最果ての、おわり。
世界の果てへと向かっていた。
木々の合間から見えるは緋の灯り。夜空を朱く染めては、少女の背を追って来る。
凍てつく空気が肌を刺す。履き物を失った素足のまま、少女はただひたすら前へと進んだ。
深い闇が落ち、視界は全く当てにはならないが、大丈夫。彼女の世界はちっぽけだ。この森だって、毎日のように駆け回っているからわかる。狭い木々の感覚も、地面を這う数多の根も。
だからこそ、世界の果てがどうなっているかも知っていた。
そこまで逃げたところで自分に何ができるだろうか。不安を抱えながら、それでも走ることしか出来なかった。
「あっちだ!」
「向こうに逃げたぞ!」
自身の後方で飛び交う怒号に、胸が締め付けられる。息が上がり、身体が痺れる。足がもつれて、意識に身体がついてこない。
はぁ。はぁ。
乾燥した空気。肌の表面は冷たさで感覚がないのに、何故か汗で髪が張り付く。ぽたりと滴が瞳に入ってきて、少女は目を細めた。
「――千夜!」
もう走れない。そう思うたびに名前が呼ばれる。
自分のそれよりも幾分か大きい手に左手を掴まれ、少女――千夜は顔を上げた。
「万里っ」
ぐいと、千夜を持ち上げんばかりの力強い大きな手。千夜より四つ年上の彼は、大人びた顔で振り返る。
幼い時からずっと千夜を守り続けてきた彼が、こんなところで千夜を見放すわけがなかった。
「諦めるな! お前は、お前は逃げなきゃいけないんだ!」
迷いのない口調で、彼は千夜の手を引いた。近づく数多の足音から少しでも離れられるよう、その手に力を込める。
しかし、わずか六つでしかない千夜はうずくまる。一度根を張った足を持ち上げるほど、彼女には体力が残っていなかった。
ぐったりと諦めるように膝をつくが、万里はそれを許さない。
千夜の両膝を抱えるように腕を通すと、万里は彼女を背に負い立ち上がった。突然身体が浮遊し、千夜は驚きで目を見開く。
「ちゃんと俺がいる。お前は、俺が守るから!」
だから、最後まで諦めるな。そう怒鳴る彼の背に縋り付いた。
「いたぞ! あの餓鬼だ!」
しかし、いくら森を知り尽くしていようと、子供の足で逃げるには限界がある。間近で声をかけられ、二人の身体はビクついた。
走って走って、木々が切れたその先。
はるか遠くまで夜空は広がる。
地面が切り崩れ、大地の裂け目と相成った地の底に流れるは一本の川。
深い深い闇の底に流れる、黒き水。
それを挟んで向こう側に、同じ高さの崖が見える。しかし、とてもではないが、跳んで渡れる距離ではなかった。
向こう岸に広がる大地。地平線のその先まで見渡せるが、あれは、千夜にとっては別の世界。
千夜にとっては、ここが、世界の終わり。
紺闇に浮かぶ大きな月が見下ろす、大地の切れ目。数多の追っ手に囲まれて、たどり着いた終着地。
「万里っ」
ぎゅうと、彼にしがみついた。
右も、左も、正面も。気がつけば鎧を身につけた男たちに取り囲まれて、抜けられぬ。
そして千夜たちの背後にするのは、崖という世界の果て。
「いちか、ばちか、か――」
ひと回り大きな万里の身体が、千夜を護るように抱え込む。彼が見下ろすははるか崖下。禿げた土壁にわずかに生える、何本かの木の存在。つたって下まで降りられるか。
二人を支えられるとも思えぬ頼りない緑に賭けるか否かと、口を閉じる。
しかし、わずかな迷いが彼の行動を鈍らせる。
万里が追っ手に背を向けた瞬間、千夜の首根っこが大きな手に掴まれた。
一気に視線が高くなる。
