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パラドックス・セリスィ -クロス・W-  作者: 夏樹浩一
第十二章 救う×掬う
120/123

120話  堕ちていく  宮原視点

 広く薄暗い空間の中にパソコンの画面の光が数時間灯り続けている。パソコンの前に座っている宮原がエドナと救世主の一人の戦闘映像を見ながらほくそ笑む。


 低く下から侵食するような不気味な声が反響し、自分の耳に届く。

 映像が拡散されてSNS上では今後人間側が勝てるのかと不安を抱くコメントが多く見られる。


「ははっ、いいねぇ。てめぇらの支えになっていた救世主様ってのがこんなにボロボロになって負けたんだ。怖くもなるよなぁ」


 救世主が負けて不安になる人々の顔を想像し、宮原の口元が歪む。既にエドナ側の人間として行動している宮原にとって人々の絶望に陥るというのは見ていて気分がいい。


「そうだ、もっと苦しめ。お前らが苦しんで歪んだ顔をもっと見せてくれよぉ」


 自分の中に道徳や倫理観というものが喪失してから他人の笑顔を見ると不愉快になり、不幸となって絶望に打ちひしがれる姿を見るのがなによりの幸福と感じるようになった。


「俺はこんなに苦しんでんのに、他の奴らが楽しそうにしてんのは不公平だよなぁ」


 今でも脳裏に焼き付いているのが、自分の目の前で泣き叫ぶ人間を喰っていくエドナの姿だ。



――――――――――――――――――――



 エドナが現れて、宮原を含む何人もの生徒が攫われて、地下に監禁された。人間の肌と蛇の鱗の境目である腹部から数体の化け物を産み出し、姿を消した。

 逃げようにも自分たちを見る化け物の血走った赤い目に睨まれ、誰も動けなかった。

 しばらくしてエドナが何人もの人間を捕まえてきた。みんな恐怖で震えて真っ青な顔をしていた。


 そして、地獄が始まる。


 エドナが自分たちを見て口元を歪めると近くにいた男を摘んだ。男はもちろん助けを求めて無様に泣き叫ぶ。

 だが、彼を助けようとする者は誰もいなかった。その場にいる誰もが次の獲物になるのを恐れて、目を逸して震えるだけしかできなかった。


 エドナが男を頭上まで持ってくると、上を向いてゆっくりと口を大きく開ける。口の動きが止まるといよいよ男を喰われる、誰もがそう思った。


 しかし、エドナは摘んだ男を徐々に握り締める。男の叫びと共に耳に届くのは骨が軋んで折れる音だ。やがて男の声は止み、力なくぶら下がった頭から流れる血が滴り落ちてエドナの口へと垂れる。脈を打つように数回喉が動いてエドナは持っていた男を口へ運んで咀嚼し始める。


