01話 到来
ある夏の日、少女のいる教室では教師や生徒の声はほとんど聞こえない。今は試験の最中なので当然だ。
「早く終わんないかなぁ」
一通り解答を済ませた少女――小山優理は小さく呟く。解答を済ませて試験終了までの何もできないこの時間が少女は嫌いだ。
試験の打ち上げみたいな感じでパーッと友達と遊びにでも行こうか、どこで何をしようかと指に髪を絡めながら自分の中で遊びのプランを考えていくうちに楽しくなってきた。
ふと視界に入る茶色に染めた髪を見ると入学早々に染めた色に慣れてきたと思った。
優理の通う高校は元は女子高で最近になって共学になったのだ。派手な色でなければ髪を染めてもいいと割と校則が緩い。
黒髪は地味なような気がして嫌だったので親を説得して髪を染めたのだ。
そう考えているうちに試験終了のチャイムが鳴る。それを合図に静かだった教室が一転して、ざわめき始める。答案用紙を回収し終えた教師はすぐに教室から去っていく。
次は掃除時間なので生徒たちはダルそうに椅子と鞄を机の上に置いて教室の前に寄せ、掃除棚から掃除用具を取り出す。
自分の机を移動し終えた後、ベランダに出て空を眺める。風が少し吹いているので太陽の光が当たっていても少し涼しい。
「優理―、試験どうだった?」
涼んでいる優理に同じクラスの向井沙希が話し掛けてきた。
「微妙。今回の試験難しかったし」
「あたしは今回は本当に赤点かも」
軽くお互いの試験の感想を報告し合う。
「ていうか、掃除はどうしたの?」
沙希は教室の箒係なので黒板掃除担当の優理とは違い、掃除する事はあるはずだ。
「いいじゃん。ゴミとかあるわけじゃないし」
と、沙希は答える。優理は苦笑したが、沙希の言う通りゴミも少ないので、ちゃんと掃除をしている生徒はほとんどいない。
「もうさ、試験の後の掃除やめて、そのまま下校でいいのにね」
沙希が愚痴をこぼす。優理もその意見には賛成だったので「そうだね」と相槌を打つ。
「ねぇ、沙希。この後遊びに行かない?」
「いいよ。どこ行く?」
「うーん、特に決めていないけど沙希は行きたい所ある?」
「私が行きたいところねー、あっ、そうだ、ちょうど行ってみたいところがあったんだった」
そう言って沙希は自分の机に戻って鞄の中から一冊の雑誌を取り出して戻ってきた。そして、あるページを優理に見せる。そのページには一軒のカフェの写真が載っていて新しくオープンしたという見出しが書いてある。
「これ見た時から一度行ってみたいなって思ってたんだよねー」
「じゃあ、終わったらすぐに行こっか」
「賛成! でね、私、ここに書いてあるケーキ食べたい!」
「ああ、うん、そうね」
テンションの高い沙希の話を優理は軽く聞き流す。一度スイッチが入って語りだすと止まらないので終わるまで適当に聞く。
一通り話し終えた沙希が雑誌を見ながら教室の中で唯一真面目に掃除をしている沙希が片想いの相手であるクラス委員の佐藤を見ている事に優理は気付いた。
「沙希、本当は佐藤も誘いたいんでしょ?」
「え!? いや、そんな事ないよ!?」
優理がちゃかして佐藤の名前を出す。沙希は驚いた表情を見せ、慌てて否定する。
このやり取りを沙希から佐藤の事が気になるという事を聞いてから沙希の反応が面白いので何度もしてしまう。
「いい機会だから一緒に掃除して自分をアピールしてみたら?」
「別にいいよ、そういうのは……」
と、沙希は優理から顔を背ける。沙希は照れると顔が赤くなりやすいので顔を背ける時はたいてい赤面している事が多い。
「沙希、自分からアピールしないとあいつは気付かないよ? どう見ても佐藤って草食系じゃん」
「……うん」
少し間が空いて沙希が返答する。
優理は同じクラス役員という事もあって、何度か佐藤と話した事があり、彼の印象は冗談が通じない世話好きの優等生という感じだった。
沙希は人見知りする方で佐藤と二人で話した事は実はない。二人とも積極的に他人と関わりを持つような性格ではないのでまったく関係が進まない。
「佐藤ー、今ちょっといい?」
優理が佐藤に声を掛け、こちらに来るように手招きをする。
「どうしたの?」
「ああ、えーと、試験どうだった? 今回すごく難しかったからさ……」
佐藤を呼んだはいいが、思い付きで取った行動だったため話題をあまり考えていなかった。
「確かに難しかったね。僕はあまり自信ないよ。二人はどうだったの?」
「私も自信ないよ。さすがに今回は勉強しておけばよかったって思ったね。沙希は?」
自分の感想を先に話して沙希に話を振る。無計画ではあったがこれはこれで二人が気楽に会話できる状態なのではないだろうか。
「私は…赤点かも……」
沙希は暗く、呟くように答える。彼女の周辺の空気が重くなったような感じがした。
(あちゃ~、話題ミスった…)
片想いの相手にマイナスになるような事はあまり良くない。しかも、相手は成績優秀な優等生だ。成績が悪いのは好印象ではないだろう。
「ま、まぁ、みんな難しかったって言ってたし、そんなに気にしなくてもいいと思うよ」
優理よりも先に佐藤が励ます。
佐藤、ちょっとズレてる。と心の中で指摘したが、佐藤が沙希を励ますとは思わなかった。
「そ、そうかな?」
「そうだよ、沙希。試験なんて気にしなくてもいいでしょ。落ち込んでばっかなんて沙希らしくないよ」
沙希は下を向いていたので彼女の表情はよく分からなかった。どんな顔をしているか気になったので顔を覗き込もうとした時、沙希が急に顔を上げる。
「だよね~。ずっと落ち込んでいるのは私らしくないよね」
沙希は普段と同じ明るい表情に戻っていた。
相変らす立ち直りが早い事に感心する。佐藤に励ましてもらった事もあり、いつもより立ち直りが早いような気がする。
「僕も向井さんは明るい方がいいと思うよ。そっちの方が僕も好きだし」
「そう? ありがとう」
(……え? 佐藤、今の素で言った? しかも、それスルーですか沙希さん!)