万里の手からすり抜け、手脚が浮遊感に襲われた。瞬間大きく見開くと、追っ手の男と目が合った。
背たけは千夜の倍といっても過言ではない。筋骨がしっかりとした大きな身体。その顔を覗き込むと、五十ほどだろうか――初老の、と呼ぶに相応しい男は、その齢に相応しからぬ力でもって、千夜をまるで犬猫のように持ち上げている。
フン、鼻息荒く千夜を見下ろす瞳。人を人とも思わぬ程冷徹な視線に震えたとき、後ろから怒鳴り声が聞こえた。
「千夜を――千夜を離せ!」
震えながらも一心に、万里は男に駆け寄った。千夜を掴み取ろうと、腕を伸ばす。同じように、彼の手を握り返したくて、千夜もまた手を伸ばした。
しかし、彼の手が届くことはなかった。
「邪魔だ。この童が!」
大男が万里を払うように、腕を振る。その豪腕に突き飛ばされた彼は、宙を跳んだ。
千夜は目を見開く。
幼い時から、ずっとずっと側にいてくれた幼馴染。自然との生き方も、山の歩き方も全部教え、見守ってきてくれた男の子。
実の兄のように慕ってきた万里が、ゆっくり、ゆっくりと視界から消えてゆく。
「――万里っ!」
千夜の呼びかけも虚しく、大男に弾かれた彼は、崖の向こう――千夜の知る世界のそのまた向こうへと落ちていった。
「万里っ! 万里っ!! いやぁっ! 放してっ!!」
すぐにでも彼を追いかけたくて、千夜は手足を動かした。しかし、すぐに大男の腕を巻き付けられ、身体の自由が奪われる。
呆気なく散る命。誰もが、千夜を逃がすためにと村へと残った。しかしその末路も、夜空を照らす炎の緋色で明らかだ。
呼吸がままならない。数多の見知らぬ男たちに取り囲まれ、己の行き着く先に恐怖する。ああ、きっと、ここで斬られるのだろう、と。
「その娘か――」
引っ掴まれたまま、千夜は声のする方へ身体を向けられる。
数多の兵たちが左右へ割れた。その中央、闇の中より歩んでくる者に、千夜は目を奪われた。
まるで、磨かれた黒曜石のようだと思った。
深く、宵闇に溶け込むような艶のある黒い髪。その眼光は鋭く、まるで刃の様に千夜を刺す。
千夜を見下ろし、口の端を上げる男は若い。それでも、千夜には一目でわかった。この男が、奴らの長だと。
齢は二十半ばだろうか。見たこともないような素材でできた、見事な鎧に身を包んだ男。その細やかな装飾に、千夜はつい視線を奪われた。
自分とは明らかに住む世界の違う者。それが静かに千夜を見下ろしている。
そしてその男は不敵な笑みを浮かべては、千夜の顎を掴んだ。
「まだ餓鬼だな。――まあいい。顔立ちは悪くない」
千夜の世界を壊した張本人。憎しみに満ちた目で奴の顔を睨みつけるが、大きな手で頭を押さえつけられては勢いを殺される。
「本当にお前だったら、だが」
一体何のことかわからなかったが、男の視線を追った瞬間、千夜は目を見開いた。
数多の兵に取り囲まれて、羽交い締められ、身動きの取れぬ村人がひとり。
見事な総刺繍の衣を身にまとい、その顔までもすっぽりと頭巾に覆った小柄な女性。
一切の肌を見せぬ者など、千夜の村にはひとりしかいなかった。
「ばァさま!」
『この顔を見せてはならぬのよ』――それが自戒だと言い続けた祖母の姿に息を呑む。
彼女もまた、千夜の声に反応してはぴくりと身体を動かすが、彼女の言葉よりも、男の命の方が早かった。
「殺せ」
たったひと言。感情も何もない、ただの音。それが千夜の耳に届いたとき、すべては終わっていた。
