表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
1/25

最果ての、おわり。

 世界の果てへと向かっていた。

 木々の合間から見えるは緋の灯り。夜空を朱く染めては、少女の背を追って来る。

 凍てつく空気が肌を刺す。履き物を失った素足のまま、少女はただひたすら前へと進んだ。


 深い闇が落ち、視界は全く当てにはならないが、大丈夫。彼女の世界はちっぽけだ。この森だって、毎日のように駆け回っているからわかる。狭い木々の感覚も、地面を這う数多の根も。

 だからこそ、世界の果てがどうなっているかも知っていた。

 そこまで逃げたところで自分に何ができるだろうか。不安を抱えながら、それでも走ることしか出来なかった。



「あっちだ!」

「向こうに逃げたぞ!」


 自身の後方で飛び交う怒号に、胸が締め付けられる。息が上がり、身体が痺れる。足がもつれて、意識に身体がついてこない。


 はぁ。はぁ。


 乾燥した空気。肌の表面は冷たさで感覚がないのに、何故か汗で髪が張り付く。ぽたりと滴が瞳に入ってきて、少女は目を細めた。



「――千夜(せんや)!」


 もう走れない。そう思うたびに名前が呼ばれる。

 自分のそれよりも幾分か大きい手に左手を掴まれ、少女――千夜(せんや)は顔を上げた。


万里(ばんり)っ」


 ぐいと、千夜を持ち上げんばかりの力強い大きな手。千夜より四つ年上の彼は、大人びた顔で振り返る。

 幼い時からずっと千夜を守り続けてきた彼が、こんなところで千夜を見放すわけがなかった。


「諦めるな! お前は、お前は逃げなきゃいけないんだ!」


 迷いのない口調で、彼は千夜の手を引いた。近づく数多の足音から少しでも離れられるよう、その手に力を込める。

 しかし、わずか六つでしかない千夜はうずくまる。一度根を張った足を持ち上げるほど、彼女には体力が残っていなかった。


 ぐったりと諦めるように膝をつくが、万里はそれを許さない。

 千夜の両膝を抱えるように腕を通すと、万里は彼女を背に負い立ち上がった。突然身体が浮遊し、千夜は驚きで目を見開く。


「ちゃんと俺がいる。お前は、俺が守るから!」


 だから、最後まで諦めるな。そう怒鳴る彼の背に縋り付いた。




「いたぞ! あの餓鬼だ!」


 しかし、いくら森を知り尽くしていようと、子供の足で逃げるには限界がある。間近で声をかけられ、二人の身体はビクついた。


 走って走って、木々が切れたその先。

 はるか遠くまで夜空は広がる。

 地面が切り崩れ、大地の裂け目と相成った地の底に流れるは一本の川。

 深い深い闇の底に流れる、黒き水。

 それを挟んで向こう側に、同じ高さの崖が見える。しかし、とてもではないが、跳んで渡れる距離ではなかった。


 向こう岸に広がる大地。地平線のその先まで見渡せるが、あれは、千夜にとっては別の世界。


 千夜にとっては、ここが、世界の終わり。

 紺闇に浮かぶ大きな月が見下ろす、大地の切れ目。数多の追っ手に囲まれて、たどり着いた終着地。



「万里っ」


 ぎゅうと、彼にしがみついた。

 右も、左も、正面も。気がつけば鎧を身につけた男たちに取り囲まれて、抜けられぬ。

 そして千夜たちの背後にするのは、崖という世界の果て。


「いちか、ばちか、か――」


 ひと回り大きな万里の身体が、千夜を護るように抱え込む。彼が見下ろすははるか崖下。禿げた土壁にわずかに生える、何本かの木の存在。つたって下まで降りられるか。

 二人を支えられるとも思えぬ頼りない緑に賭けるか否かと、口を閉じる。



 しかし、わずかな迷いが彼の行動を鈍らせる。

 万里が追っ手に背を向けた瞬間、千夜の首根っこが大きな手に掴まれた。


 一気に視線が高くなる。

 万里の手からすり抜け、手脚が浮遊感に襲われた。瞬間大きく見開くと、追っ手の男と目が合った。


 背たけは千夜の倍といっても過言ではない。筋骨がしっかりとした大きな身体。その顔を覗き込むと、五十ほどだろうか――初老の、と呼ぶに相応しい男は、その齢に相応しからぬ力でもって、千夜をまるで犬猫のように持ち上げている。


