと変化した。
草を刈り、人が歩く。それだけの行動の繰り返しにより申し訳程度に生まれた道だが、それは確かに人の営みを証明する。
同時に千夜は疑問に思う。
こんな、辺境に道が出来ている。一体誰が、何のために通るのだろう、と。
任務については誰も教えてくれない。
けれども、誰ひとりとて、表情を緩めることはない。
まさか――脳裏にかすめる最悪の予感を振り払いたいのに、どうしても嫌な予感がぬぐえない。
心臓の音がやけにうるさく感じる。それでも、一歩一歩確実に前に進むと、どうやら目的の場所に着いたらしい。
夏絶が周囲の仲間達を見渡し、指を使っていくつか合図を送る。
その意味を皆瞬時に理解し、西へ東へと仲間達が散っていった。
(こんなところに、一体何があるというのだろう?)
人の気配があるということは――イザリオン帝国軍関連の何かが? いや、しかし、彼の国から央蛇を通らずにこんな場所に来られるはずはない。
涛蛇山脈を越える方法は、長い歴史の中で、未だ、央蛇の路を越える他に見つけられてはいない。
(だとすれば、嘉国側にいる危険人物が逃げ込んでいるとか?)
いやいや、危険人物って何だ。と、千夜は自分で自分の空想に失笑したが、仲間たちは明らかに戦闘態勢だ。
千夜の力を頼ってこないということは、大規模な戦闘となることもないのだろう。そもそも、こんな辺境で大規模戦闘などあり得ないわけで。
……だったら、なぜ皆こんなにも、表情を強ばらせているのだろうか。
呼吸するのが億劫になるほど張り詰めた空気の中、夏絶はそっと千夜の耳に顔を近づけた。
「これが雷王の命だ。よく見ておけ」
夏絶の囁きに瞬いたとき、すでに彼は駆けだしていた。夏絶に続いて、他の皆も。
慌てて彼らを追うと、鬱屈とした森が切れる。
山の斜面に小さな畑がいくつか。その更に向こうに、小さな家屋がいくつか並んでいるのがわかった。
(こんな所に、村が――)
四方から散っていた夏絶の部隊が村へ押し寄せる。わずか二十足らずの兵だが、各々が、進むべき方向を理解できているようで、統制された動きで、村のあちらこちらに向かっていく。
山間深く、山羊の鳴き声が響く村。しかし、千夜がたどり着くと同時に、悲鳴と赤が散った。
「っ!」
きゃああああ、とあちこちから上がる声は、ただの断末魔でしかなかった。
話し合いも何もない。突然湧き起こった一方的な殺戮。しかもそれは、夏絶たちがしかけたもの。
何が起こっているのかわからない。
小さな村の少数の村人。何をしたわけでもない人々を、一斉に殺していく。
村に火がかけられる。家を焼かれ、あぶり出される者たちを、待ち伏せた仲間達が斬り、殴り、容赦なくその命を奪う。
あっという間の出来事に、千夜は棒立ちになったままだった。
心臓の音がやけにうるさい。凄惨な光景が眼球に焼き付く。
同時に脳裏に、過去の出来事が蘇る――。突然襲いかかってきた嘉国の者たち。彼らを率いる黒き長が、容赦なく千夜以外のすべての命を奪ったあの夜。
(そんな――まさか)
都から出たからこそ実感する。
雷王の膝元で、彼の庇護に隠れた状態では、決して知り得なかった事実。
――十年の時が流れてなお、雷王は、何ひとつ、変わっていない。
千夜の村を焼いたあの時から、己の手を煩わせなくなった代わりに、その手足を使役する。
「こんなの――」
間違っている。
