71話 また…
『この、野郎!』
舌打ちをし、二人を抱えたまま振り返る。その勢いのまま目の前に車を玄武に向かって蹴り飛ばす。人間の持つ脚力を遥かに超えて蹴り上げられた車は側面を大きく歪み、火花を散らしながら咄嗟の反撃に対応出来なかった玄武の口の中へと吸い込まれる。
車が飲み込まれたと同時に玄武の首の一部分が大きく膨らんだ。それを合図に玄武の頭部が暴れ出す。
無規則に首を振り回し、アスファルトや自分の身体に頭部をぶつけながら悶えている。ぶつかった衝撃でアスファルトにはひび割れ、足元がふらつくほどの揺れがその場にいる優理たちに襲う。
苦しそうに震える頭部は口から大量の血と鉄の塊を吐き出しながら激しい憎悪が宿った赤い目でクロトを睨む。
クロトが抱えていた二人を放り出して再び飛び立つのと玄武の頭部に向かって伸びたのは同時だった。
迫りくる化け物に彼は紙一重で回避して膨らんだ部分に向かって蹴りを叩き込む。
聞き慣れない醜い悲鳴が響き渡り、思わず全員が耳を塞ぐ。また玄武の頭部は苦しみながら吐血する。
『へっ、どうやら急所ができたみてぇだな』
仲間の危機に五体の大型犬のキメラたちがクロトに襲い掛かる。鋭い爪や牙を前にしてもクロトは臆する事なく、二本の剣で首を刎ねて斬り刻み、肉の塊とする。彼の足元にはキメラの血や肉体などが散乱し、そこだけが異質な空間へと変貌を遂げる。
その瞬間、騒然としていた空気が一気に変わった。
さっきまで圧倒的に優位だったキメラたちは警戒を強めてクロトを睨んでいた目がさらに鋭くなり、人々は自分たちの命を脅かす化け物とはいえ生き物を簡単に斬り刻んだ救世主の姿に大きな衝撃を受けたようだ。
モニター越しだったとはいえ、この光景を見ていた優理たちもいざ目の前で繰り広げられると息を呑まざるを得ない。
これが神創人間とキメラによる殺し合いの場なのだ。お互いに一瞬でも気を抜けば死に直結する危うい中、彼らは己が目的のために刃を、牙を相手に突き立てる。
どちらか一方が滅びるまで続く地獄に自分たちは立たされているというのを再認識した。
クロトが大型犬のキメラを蹂躙している隙に傷付いた首を庇うように玄武の頭部は胴体へ引っ込む。堅い甲羅を破砕する術を持たないクロトは玄武への攻撃を諦めて、もう一度空へと飛翔して今度はもう一体の大型のキメラ――多頭獣に仲間の血で赤く染まった刀身を向けて、突進する。
「――あ、そうだ。直哉、夏鈴ちゃんをお願い! 大丈夫ですか!?」
過ぎ去った殺戮から現実へと意識が戻った瞬間、放り出された男女の下へ駆け寄る優理。けれど、自分の呼び掛けに二人は応えてくれない。
「しっかりして下さい! 私たちはまだ死んじゃいない! だから、生きるようとするのを諦めないで!」
「――はっ、はい。ありがとう」
先に正気を取り戻したのは優理が肩を揺らした女の方だった。座り込んでいる彼女に優理は自分の肩を貸して立ち上がらせる。
男の方はまだ茫然としていて動く気配が全くない。さすがに優理一人では大人二人を抱えるだけの力はない。
(なんとか二人を運べる方法は――)
「ふん、怯えてるだけの貴様にしてはいい進歩だ。この男は我が運ぶ、早く大衆の群れの中に行くぞ」
この緊迫した状況でも自分を挑発するだけの余裕が残っている源田に思考が遮られる。彼は黙って男を軽々と持ち上げ、しっかりとした足取りで一歩を踏み出す。
「ありがとう」
「まだ礼を述べるには早い。この状況を打破する光明は未だ見えてこない」
「分かってる。でも、どうしたら………」
「今は見守るしかない」
優理たちは空中で火球の嵐に振る舞わされているクロトに視線を向けながらキメラに包囲されている人々の中に戻っていく。
「あ、ありがとうございます」
「いえ、無事で良かったです」
ひとまず命の危機を脱した優理たちは担いでいた二人を降ろす。礼を言う彼らに優理たちは軽く会釈をして戦況を見守る。
「そういえば、何で私たちを襲わないんだろう?」
ふと、最初に浮かんだ疑問を言葉にする。
未だにキメラたちは取り囲んだ人間を襲う気配が全くない。