 フン、鼻息荒く千夜を見下ろす瞳。人を人とも思わぬ程冷徹な視線に震えたとき、後ろから怒鳴り声が聞こえた。



「千夜を――千夜を離せ!」


 震えながらも一心に、万里は男に駆け寄った。千夜を掴み取ろうと、腕を伸ばす。同じように、彼の手を握り返したくて、千夜もまた手を伸ばした。


 しかし、彼の手が届くことはなかった。


「邪魔だ。この(わっぱ)が!」


 大男が万里を払うように、腕を振る。その豪腕に突き飛ばされた彼は、宙を跳んだ。


 千夜は目を見開く。

 幼い時から、ずっとずっと側にいてくれた幼馴染。自然との生き方も、山の歩き方も全部教え、見守ってきてくれた男の子。

 実の兄のように慕ってきた万里が、ゆっくり、ゆっくりと視界から消えてゆく。



「――万里っ!」


 千夜の呼びかけも虚しく、大男に弾かれた彼は、崖の向こう――千夜の知る世界のそのまた向こうへと落ちていった。



「万里っ! 万里っ!! いやぁっ! 放してっ!!」


 すぐにでも彼を追いかけたくて、千夜は手足を動かした。しかし、すぐに大男の腕を巻き付けられ、身体の自由が奪われる。

 呆気なく散る命。誰もが、千夜を逃がすためにと村へと残った。しかしその末路も、夜空を照らす炎の緋色で明らかだ。


 呼吸がままならない。数多の見知らぬ男たちに取り囲まれ、己の行き着く先に恐怖する。ああ、きっと、ここで斬られるのだろう、と。



「その娘か――」


 引っ掴まれたまま、千夜は声のする方へ身体を向けられる。

 数多の兵たちが左右へ割れた。その中央、闇の中より歩んでくる者に、千夜は目を奪われた。



 まるで、磨かれた黒曜石のようだと思った。

 深く、宵闇に溶け込むような艶のある黒い髪。その眼光は鋭く、まるで刃の様に千夜を刺す。

 千夜を見下ろし、口の端を上げる男は若い。それでも、千夜には一目でわかった。この男が、奴らの長だと。

 齢は二十半ばだろうか。見たこともないような素材でできた、見事な鎧に身を包んだ男。その細やかな装飾に、千夜はつい視線を奪われた。

 自分とは明らかに住む世界の違う者。それが静かに千夜を見下ろしている。


 そしてその男は不敵な笑みを浮かべては、千夜の顎を掴んだ。



「まだ餓鬼だな。――まあいい。顔立ちは悪くない」


 千夜の世界を壊した張本人。憎しみに満ちた目で奴の顔を睨みつけるが、大きな手で頭を押さえつけられては勢いを殺される。


「本当にお前だったら、だが」


 一体何のことかわからなかったが、男の視線を追った瞬間、千夜は目を見開いた。


 数多の兵に取り囲まれて、羽交い締められ、身動きの取れぬ村人がひとり。

 見事な総刺繍の衣を身にまとい、その顔までもすっぽりと頭巾に覆った小柄な女性。

 一切の肌を見せぬ者など、千夜の村にはひとりしかいなかった。


「ばァさま!」


 『この顔を見せてはならぬのよ』――それが自戒だと言い続けた祖母の姿に息を呑む。

 彼女もまた、千夜の声に反応してはぴくりと身体を動かすが、彼女の言葉よりも、男の(めい)の方が早かった。



殺せ(やれ)