一刻も早く、戦を終わらせたくて都を出た。しかし、この殺戮は必要がないもの。
むせ返るように漂う、肉が焼ける匂い。村に生きる命を確実に断絶した夏絶と仲間たちの顔は、誰もが皆、表情を失っている。
考えることを拒むように、腹の底からねじれた熱がこみ上げる。
手で押さえたが間に合わなかった。
こみ上げてくる吐瀉物をおさえきれない。なすがまま腹のなかのものすべてを吐き出すばかり。
そうして顔を上げたところで目が合うのは、黒曜石の瞳。
彼もまた表情を失い、遠くから千夜の様子を見つめていた。
しかし、それもわずかの間。残る村人がいないかと村の中を巡回するため戻っていく。
――どれほどの時間が経ったのだろうか。
……いや、さほど経ってはいないのだろうが。
千夜が何も出来ないでいる間に、彼らの仕事は終わった。
返り血を浴びた隊の者が、表情を失ったまま、夏絶の元へと集まってゆく。千夜の様子をうかがうような視線をいくつか感じたけれども、千夜の頭にはもはや何も入ってこなかった。
ひゅう、と息を吸い込むと、肺いっぱいに血なまぐさい焦げた空気が流し込まれる。
たまらなくなって、千夜は彼らに背を向けた。
考える前に足が動く。
少しでもこの村から離れたくて、千夜は無意識のうちに駆けはじめる。
千夜! 名を呼ぶ声が耳に届くが、何も考えたくない。元来た道を戻っている途中で、強く腕を引かれた。
「やっ! 離して!」
「戦場は平気なのに、これは駄目なのか」
「当たり前じゃないか! こんなの……何の意味が」
「意味などない」
「……っ」
夏絶の声に温度はない。
ただただ上からの命を行使する。
雷王に対して思うところがあったのではなかったのか。彼自身を問い詰めたい気持ちでいっぱいなのに、上手く言葉が出てこない。
「疑わしきは罰せよ。それが、雷王だ」
「しかし! 彼らには何の罪もないじゃないか!」
「曰く、涛蛇に住まうこと自体が罪らしい。ここは、以前の粛清を逃れただけのただの村」
「そんな! 住むだけで罪だ? そんなの、間違っている! 君だって、そうは思わないのか」
千夜が声を荒げたが、夏絶は答えることがなかった。
千夜の腕を掴んだまま、他の仲間に合図を送る。それに合わせて、皆は散った。周囲に本当に生き残りがいないか、まるで探しにいくようで――。
「君は、天を墜とすつもりだと言った。なのに、こんな命を受けるのか」
「そうだ」
「っ。どうして――!」
「今はまだ、そうすることしか出来んからだ」
「……っ」
「不愉快だが、今の私には力が足りん」
そう告げる夏絶の腕に力がこもる。眉をひそめて、つぶやくように告げる彼の声には、温度がない。
家を焼く炎の熱風が流れてくる。
黒き煙が目にしみる。
千夜は唇を噛み締めたまま、俯いた。
「だからと言って、こんな――」
「慣れろ、とは言わん。越えろ」
「……」
「都にいては分からんかったかもしれんが、これが雷王の真実だ」
千夜は、目を閉じた。
夏絶はひとつ勘違いしている。
千夜が、雷王の真実を知らなかったはずはない。
苛烈と名高い元忌子。千夜の村を焼き払ったのも、若かりし頃の雷王自身だった。
十年の時を過ごす中で、彼を見てきた。仇として、名ばかりの養父として。
都で見せる彼の姿は少しばかり違ったけれども、やはり、根本は変わっていない――。
(都にいる間に、すっかり、忘れてしまっていたとでも言うのか――)
(あの憎しみが、風化したとでも?)