唯一攻撃しているクロトには今の玄武の攻防以外では空中にいる時に野球ボールサイズの火球を放っているだけだ。そのため、見える限りでは死傷者は出ていない。
クロトを襲った大型犬のキメラたちも標的は彼だった。
「可能な限り無傷で人間を捕獲しようとしているのかもしれん。その行動に移行しないのは邪魔者を排除しなければいけないのだろう」
「どっちにしろ、あいつが最後の希望なのは変わらないのね」
「だが、このままではクロトの神気を枯渇してしまう。そうなれば終わりだ」
「クロトたちの神気がなくなるとどうなるの?」
これまでの戦闘で長期戦に持ち込まれた事がないため、疑問に思わなかったが、クロトやアレクも動力源である神気がなくなるのを想像もしていなかった。
「機能を停止して人間の姿で眠ってしまうんだ。核を破壊されてなければまた神気を供給すれば大丈夫だけど、この状況ではそんな時間は確保出来ないだろう」
「じゃあ、このまま時間が経てば………」
クロトが戦えなくなり、その時が来ればキメラたちは動き出すだろう。キメラによる蹂躙が控えていると突き付けられ、背筋が凍る。
何も出来ないまま優理たちの時間が過ぎていく。
「おぉーい、助けてくれぇー」
焦っている心を乱す情けない声が耳に届く。声の主は集団の輪から少し離れた所で少女と一緒にその場で震えていた。
「ちょっと、何してんの!? 早くこっちに来なさいよ!」
クロトが助けた二人を避難させるために夏鈴を直哉に預けた。その時間で直哉たちも人が集まっている所に移動していると思っていたため、二人が全く動いていない事に驚きが隠せない。
「こ、腰が抜けて動けないんだ!」
「はぁ!?」
「くだらん問答は後にしろ!」
直哉の返答からそのまま言い争いに発展する直前、源田に背中を叩かれた。彼はそのまま二人の下へ駆け寄ろうとする。
確かにこの状況で口喧嘩をしている場合ではない。優先するべきは彼らの安全の確保だ。源田に気付かされるのは癪に障るが、その不満を飲み込んで彼に続いて足を動かす。
直哉たちの下て駆け付けようとすると優理たちの目の前で黒い塊が猛スピードで通過していった。
その塊はアスファルトに叩きつけながらも勢いが止まる事がなく、そのまま壁に激突した。壁は蜘蛛の巣状の亀裂が入り、中心から崩れていく。
『ぐ、があぁ………』
崩れた事で起こる粉塵で姿は確認出来なかったが、微かに聞こえた呻き声から塊の正体がクロトだと気付く事が出来た。
「クロト……」
クロトが押されているという事実を脳が理解を拒む。そんな中、彼が飛ばされてきた方向から多頭獣の凄まじい咆哮が上がる。
片目は×印のような裂傷、顔面には無数の火傷や刀傷によって傷だらけのライオンの頭部の様子はクロトとの戦闘の激しさを物語っている。
ライオンの赤い目は吹き飛ばしたクロトではなく、一か所に寄せ合う人々を真っ直ぐ見ている。唸り声と同時に鬣が逆立って、先端が彼らに向く。それにより、彼らの恐怖がさらに増大する。
鬣の部分は全て蛇の頭部だったのだ。蛇たちは口を大きく開け、人々に襲い掛かる。
ほとんどの人が恐怖でその場から足を動かせないでいる。このまま彼らが鬣の蛇たちに喰われる、そう思った時、光の壁が現れる。突然現れた壁に蛇たちは頭を次々とぶつけ、痛みによって悶絶する。
光の壁は広がり、ドーム状になって彼らを包む。
あの壁を発生させたのはいったい誰なのだろうか。
クロトやアレクがこんな能力を使った事は一度もない。他の誰かが壁を発生させたと考えるべきだ。
『ちょっと源田君! 能力を使うならせめて神気を身体から溢れさせないで! ヤツらにバレるから!』
耳に飛び込んできた精神体のヴァルカンの声が優理の疑問を解消させた。
一人だけ、光の壁を発生――創る事が可能な人物がいた。
それは技術の神ヴァルカンの能力の一部『創造』が宿った源田和弘だ。彼は額に汗が滲み出しながら、人々に向かって手を翳している。全身から黄金の光が溢れていたが、ヴァルカンの言葉によってすぐにその光は彼の中へと吸い込まれる。
「源田、あんた……」
「その場凌ぎだ。長くは持たん」
「クロちゃん!!」
