004:最初の課題(テーマ)
ピピピピ……。
反射的に伸ばした手が空を切った。あれ? 目を開くと床。
仰向けになってベッドの縁を見上げて、床で寝たことを思い出した。
ベッドで眠りたいだろう、と言った手前、床でクッションを枕に毛布にくるまったのだ。
慣れない床寝で痛む身体を庇いながら起き上がって目覚し時計を止めに行くと、ベッド上のレアーナはすぐ真横に目覚ましがあるにもかかわらず、すやすやと眠り続けている。
行き倒れていたのを拾ってからまだ一晩だから疲れているのは仕方ない。
俺が寝ていたのと反対側は技術書やソフトのパッケージを納めた1,800㎜の本棚がびっしり並んでいて、そのちょうど耳元に当たる棚に時計が置いてある。
レアーナを起こさないように、そうっと手を伸ばして目覚まし時計を止めた。
音を立てないように雨戸を開けると薄明の青空が見えた。曇ったら過ごしやすいんだが沙漠じゃ曇るわけ無いか。
涼しい内にトイレと考えて扉を開け、地面をみて沙漠だったことを思い出す。ああ文明恋しや。
「穴が必要だ。何か掘るもの」
道具箱を物色するが、農家の物置でもないのに、穴を掘る道具なんぞハッカーの部屋に有るわけが無かった。
さんざん迷って、一番大きいマイナスドライバーとステンレスのパーツトレーを使うことにする。
一五メートルほど離れた所をドライバーでざっくざっくと突き崩し、トレーで穴を掘って用を足し、しっかり埋め戻しておく。
部屋に戻るとレアーナが目を覚ましていた。
「起きちゃったか。まだ眠りたかったら寝てて……」
返事は無い。むっくり起きるとふらりふらりと扉に向かう。目は半開きだ。様子がおかしいぞ。
ガチャリとドアを開けて、戸口でたたずむこと数秒。
「トイレはぁ?」
俺は無言でドライバーとトレーを渡す。レアーナは俺の顔と渡された物を交互に見て首を傾げる。
わからんか。
しかたなく手振りを交えながら地面を掘る動作をする。
そこからの表情の変化は見物だった。
意味が頭に浸透すると、驚きに目を見開き、ついで激昂しそうになる。
俺はそこにたたみかける。
「理由は分かってるだろ?」
「う……うがーっ!」
レアーナは行き場の無い怒りを、どたどた脚を踏み鳴らして暴れることで表現し、ぷりぷりしながらも外に出て行った。
俺は朝食の準備に入る。といってもお湯を沸かし、カップ麺を取り出すだけだが。
たっぷり15分ほども掛けて戻ってきたレアーナは、どんより落ち込んでいた。なにやら心理的な葛藤があったのだろう。
「あんまり遅いから、麺が伸びてしまったぞ?」
俺の言葉も耳に入らない様子で、うなだれ無言でベッドに腰掛けるレアーナ。
俺はそこに追い打ち。
「人家のあるところまで行かないと、ずっとこのままだから」
「ひいっ!」
レアーナの顔は今にも死にそうな絶望に染まった。
「まあ、まずは朝食だ。この状態を早急に解決するために……話し合う気分になっただろ?」
ずいっとカップ麺を渡す。レアーナはうつむいたままそれを受け取った。
「……はい、ものすごく」
話し合った結果、すぐに移動の準備をすることにした。ここには食料の問題で長期的にはいられないからだ。ここを離れる事には不安を感じるが、生活出来ないのだから是非もない。
「で、道は判るのか? 今は迷っているようなもんじゃないのか?」
ずるずるとヌードルを啜るレアーナに聞く。