佐藤のさりげない言葉に沙希が無反応だったので、思わず言葉にしそうになったが、なんとか踏みとどまる事ができた。
「へぇ~、佐藤って沙希みたいな明るい女子が好みなの?」
優理が興味本位で尋ねる。わざと沙希という例えを出して彼の好みを探る。
「まぁ、どちらかと言えばそうだと思うよ。二人は好みのタイプとかいるの?」
(おお、乗ってきた! しかも脈あり!?)
優理の予想が大きく外れて佐藤は素直に答えてくれた。
「私は真面目で優しい人かな」
沙希は佐藤から目線をそらして答える。
「そうなんだ」
「優理はもちろん宮原君でしょ?」
「えっ、ああ、うん。そうだね……」
優理は曖昧に答える。宮原というのは試験が始まる一週間前まで付き合っていた男子だ。付き合って三ヶ月ほど経っていたが、お互いの性格が合わなくなり、優理から別れを切り出した。
佐藤はそこまでイケメンというわけではないが、どちらかといえば聞き手に回ることが多い。
「あ~、優理は青春してていいな~」
「そんな事言ってる暇があったら、自分を磨きなさいよ」
一人呟く沙希に優理は軽く流す。
「はいはい、頑張り――」
沙希の言葉を遮るかのように突然、空が光る。続け様に轟音。
「え、なに!?」「きゃっ!?」
沙希は驚いて耳を塞ぎ、その場に座り込み、優理は空を見る。
ベランダから見える空は雷が起こるはずのない雲一つない青空だった。
「小山さん、あれ見て!」
優理の隣で佐藤が叫ぶ。視界の端で彼が指差していたのが見えたのでその方角を見る。その先には不気味な黒い影がそこにはあった。
「何、あれ…」
背筋が凍り、さっきまで感じていた暑さが嘘だったかのように今は空気が冷たい。
他の生徒も黒い影の存在に気付いたのか、今までにないざわめきが教室を覆う。
「小山さん、大丈夫?」
佐藤が茫然としていた優理の肩を揺らしてくれたおかげで正気に戻れた。
「あ、うん、大丈夫。心配してくれてありがとう」
直後、また空が光る。光ったその先にあの黒い影があった。
そして、空が割れてその黒い影が地面に向かって落下していく。
黒い影は予測不可能な軌道でこちらに向かってきた。黒い影はそのまま校庭に落下する。落下してきた衝撃で下の階の窓ガラスが割れる音が耳に聞こえた。
黒い影の正体を確かめようとしてベランダから顔を出す。
優理が黒い影と認識していたそれは上半身が人間で腰から下が蛇のような姿をしていて、頭から尻尾まで十メートルくらいありそうな巨体の化け物だ。
『生徒の皆さんは担任の先生の指示に従って学校から避難してください。繰り返します。生徒の皆さんは担任の先生の指示に従って学校から避難してください』
校内放送で聞こえてきてベランダに出ていた生徒は教室の中に入ろうとする。多くの生徒がベランダに出ていたため、入り口に多くの生徒が集まってきた。優理たちはベランダの入り口から一番遠い位置にいたためすぐに教室に戻れない。
「きゃぁああ!」「うわぁああ!」
突然下の階から届く二つの悲鳴。
優理たちがまだベランダに残っていた生徒が下を覗き込む。彼女たちの目に映ったのは下の階に両腕を突っ込んでいる化け物の姿だった。
そして、自分の下に手を戻した時、その手の中には二人の生徒がいた。二人は化け物から必死に逃げようとしているが、化け物の手はびくともしなかった。
そんな二人を助けようとする人間は誰もいなかった。いや、みんな恐怖で動く事ができないのだ。
化け物はゆっくりと手を自分の顔へと近づける。
「助けて! 誰かぁああ!」「いやだ! やめてくれぇええ!」
二人は必死に叫び、助けを求める。二人を助けなければと頭の中では分かっている。けれど、体が意思に反して動こうとはしない。そんな中、化け物は大きく口を開ける。
「――やめて……」
優理は化け物が次にする行動を想像してしまった。その想像が間違っていてほしい、そんな想いが無意識に言葉に出たのだ。
だが、現実は彼女の願いを聞き入れる事はなかった。化け物は二人を口の中に運ぶ。そして、口を閉じた。優理たちの耳に届いたのは聞いた事のない鈍い音。
それは化け物が口の中で生徒の体を噛み千切る音だという事にすぐ理解してしまった。目に映るのは喰い千切られ、地面へと落下していく生徒の手足。
