10話 本性
人間は失ってからそれがかけがえのないものだと気付く。どこかで耳にしたような言葉が優理の中で何度も反響する。
繰り返し、優理の胸に深く突き刺さるその言葉は見えない刃となり、深く、心を傷付ける。その精神的な痛みに耐え切れず、耳を塞ぎ、纏わりつく雑音を振り払うように頭を揺らす。
やがて、雑音が聞こえなくなり、重かった瞼も軽くなり、ゆっくりと目を開ける。
優理は廃墟のような場所に茫然と立っていた。
彼女の視界に映るのは暗く、色のないアスファルトが無造作に置いてある息が詰まる景色だった。所々に黒いインクがバラバラに散らばっていた。
ここにいても気が重くなるだけで、他の誰かを探すために歩き出した。どこへ向かうわけでもないが、ここではないどこかへ移動したかった。
だが、いくら歩いても景色は変わらず、逆に歩くにつれて胸が押し潰されそうなほど苦しくなってきた。
『ねぇ、どこに行くの?』
突然聞こえてきた声に彼女は振り返る、振り返ってしまった。
黒いインクの中から人の顔、手がゆっくりと現れる。顔は恐怖や怒りが混ざり合った表情で見つめ、手は優理に向かって伸ばしていた。その中で優理に一番近いインクの中から見知った顔があった。
「――真奈美?」
無意識に言葉が出た。彼女から目を背けたかったが、身体が彼女を向いたまま動こうとしなかった。
『優理……どうして助けてくれなかったの?』
恐怖で歪んだ彼女の表情に怒りも混ざり、今まで見た事もない形容しがたい表情で優理を見る。
『私たち友達だったよね? 友達が困っていたら助けるよね?』
真奈美の言葉が優理の胸に深く突き刺さる。真奈美はあの化け物が現れた時に喰われてしまったのだ。
化け物に捕まった彼女は自分に助けを求めた。力のない優理は次に自分が喰われてしまうと思い、そんな彼女を見捨ててしまった。
「あれは、助けに行ったら私が――」
そこまで言って初めて我に返り、口を閉じる。だが、零れてしまった本音の言葉は真奈美の耳にしっかりと届いてしまった。
『そう、自分が助かりたいから私を見捨てたんだね』
全身が凍り付くほどの冷たい声で、心を見透かし、見下した目で真奈美は優理を責める。
「ち、ちが。本当は助けに――」
『嘘よ! アンタは自分が良ければ誰がどうなろうと関係ないって思ってる人間のクズよ!』
「――違う! 私は、 そんな人間じゃ、ない………」
彼女の言葉に反論しようとした優理の言葉は徐々に小さくなっていく。
化け物に喰われようとした真奈美を助けたかった気持ちは嘘ではない。嘘ではないが、次に自分が喰われてしまうのではないかという恐怖に負けてしまったという事実は変わらない。
真奈美の時だけではない。化け物から逃げる時に何度も助けを求める声を無視してきた。
優理は化け物に喰われた人達の命を踏み台にして今を生きている。だから、真奈美の言葉を否定する事はできないと悟ったのだ。
『アンタは生きている資格はない。死ね、死ね!』
それまで優理を見ていただけの顔が真奈美の声に同調し、怒りを露わにして同じように優理に罵声を浴びせる。
周りに優理の味方はいない、いるわけがない。ここにいるのは化け物から逃げる時に優理が見捨ててしまった人たちだ。自分たちを見捨てた人間を誰が味方しようと思うだろうか。
むき出しの手が伸びて、優理の手足を掴み、インクの中へと引きずり込もうとした。
「イヤ! やめて!」
夢中で自分を掴む手を振り解こうとした。だが、掴まれた手は力強く、全く動かせない。徐々に一番近いインクへと近づく。そのインクの中にはあの化け物が口を大きく開けて待ち構えている事に気付いた。
「ヤだ! 誰か、助けて!」
必死の叫びは誰の耳にも届かず、空しく消えていった。
『自分だけ助かろうとしても私たちが許さない。アンタは私たち以上に苦しんで死ね!』
真奈美がそう言い放つ。
周りから否定されても、逃げ出したい一心でさっきよりも力を込めてもがく。泣き叫び、助けを求める。
それはとても醜く無様な姿なのだろう。そうしてでも喰われたくないという想いからくる行動なのだ。
けれど、掴まれた手を振る解くことは出来ず、周囲からの罵声が一層強くなった。
今更抵抗しても無駄だという事は心の片隅で思っている。けれど、助かりたいという願望を捨て切れないでいる。
無様な抵抗も効果がなく、遂に化け物が待つインクの中へと優理は吸い込まれていった。