「はふぃ……方向は太陽で分かりますから、荒野をさまよい続ける事にはなりません。絶対に」
定期便が就航しているという話なのだから、方角を調べる事と時間を計る事の出来る技術があるのは確実だ。自信もあるようで、そこは安心できそうだ。
「でもこの部屋はどうするんですか? ……ずずっ……これホントにおいしいですね」
「こんな大きい物、運ぶ事が出来ないから置いていくしか無い。ここにいれば何かの弾みで戻れるなんて希望的な観測はしてないんだ。そしてシーフードは至高の味だと俺も思う」
部屋の棚においてある食料は、スポーツ飲料2リットル×9、ミネラル水2リットル×11、エナジーバー味バラバラ×22、カップ麺味バラバラ×19、ゼリー飲料味バラバラ×13。
水物が多いので全重量は50㎏を越える。ここに居るだけなら2週間、移動するなら一週間ぐらいかな。
その間に日本に帰るか、人里までたどり着かないとならないわけだ。
次に手持ちの資産を確認する。
まずは現金。もちろん日本円だ。
紙幣は日本銀行券と書いてあるとおり、貨幣に両替を行う日本銀行が無い以上、ただの紙切れだ。メモが出来るだけ白紙の方が価値があるな。
貨幣は価値を保証する日本がないので、金属分の価値しか無い。文明国なら貨幣の毀損は犯罪になっているだろうから、くず鉄屋でも怪しまれて金属として売るのも難しいだろうな。
動産としては、部屋の中にPCや書籍類が大量にあるが、これはとりあえず役に立たない。売る気も無いし。もう手に入らない古マイコンとその技術書は俺の宝物だ。
あとはベッドに本棚に机に……まあ部屋にありそうな家具類があるだけ。
そして趣味コンのクルーソー!これは……俺にしか価値が無いな。ソフトは組み込み、OSはない。
ジャンク基板の塊にしか見えない。キログラムで換算したジャンクの価格しか付かない。
ここに来てからゆっくり触る時間も無く、可搬性も無くて放置せざるおえない。
たんすに入っている衣料品は使える。着替えには困らなさそうだ。持ち運べる分だけだが。
最後に不動産だが、六畳一間、風呂トイレ水道なし。不良物件だな。
部屋は運べないので当然置き去りだ。盗賊に悪さをされないことを祈るしかない。
まとめてみよう。
食料の当てなし。使える資産は衣類のみ。なんとか稼げる手段をみつけないとならないということだ。
「ここにある食料と飲料はこれだけだ。ムーとやらに着くまではどうしようも無いぞ。とりあえず歩けるようなら、すぐにでも移動しよう。ここにいても食料は一週間程度しか持たないから」
「ずず~っ……でもこんなにどうやって持っていくんですか?」
「この棚を使う。有り物で工夫をするんだ」
食料置き場になっている棚は、いわゆるシェルビングラック。金属製アングルの支柱と棚板をボルトで締め付ける、ホームセンターでよく見かける安いアレだ。
元々この棚には国産PCと20インチCRTモニターが2台ずつ乗っかっていた。昔からマイコンを使っていた人は判るが、メンテナンスで裏側をいじるために良く動かすので、耐荷重50KGの大型硬質ゴムキャスターが付いている。
今は最後の国産PCのXも98も廃れ、CRTもモニタアームと液晶に変わって、コロコロ動かせる便利な物置棚になっていたのだ。
「さすがに引くには背が高すぎるから、引きやすいように直す」
一度全部バラし、支柱を低めの900㎜に変える。棚板を上段下段天板の3枚に減らし、一番上の天板は日除けとする。