「に、逃げろぉおお! あの化け物に喰われるぞぉおお!」
生徒が喰われる光景を目撃してしまった生徒の一人が叫ぶ。それを合図に学校中がパニックに陥る。
先に廊下に出ていた生徒たちが慌てて階段を駆け下りる。
教室の中に戻った優理はどこから逃げようかと周囲を見回すと沙希がベランダで茫然としている事に気付く。
「沙希! 早く逃げるよ!」
優理が叫ぶが彼女は動こうとはしなかった。ベランダに戻って、沙希を教室の中に無理やり連れて行った。
「ねぇ、沙希! しっかりして!」
優理が彼女の肩を揺らしながら叫ぶ。反応する気配のない沙希の頬を思いっきり叩く。その痛みで彼女は正気に戻ったのか瞬きをして優理を見つめる。
「優理――」
「いいから早く逃げるよ」
沙希の言葉を遮り、二人は廊下へ出た。階段付近は多くの生徒が駆け下りている。中には自分が先に逃げるために他の生徒を突き飛ばして逃げる生徒もいた。
「この中を進んでいくの?」
この滝のように流れていく人混みでの中でもし、階段を踏み外してしまえば怪我では済まされないという事は一目で分かった。
「他の階段を使おう」
そう言って走り出した瞬間、目の前に横から壁が現れた。何故壁があるのか疑問に思っていると、壁が動き出す。その時初めて、壁の正体が化け物の腕という事に気付いた。
捕えられた生徒の中に優理たちのクラスメートの女子がいた。
「|優理! | 沙希! お願い、助けて!」
友達の悲痛な声を上げ、必死に叫ぶ。優理はその友達から目を背けて、沙希を連れてその場から逃げてしまった。
「――ごめん!」
本当は助けたかった。けれど、助けに行って自分もあの化け物に喰われてしまうのではないか、そんな恐怖が優理の心を支配してしまい、捕まっている友達を助けるという選択肢が選べなかった。
胸が締め付けられそうな痛みを抱えながら、優理は別の階段へ向かう。騒音が響く中、後ろから自分の名前が聞こえる。それでも優理は振り返る事なくその場を走り去る。
別の階段に到着するが、ここも生徒が階段を駆け下りていた。やはり、校舎から脱出するにはこの雪崩のような流れに乗るしかないのだろうか。
「――沙希、しっかり掴まっていてね」
そう言って優理は後ろを振り返らず、沙希の手をさらに強く握った。友達を見捨てて逃げてしまった自分を沙希はどんな目で見るのか確かめるのが怖くて顔を見る事ができなかった。
大きく息を吸い込み人混みの中へと飛び込んだ。
流れは予想以上に激しく、気を抜いた瞬間に足を踏み外しそうになる。下の階に降りるごとに生徒の数が増え、騒音も大きくなる。
もはや、隣にいる人の声でさえ聞こえないぐらい騒然としている。音が大きすぎて頭が割れそうになるのを必死に耐えながら階段を降り切り、一階に到着する。
いつも昇り降りしている階段なのに降りるだけで息苦しく、体力を削られていく。だが、後ろにはまだ大勢の生徒が上の階から押し寄せてくる。
優理はもう一度足に力を入れて走り出す。入口までたった十数メートルしかなく、階段よりも転ぶ心配がなかったので、すんなりと校舎の外へ出る事ができた。
「出られた。ようやく――」
優理の口から安堵の言葉が出てくる。しかし、その安堵はすぐに絶望へと変わった。
突如、自分の周囲に大きな影が現れ、まさかと思い、空を見上げる。影の正体は優理たちの真上に浮かんでいる化け物だった。
どうして、今まで経験してきた火災や地震などの避難訓練のように外の広いところに出れば安全というわけではないという事ぐらい理解できなかったのだろうか。
化け物は手を伸ばし、また生徒を捕まえて自分の口へと運ぶ。周囲からいくつもの悲鳴が上がる。優理は音を遮断するために耳を塞ぐという事よりもこの場から逃げる行動を選び、助けを求める声を無視して校門へと向かう。
先に校外へと出た生徒は皆、バラバラに逃げていく。どこに逃げれば安全なのか分からない。今分かっている事はここにいたらあの化け物に喰われる、とにかくあの化け物から離れなければならない、という事だけである。
優理は沙希の手を引き、自分たちが逃げた先に化け物が現れない事を祈りながら自分の本能に従って学校から離れていった。
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