「あ、夏鈴、ちょっと待て!」
一時的ではあるが、人々の脅威が取り除かれて僅かに緊張の糸が緩んだ優理の耳に夏鈴の悲痛な叫びが響く。
夏鈴が自分を捉えていた直哉の腕を振り解き、クロトの下へ駆け寄ろうとしている。離れていく夏鈴をもう一度掴もうと直哉は手を伸ばすも腰が抜けて動けない彼の手はあと一歩のところで彼女の手には届かなかった。
『ぐ、か、かり――っ! 逃げろ夏鈴!』
自分に近づいてくるクロトは近づいてくる夏鈴に叫ぶ。彼がどうして焦っているのか分からなかったが、視界の端でゆっくりと動く何かがいるのに気付く。
クロトに駆け寄ろうとしている夏鈴を見ていたのは優理やクロトだけではなかったのだ。
玄武の頭部が再び甲羅から顔を出し上から見下ろす赤い目は真っ直ぐに夏鈴を捉えていた。奴の標的が彼女であると認識してから取った優理の行動は脳が動けと命令するよりも早く身体が動いていた。
たとえ夏鈴の下へ駆け付けたとしても優理に出来る事など何もない。けれど、何もしないという選択肢は優理にはなかった。
「――あ……」
玄武が自分を見ている事に気付いた夏鈴は血走った赤い目に怯え、足が震えて立ち止まってしまった。
大きく口を開け、彼女に向かって突進する。
「やめてえぇぇぇぇぇ!!」
『クソッ!!』
優理の叫びに呼応するようにクロトも背中のブースターを起動させ、夏鈴の下へ飛ぶ。
自分の命が危険に晒す事も厭わず、二人は夏鈴に向かって手を伸ばす。その手を掴めば彼女の命を救う事が出来るかもしれないと淡い期待をして。
一刻も早く彼女の下へ駆け付けたいのに身体が重く、前へ進むのがあまりにも遅い。それは反対側にいるクロトも自分よりも速く動けるはずなのに何故あんなに遅いのか。
玄武の頭部が自分たちの行動を無駄だと嘲笑うようにゆっくりと夏鈴に近づいているというのに。いや、いや、真に嘲笑っているのはもっと別の何かだ。
何かに躓き、バランスを崩して転倒する。その一連の動きが驚くほど、スローモーションだった。
叫び、彼女の下へ駆け寄る瞬間までは時の流れは正常だった。なのに今は優理の視界に映る全ての動きが緩慢に見える。
悪意のある何かは、わざとこの瞬間の時の流れを凍結させて絶望に抗う優理たちの心を弄び、神経を擦り減らす。
そんな時の流れの中、自分よりも速いクロトが玄武よりも先に夏鈴の下へ駆け付けてくれと祈る。
しかし、現実はそんな簡単に優しい手を差し出してくれない。
突如横から大きな火球がクロトを襲う。夏鈴の事で視野が狭くなっていたクロトは反応に遅れて避けきれず、被弾を許してしまい、衝撃で数メートル吹き飛ばされる。
クロトを妨害した存在の確認よりも夏鈴を救う唯一の希望が絶たれた事の絶望が激しく、顔から血の気が引いていくのを感じながらも夏鈴に向かって再び手を伸ばす。
彼女との距離はまだ大きく開いていて、夏鈴も手を伸ばしたところで、お互いの手を掴むなど不可能だ。
その行為に何の意味もないと分かっている。それでも、心が、身体が諦めるのを止めない。彼女に待ち受ける死を否定したいという優理なりの抵抗なのだ。
そんな優理を突き放すように玄武の大きく開かれた口が夏鈴が立っているアスファルトごと飲み込む。口とアスファルトがぶつかった時の激しい振動と鈍い音が身体に伝わる。
口を閉じた頭部が離れた空間には何もなかった。あるのはひび割れたアスファルトだけで、さっきまで標的になっていた少女の影はどこにも見当たらない。
首を伝って頭部から胴体へと僅かな膨らみが流れていくのを見て彼女がどこにいるのかを認識してしまった。
「―――いや―――」
目の前で起きた事を否定しようと零れた声はあまりにも小さく、誰の耳にも届かない。
人々の悲痛な叫び、キメラの唸り声、それぞれが入り乱れた騒音が時の流れが正常に戻った事を証明してくる。
しかし、今はそんな事はどうでもいい。また守ろうとした命を再び守れなかった事への痛みが優理の心を蝕む。
「―――いやぁぁぁぁぁああああああ!!!」
受け入れたくない現実を拒絶する叫びは新たに玄武から発せられた三つの咆哮に搔き消されたしまった。