地デジ化の為に使わなくなったφ4のアンテナ用同軸ケーブルを2ループにして支柱の穴に通してから、F型ケーブルの継ぎ手(両端がネジになっているやつだ)で両端をつなげて牽引用のロープにした。
「どうだ。100㎏は確実に運べるぞ。おまえが軽ければ、乗せて運べるぐらい丈夫だ。でも体力的に無理なので歩いてもらうけど」
『乗せて運べる』で咲いた笑顔が、最後まで聞いてしぼんだ。いや、ハッカーに何、期待してるんだ。
沙漠で荷物を引きながらなんて、自分が歩くので精一杯だよ。
それからレアーナの意見を聞きつつ、物置棚に物資を詰め込む。
下段に重たい水と食料、上段に何枚有っても困らないタオルの束と毛布。毛布はどうしようか迷ったが、砂漠なら夜は極寒になる可能性がある。
一度だけ行ったことのある海外旅行の折に買った旅行鞄も天板に乗せた。キャスターとポップアップハンドル付きなので、荷物が減ったときに物置棚を捨てて身軽になれる。中身は着替えの下着類と薬品類だ。
俺は会社でもちょっとした薬品類は備蓄している。その買い置きを全部持ち出した。水が合わない事もあるし風邪も引くだろう。
なにより過去へのタイムスリップを仮定した場合、名前だけはポピュラーなペスト、コレラ、チフス、そして現代では根絶された天然痘の病原菌がまだいる時代なのだ。
しかし、有利な点もあり、どの病原菌も薬に耐性は無い。MRSAなんか居ないから、特に抗生物質はよく効くだろう。
荷物を乗せ終わった棚にゴム紐を巻き付ける。片方が輪、もう一方がフックになっているので荷物を緩く固定するのにもってこいだ。
こいつで自転車の荷台に学生鞄を固定して通学した人は多いだろう。
最後にハッカーの意地で、スマホとソーラーセル充電キットのセットだ。一番軽いのがこれなのでしかたない。
据え置き機は論外だし、3キロオーバーの林檎ノートは重すぎ。ローパワーなネットブックは元々持っていない。
ネットに繋がらないので百科事典の能力は諦めるしかないが、計算機、カメラ、録音機、なにより灯火としての機能は役に立つだろう。
「荷造りはこんなもんかな」
「やっぱりわたしも引っ張るんですよね」
「ちゃんと体力が回復してから出発だから大丈夫」
そういってにっこりほほえんでやったら、しかめっ面で舌を出された。
そういうジェスチャーは何処も同じなのかな。結構表情が豊かで、ジョークも解するからなかなか好感の持てる女だと思う。
「あとは服装だな」
荷造りは終わったが、まだ旅装束を整えなければならない。
ハッカーは基本的にインドア派なので持っているはずも無い。アウトドア派のハッカーは存在するかもしれないが、よほど時間が余っているかハッキングテーマの少ない奴なのだろう。
型番を削ったチップのハックにはロジックアナライザが必須だし、プロトコルの判らない非同期シリアル通信をしていそうなチップのハックにはシンクロスコープが必要だ。
そもそも仕様の判らないチップの場合は、パッケージをハンドグラインダーで削って、ダイに直接プローブを立てる事もある。屋外で携帯PCのみでハッキングできる項目はたかがしれているのだ。
レアーナの話では、単身の長期の旅行中は基本的に着た切り雀のようだ。
貨客便では手荷物以外は料金を取られるとのこと。感覚的には19世紀の寝台列車で行く三等客席の旅かな?