いや、違う。と、千夜は否定した。
わかっている。わかっていた。だからこそ、千夜は、雷王の元から離れた。
彼の側にいて、彼に取り込まれたまま終わるつもりはなかったからこそ。
彼ひとりが権力を握ったままでは、戦を終わらせることなど出来ないからこそ。
だから、己の地位を確立しようと、千夜は心に決めたのに――。
「……次は? まだ、村を焼くのか?」
「そうだ」
「――村人を逃すことは出来ないのか」
「同じだ。やがては雷王の手の者が、確認に入る」
「……っ」
命を下した上で、信用する気もないのか、雷王は。あるいは夏絶に命を課した上で、彼自身を見定めているとでも言うのだろうか。
目の前の夏絶は好きこのんでこのような所業をしているとは思えない。でなければ、こんな、まるで傷つくことを恐れるような虚ろな目をするはずがない。
(試しているのか)
実の息子が、信用できないからこそ。
(梧桐の、言葉の意味が分かった――)
千夜を彼の元へ送り込んだのも、同じだとでも言うのか。
雷王の持ち物を、どのように扱うのか――見定めるとでも、言うのだろうか。
「ここが終われば、次へ行く。――参加はしなくて良い。だが、逃げるな」
「……」
「覚悟してきたのだろう? これが現実だ。よく見ておけ」
「無関係な者を殺す覚悟なんか」
「ここの民は雷王に目をつけられた。それだけでもう、無関係とは言えない」
夏絶の言葉が突き刺さる。
彼の言葉は真実だ。
きっと、ここで夏絶たちがやらなくても、別の者が手にかける。そして夏絶たちは、見逃したことを罪を問われるのだろう。
「雷王一人を倒しても、この現実は変わらない。だから私は王となる」
「高夏絶」
夏絶の顔が一層険しくなる。
村を焼く炎が彼の頬へと反射し、ぎらついた瞳が千夜を刺した。
「かつてお前は、自分を利用しろと言った」
そうして静かに、夏絶は告げる。
「ならば改めて私も言おう。お前の望む未来があるなら、私を利用してみせろ。――出来ないならとっとと都へ帰れ。今ならまだ、なかったことにできる」
***
三つの村を焼いた。
央蛇へ至る道へ合流するまでに見つけた人間は全て殺した。歩みを進めるたびに皆が口数少なくなるのを感じて、千夜も何も言えなくなった。
千夜に出来るのは鎮魂の踊りだけ。
しかし、皆が殺されていくのを黙って見ている女の祈りなど、彼らの魂に届くのだろうか。
(わたしには、何が出来るだろう)
戦場を離れると、千夜は本当にちっぽけな存在でしかないことを思い知らされる。
目の前で無益な殺戮が行われているというのに――しかも、襲う側だって、意に添わぬものだというのに。
(わたしは、無駄な戦をやめさせたくて、ここに来ているのに)
千夜は、自分の立ち位置すら決められず、ぼんやりしているだけだった。
そうして、夜。央蛇へはあと一日も歩けばたどり着けるだろうかという折、千夜は一人になりたくて、こっそりと夏絶たちの元から離れた。
身体のぬめりがとれない心地がする。
それは、汗とか血とか汚れとか、そういった類のものではないことくらい分かっているのだけれど。
少し身体を綺麗にしたくて、野営を決めた場所の近く、水場を見つけて砂利道を歩いた。
大きな岩が多く、少し歩きにくい。それでも千夜は前に進み、森がひらけて光が差し込む場所を見つけた。
月が煌々と輝いている。
まるで千夜を見守ってくれているようで、胸がぎゅっとなる。
気がつけば、千夜の手足は動いていた。足場は決してよくはない。それでも、千夜にはそれしか出来ないから。
杖を振り、音を掻き鳴らす。
虫の音に応えるように、彼らとともに鳴くように――。
しかしそれも僅かな合間のことだった。
無心になった千夜の耳に、聞き覚えのない声が届いたから。
「誰か、いるのか――?」
瞬間、千夜は息を呑む。
ぎゅっと杖を抱き寄せて、声のした方を振り返る。
見知らぬ誰かと目があって、言葉を失った。
そこには、夏絶隊の誰でもない――千夜と同じ、煤色の髪をした青年が立っていた。