 聞いた事がない固く、耳障りな咀嚼音がその場にいる人間の耳を浸食していく。

 言葉に失い、人間が喰われる瞬間を目の当たりにした宮原たちの下へ黒い物体が転げ落ちる。その物体は数回バウンドしてゆっくりと宮原の方へ移動して目の前で止まった。


「あ……ああぁ………ああああぁぁぁ!!!!」


 目から受け取った情報を拒絶するようにこれまで出した事のない大きな声で叫ぶ。しかし、拒絶しようとすればするほど、目の前にある男の首が脳裏に焼き付けられる。

 咀嚼音が止まり、エドナは次の獲物を決めようと品定めする。じっくりと捕まえた獲物を眺めるエドナは目が止まった。


「………は?」


 薄暗い空間の中で鈍く光るエドナの赤い目と自分の目が合う。その事実からすぐに来る自分の運命を宮原は首を振って否定する。


「い、いやだ……嫌だ。嫌だああぁぁぁ!!」


 ゆっくりと自分に向かってくるエドナの手から逃れようと尻餅を付いた状態で下がる宮原。

 死に直面して人前というのも忘れて顔は涙と涎でぐちゃぐちゃになり、恐怖で叫んだ声は喉を圧迫して呼吸を妨げ、下半身の力が入らなくなって汚物が意思に反して排泄される。


「ま、待って! 待ってください!!」


 エドナの手が自分の眼前まで迫り、宮原は声を上げる。両手を前に付いて何度も頭を地面に打ち付けた。鼻から伝わる生暖かいアンモニア臭が恐怖以外の感情を呼び起こす。


「お願いします! 喰わないでください! なんでもします! なんでもやります!」


 宮原の悲痛な訴えも虚しく迫ってきてくる。宮原は近くにいた女生徒の頭を引っ張って自分の前に押し出した。

 彼女が何かを言うよりも先に何度も殴打する。可愛いらしい顔立ちをしていた気がするが、なりふり構わない暴力によって原型が分からないほど彼女の顔は歪んでしまった。


「俺は役に立ちます! だがら、助けてください!!」


 身代わりを差し出し、懇願する姿はさぞ醜かっただろう。その行いが実を結んだのか、エドナは宮原ではなく、女生徒を掴んだ。


(助かった)


 低い呻き声を絞り出しながら、弱々しく手を伸ばす女生徒を見て、宮原の口元が歪む。

 自分は助かった。彼女を犠牲にした事には意外なほど罪悪感は覚えなかった。


 エドナは捕まえた女生徒を何故か口ではなく、人肌と鱗の境目である腹部へと近付ける。すると、唐突に一本の線が腹部に走る。疑問に思っていると、その線が裂けて広がってエドナの内蔵が見えた。大きく躍動している内蔵は生物としては自然な動きのはずなのにどこか不気味だった。

 エドナがその中に女生徒を放り込むと裂け目はすぐに閉じていった。


 良かった。命拾いしたと、宮原から安堵の息が漏れた瞬間、腹部に鋭い衝撃が走った。


「………え?」


 突然の出来事に宮原は意識が呆然となりながら、恐る恐る視線を落とすとそこにはエドナの爪が自分の腹に突き刺さっていた。


「………なん、で………?」


 痛みと共に全身を駆け巡る何かに意識を向ける余裕もなく、宮原は疑問を口にする。

 身代わりを捧げた。服従の意志も示した。なのに、どうして目の前の化け物の爪が自分の腹に突き刺さっているのか。いくら考えても答えは分からない。


『オ前ハ、奴隷ダ』


 戸惑う宮原の耳にドス黒い女の声が届く。声のした方へ視線を送るとそこには歪んだ笑みのエドナの姿があった。

 その瞬間、宮原の意識は全身を駆け巡る異物によって真っ赤に染まっていった。



――――――――――――――――――――



 それから宮原はエドナの手足となって暗躍し始めた。これまでのキメラ出現場所にキメラの細胞を埋め込んだ人間を設置したり、捕まえた人間を管理したりして自分の有用性をエドナに証明し続けた。人道外れた行いをしているうちに気付いた事がある。


 エドナに細胞を埋め込まれた人間の中で正気を失い、廃人と化しているがほとんどなのに自分は変わらずに意識を保っている。目の前で何人もの人間が心身ともに壊れていく姿を見ていると沸々と優越感が込み上がっている自分がいた。


「俺は特別なんだ」


 他にも数人、細胞を埋め込まれて死なない人間はいるが、それでも、拒絶反応が出ているようで床にのた打ち回っていた。自分だけがエドナの手足となって行動できる唯一の人間なのだ。


「そうだ、俺は絶対に死なねぇ。そのためだったらなんでもしてやる」


 優理と再会して彼女のクラスメイトを身代わりにした事を咎められたが、宮原の中に後悔や罪悪感というものは抱かなかった。


 全ては自分が死なないため。そのために何かを差し出すのをどうして咎められようか。


 彼女は知らない。エドナに囚えられた者がどんな目に遭うのか。エドナの手足となって働くか、苗床となって生きたままキメラの一部になるか。ほとんどの者がキメラの苗床となった。