ぴっ、と千夜の頬に何かが飛び散る。
頬を伝ったそれの生ぬるさを感じたときすでに、穏やかで優しかった祖母の首が、地面に転がっていた。
父も母もおらぬ千夜に遺された唯一の家族。にも関わらず、祖母の顔を見たのは、このときが初めてだった。
ごろりと転がる頭から、頭巾が外れる。皺くちゃの肌は泥にまみれて、宵闇に赤の色彩が広がってゆく。
ぴくりぴくりと動いていた瞼も、やがて千夜を見つめたまま動かなくなった。
絶望の顔をしたままの祖母の顔は、まるで人形みたいに現実味がなかった。
どれだけねだっても、見せてくれなかった彼女の顔。念願叶ったとは到底言えない。
いっそ夢であればと思ったとき、千夜は気がついた。彼女のひたいに描かれた紋様に。
そして千夜は瞬時に悟る。その紋様は、族長である千夜の家を中心に、代々この村に伝えられてきたもの。
幼いときから教え込まれた紋様。芸術を愛した一族によって、絵にも、刺繍にも、彫刻にも――そして舞にも、その形が刻まれていた。
炎の様でもあり、水の様でもある。草木にも見えては、風の様にも。森羅万象。あらゆるいのちを思わせる、抽象的な造形。
そのうねりに目を奪われて、息を呑む。
世界に祖母と千夜が二人きりになった心地がする。周囲は闇に覆われて、祖母の首だけが己を見ている。
その瞬間、彼女のひたいの紋様が、眩く、白く輝いた。
「当たり、か」
漆黒の男が、満足げに呟いたとき、眩いほどの白の光は弧を描き、千夜めがけて降り注ぐ。
あまりの眩さに目を細めていると、その輝きはやがて、千夜の内腿――右脚の付け根へと収束した。
再び周囲は闇に包まれる。何が起こったのかわからないでいると、不敵に笑った漆黒の男は、ぐいと千夜の腿を掴んでは、その股の間に目を向けた。
「やっ……」
問答無用に下の衣をひん剥かれる。冷たい空気のなか肌が露わになり、身が震えた。
剥き出しになった腿に、彼が何を見たのかはわからない。だが、引き千切られそうな強い力で押さえつけられては、獣のような荒々しい視線をぶつけられた。
「くくくっ……ハハハハハ! よもや、このような場所に顕れようとはな!」
かつかつと高らかに笑い声をあげては、再び奴は千夜の顎を押さえつけんと手を伸ばす。
その瞬間、千夜は奴の右手に噛み付いた。
厚い皮に鋼が埋め込まれた小手の上。ぎり、と歯に食い込む重たい感触。先に千夜の歯が駄目になりそうだが、このようなことでしか抗えぬ。
眼を上に向け、反抗の意を露わにするが、彼は上機嫌に笑って見せた。
「気位だけは一人前か。――しかし、まるで、仔猫だな」
千夜の些細な反抗などものともせず、男はもう片方の手で千夜の頬を引っ張る。問答無用で口を開いては、噛み付かれたもう片方を取り出し、千夜の両頬を掴んだ。
そして、その顔を寄せては、耳元で囁く。
「小娘だが、十年待ってやる。――せいぜい己を磨くことだな」
それだけ言い残し、奴はその身を翻した。兵たちの間を抜けては、高らかに命じる。
「アレは捕らえた。引き上げるぞ」
「ハッ! 確保した他の娘は如何致しましょう?」
「消しておけ」
くい、と首を振り合図を送ると、皆一斉に村へと駆け戻ってゆく。奴もまた、一度だけ千夜に視線を送った後、宵闇の森へと消えていった。
「……」
一夜にして全てを失った千夜の世界は、ここで終わる。
いや、唯一、彼女に遺されたものがあるとするならば、内腿に宿った何かの輝き。
じんじんと、掴まれた腿の痛みを感じたのは、全てが終わった後だった。