 たったひと言。感情も何もない、ただの音。それが千夜の耳に届いたとき、すべては終わっていた。


 ぴっ、と千夜の頬に何かが飛び散る。

 頬を伝ったそれの生ぬるさを感じたときすでに、穏やかで優しかった祖母の首が、地面に転がっていた。

 父も母もおらぬ千夜に遺された唯一の家族。にも関わらず、祖母の顔を見たのは、このときが初めてだった。


 ごろりと転がる頭から、頭巾が外れる。皺くちゃの肌は泥にまみれて、宵闇に赤の色彩が広がってゆく。

 ぴくりぴくりと動いていた瞼も、やがて千夜を見つめたまま動かなくなった。


 絶望の顔をしたままの祖母の顔は、まるで人形みたいに現実味がなかった。

 どれだけねだっても、見せてくれなかった彼女の顔。念願叶ったとは到底言えない。



 いっそ夢であればと思ったとき、千夜は気がついた。彼女のひたいに描かれた紋様に。

 そして千夜は瞬時に悟る。その紋様は、族長である千夜の家を中心に、代々この村に伝えられてきたもの。

 幼いときから教え込まれた紋様。芸術を愛した一族によって、絵にも、刺繍にも、彫刻にも――そして舞にも、その形が刻まれていた。

 

 炎の様でもあり、水の様でもある。草木にも見えては、風の様にも。森羅万象。あらゆるいのちを思わせる、抽象的な造形。

 そのうねりに目を奪われて、息を呑む。


 世界に祖母と千夜が二人きりになった心地がする。周囲は闇に覆われて、祖母の首だけが己を見ている。

 その瞬間、彼女のひたいの紋様が、(まばゆ)く、白く輝いた。



「当たり、か」


 漆黒の男が、満足げに呟いたとき、眩いほどの白の光は弧を描き、千夜めがけて降り注ぐ。

 あまりの眩さに目を細めていると、その輝きはやがて、千夜の内腿――右脚の付け根へと収束した。


 再び周囲は闇に包まれる。何が起こったのかわからないでいると、不敵に笑った漆黒の男は、ぐいと千夜の腿を掴んでは、その股の間に目を向けた。


「やっ……」


 問答無用に下の衣をひん剥かれる。冷たい空気のなか肌が露わになり、身が震えた。


 剥き出しになった腿に、彼が何を見たのかはわからない。だが、引き千切られそうな強い力で押さえつけられては、獣のような荒々しい視線をぶつけられた。



「くくくっ……ハハハハハ! よもや、このような場所に顕れようとはな!」


 かつかつと高らかに笑い声をあげては、再び奴は千夜の顎を押さえつけんと手を伸ばす。

 その瞬間、千夜は奴の右手に噛み付いた。

 厚い皮に鋼が埋め込まれた小手の上。ぎり、と歯に食い込む重たい感触。先に千夜の歯が駄目になりそうだが、このようなことでしか抗えぬ。

 眼を上に向け、反抗の意を露わにするが、彼は上機嫌に笑って見せた。


「気位だけは一人前か。――しかし、まるで、仔猫だな」


 千夜の些細な反抗などものともせず、男はもう片方の手で千夜の頬を引っ張る。問答無用で口を開いては、噛み付かれたもう片方を取り出し、千夜の両頬を掴んだ。

 そして、その顔を寄せては、耳元で囁く。



「小娘だが、十年待ってやる。――せいぜい己を磨くことだな」


 それだけ言い残し、奴はその身を翻した。兵たちの間を抜けては、高らかに命じる。



「アレは捕らえた。引き上げるぞ」

「ハッ! 確保した他の娘は如何致しましょう?」

「消しておけ」


 くい、と首を振り合図を送ると、皆一斉に村へと駆け戻ってゆく。奴もまた、一度だけ千夜に視線を送った後、宵闇の森へと消えていった。



「……」


 一夜にして全てを失った千夜の世界は、ここで終わる。

 いや、唯一、彼女に遺されたものがあるとするならば、内腿に宿った何かの輝き。

 じんじんと、掴まれた腿の痛みを感じたのは、全てが終わった後だった。


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