 役に立たなければ自分もキメラの苗床になる。そうならないために宮原はどんな事もした。いつ切り捨てられるか分からない状況で自分以外の事など構っている余裕などない。


「でもよぉ、楽しそうな奴らを見てると、イラつくんだよなぁ」


 エドナが出現してもどこか笑顔が残っている人々を見て、自分も置かれている境遇との差に逆恨みの念を持つのは悪い事ではないだろう。

 幸せそうなカップルや家族を拉致して大切な者にキメラの細胞を埋め込まれるところを目の前で見せたり、憂さ晴らしに暴行したりしても自分は悪くない。


 全ては自分が死なないために、心が壊れないために必要な事だ。それでも、心を支配する恐怖は宮原に深く根付き、身体の震えが止まらない。

 震えを抑えようと両肩に手を置いた瞬間に背後から大きな音がした。驚いて振り向くと埃が宙に舞い、その奥でエドナが蹲っているのが見えた。


「あ、あの……エドナ、様……?」


 恐る恐るエドナに近付く。腹部を抑えている手から血が出ていて、床を赤く染める。救世主が最後に負わせた傷がかなり深いのだろう。エドナはずっと呻き声を上げている。

 苦しんでいるエドナを見て、ふとある考えが宮原の頭に過ぎる。


(もし、このままこいつが死んだら、俺は自由になれるんじゃ………?)


 宮原にとってエドナは逆らえない恐怖の対象で従っているのも死から逃れるためであって忠誠心というものは欠片も持ち合わせていない。だから、目の前のエドナが死に掛けていても助けようとは微塵も思っていない。


 けれど、戦闘の様子を見ていた宮原には分かる。救世主ですらこの化け物に勝てなかったのに、自分がとどめを刺すなど不可能だ。


(いや。いっそ、救世主側に住処の情報を流して殺しに来てもらうか?)


 エドナが重傷を負っている今なら、攻め込もうと考えてもいいはずだ。もう一人、狙撃中心の救世主がいた。おそらく、あの金髪の少年だ。奴が持っていた剣は狙撃手が戦闘で使っていたものと似ていた。


(だが、慎重に動かねぇと。裏切るなら確実に殺せないと俺まで殺されちまう)


 重傷を負ったとはいえ、あの救世主をほぼ圧倒したエドナだ。中途半端な攻撃では効果がない。それに、エドナに味方している自分もどんな扱いを受けるか分からない。


(俺も明らかにこいつの味方をしてる行動を取ってるからな。下手したらまとめて殺されるかもしれねぇ)


 それだけは避けたい。死にたくないために他人を生贄にしてエドナに従っているのだ。ここにきて殺されるなどまっぴら御免だ。

 宮原が考えを巡らせていると不意にエドナが宮原を見た。真っ直ぐに自分を捉える赤い目からは何を考えているか全く分からない。


「な、なんで、しょうか?」


 尋ねるもエドナは何の反応もしない。まさか、自分の心でも読んだのではないだろうかと不安になる。息を呑んでエドナの動きを警戒する。すると、エドナは腹部を抑えていた手を宮原に向けた。


『ワタシノ、代ワリニ、動ケ』

「へ?」


 エドナの言葉の意味が分からずに首を傾げる。次の瞬間、全身を震わすほどの強い振動が胸から発生した。強烈な圧迫感に襲われ、呼吸ができずにその場に倒れ込む宮原。


「な、何、が……?」


 自分の身体に何が起きたのか、分からなかった宮原は無意識に胸を押さえた。だが、振動は収まらず、さらに数度起こる。必死に息を取り込もうとするが、喉がそれを拒否してしまう。涙や涎が宮原の顔を汚す。


「た、たす……け、て………しに……た、く………」


 息も絶え絶えの宮原は救いを求めてエドナに手を伸ばす。意識が朦朧とする中、震える手を視界に捉えながら宮原の意識が黒く、赤く染まっていった。

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