服自体も耐久性重視の丈夫な物。現代と違うのは化学繊維が使われていない事ぐらいだ。目的地に着いたときに現地の衣服を購入して、旅装は廃棄なり売却するのだろう。
俺もそれに習いたいところだが、過去の世界では衣服は貴重品であると想定している。希少なのでは無く、現代の感覚からはかけ離れて高い値段であろうということだ。
軽工業品であっても、家内制手工業で少量生産ならば、需給のバランスから現代では考えられない値段が付く。
通貨を持たない俺としては、せっかく良質の衣服を大量に持っているのだから節約したい。
安価な物は品質が心配だ。ボロだというのもあるが、なにより未知の寄生虫や病原菌を警戒する。
現代では根絶されて存在さえ知られていない病気等の危険は、可能な限り避けたい。
「レアーナは旅慣れてるんだろう? 助言を頼む」
「え? ……ああ服ね」
「俺は旅が好きじゃないから、そういった知識はあっても浅いんだ。たのむよ」
「ん。じゃあまずは……丈夫な厚手の上下ね。ゆったりしてる方が良いよ」
レアーナのチュニックと同じような丈夫で肌の露出が少ない……あ、今着てるじゃないか。
俺と同じようにスウェットの上下を寝間着にしている人も多いと思う。中に肌着を着れば、これでいいよな。
たんすから新しいスウェットを2着だす。興味をもったレアーナがのぞき込んで渋い顔をする。
「色も形もまったくおんなじね。その引出し、どうして中身が全部同じ服なの」
「同じほうが簡単に取り替えがきいて便利だと思うんだが?」
「……まあいいか。つぎはマント」
防暑防寒の定番、マントきた! ……けど持ってない。用意してたぜ、っていう人は今の日本には居ないと思う。
「マントは無いぞ」
「無いと、熱気と強風と砂塵が襲ってくるよ」
「そうだよな……」
どうしようかと考えていると、レアーナが開けっ放しのタンスを指さした。
「それでいいじゃない」
指の先には敷き布団用のシーツがあった。このコットンのシーツをマント代わりにしよう。口元まで覆う事で、熱い砂漠の空気と舞う砂埃もある程度はガードできそうだ。
その後も指示されるままに集めていく。
強い日差しを避けるための鍔広の帽子。これも無いな。
一応鍔が付いてる帽子もあるんだが、鍔が小さすぎてうなじが露出する。薄手のタオルを被ってその上から帽子を被るしか無いな。
そして目の保護だが、たまに掛ける乱視用メガネに紫外線カットがついていた。これはラッキーだった。
靴は……なんとタンスの中から昔、部活動で使っていたア○ックスのハイカットバスケットシューズが見つかった。ファブレとかいう名前の、白い革製に赤いラインが入った厚底の丈夫なやつだ。
当時は分厚い靴下を保護のために履いていたのでサイズに余裕が有り、今でも履ける。想い出の品としてしまい込んだまま忘れていたのだ。
なんでも大事にするもんだ。
「こんなとこか」
「じゃあ明日?」
「ああ、明日出発だ」
翌朝。
ゆっくり一日休んで、レアーナは元気を取り戻した。何気なく雨戸を開け照明を点けた俺は目を疑った。
驚いたことにレアーナの髪の色がうっすらと緑に染まっていたのだ。
「水気が行き渡ったのね。素敵でしょ? 自慢の秘色なんだ」
出会いが行き倒れというゼロベースだったので、レアーナは良いところを見せられたとご満悦だ。
しかし俺は考え込んでしまった。
昨日はおはようからおやすみまで、ずっと一緒に居たのだ。話のままに受け取れば、樹精なのだから葉が力を取り戻した、ですむ。
しかしこれが現実なら、いつ染めた? という話になる。日中にはその機会は無かったし、昨晩のうちにというなら俺が気がつかなかったのは不自然だ。
今回の黒幕の第三者がこっそりという話なら、それこそ大問題。本人も当然というそぶりなのだから黒幕側確定になってしまう。
それから小一時間。レアーナの旅装も整った。
水筒も満タンだ。昔風の、いわゆる革袋なのかなと思っていたが、ボーイスカウトが持っているような布ジャケットを被った金属製だ。なんと金属打ち出しを鑞付けしてあり、現代風で頑丈そうだ。
金属加工技術があり、溶接技術が存在すると言うことはもしかしたら電子……は無理でも電気技術のひな形があるかも? 期待しておこう。
さて、ここを出るに当たり、結論を出しておかないとならないことが一つ。
(電源落としても良いのか……?)
この場所に移動した直後、咄嗟の閃きでエアコンに触れるのを思いとどまった。止まると死活問題になることに気がつけたからだ。
だが長期間不在にするのに止めないのは逆に火災のリスクがある。
いじる時間が無く、動作を続けることにリスクだけがあったクルーソーは迷わず電源を落としたが、エアコンはそうではない。
コンセントには電圧がかかっているが、供給元の送電線とは繋がっていない。本来なら全ての機器は止まるはずだが、そうなってはいない。
理由は知りたいが、状況を変えることで電源を喪失するのは困るので、いままで放置してきたわけだ。
そこでスマホの充電器で充電を開始するか試してみたら成功。
つまり、電源を再投入することができるということ! 不在時に電源を落とす事が出来るのが判ったのはありがたい。
この部屋のガスと電力は、どこからか供給されつづけている。この理由は分からないが唯一の明るい材料だ。
電力はテスターをつかって調べたところ交流97ボルト。負荷が多い俺の部屋では元々これぐらいだったので100ボルトに足りないのは正常と言える。
ガスは暖房のために追加で引いたのだが使っておらず元栓だけがあった。ガス機器はないから使いようが無いけど。
試しに開けて見たところ「しゅー」と吹き出したので速攻で閉めた。本当にガスなのかは怖くて試せないが……。
部屋の全ての機器の電源を落とす。しばらく戻れそうに無いし、もう手に入らない技術書等もある。
戻ったら古マイコンが灰になっていたらつらすぎる。クラシックカーを趣味にしている人には、この実用的で無い物に感じる愛着を判ってもらえると思う。
「この涼しさともお別れかぁ。このエアコンというのは持って行けないんですか? 旅がすごく楽になると思うんですけど」
「電力という物が継続的に必要なんだ。これはこの部屋で無いと得られない。持っていくだけなら出来るけど、荷物が増えるだけで涼しくないぞ」
溜息をつくレアーナを促して、棚を引いて外へ出ると、もう日は高く昇っており、真上から日光が照りつける。しかしまだ地面から立ち上るほどの熱気は無い。
「で、町はどっち?」
「……こっち」
レアーナは手をかざしながら空を見上げると、あっさりと方向を決めた。
(そんなにあっさり?)
六分儀のようなそれっぽい道具を使った測量を想像していたので少し心配になるが、俺では全く決められないのだから仕方が無い。
並んでケーブルを肩にかけ、ザリザリザリと単調な音を立てながら棚を引いて歩き始めた。
地面は平坦で大きな岩も無く、丘とも呼べない低くなだらかな起伏が続いている。遠くには高い山もあるが、総じて禿げ山ばかりだ。緑はポツリポツリとしか見えない。
急峻な山が無いのは地殻変動が無い地域、浸食された後が乏しいところから雨もなさそうだと当たりを付けて、記憶に書き込んでおく。
しかしそんな努力を向ける先も、やがて無くなってしまう。どこを見ても注目に値するものなど無く、しばらくは言葉も無く歩き続ける。
だんだんと地面から熱気が立ち上り、汗が噴き出し始める。
明け方のさわやかな空気は、いつしかむっとする熱風になり、ドライヤーの風を吸っているような気分にさせられる。湿気がほとんど無いのが救いだ。
ザリザリザリ、ザリザリザリ。
足下を見て、機械的に障害物を避ける。ペットボトルの水をゴクリと一口。
ザリザリザリ……
ちらりちらりと見る時刻はなかなか進まない。景色も進まない。
不安になって、後ろをちらりと見ると、陽炎の向こうに俺の部屋がごま粒のように小さくなっていた。
離れることに心細さが募るが、ねじ伏せて前を向く。
(餓死はごめんだ。とにかく進んで殻を破るんだ)
ここが屋内のセットである可能性は無くなった。これほど大きな屋内空間はあり得ない。
屋外のオープンセットであっても進み続ければ出ることが出来る。
これがもし本物の沙漠のど真ん中だとしたら……考えるのもいやになる。
ザリザリザリ……
ザ……
……
「……た……ねえ……」
(……あつい……なん? なんだっけ……こえ……)
ぼんっと肩を叩かれて、朦朧としていた意識が引き戻され、昏くなっていた五感に一気に感覚が戻った。
暑さと変化の無さに思考能力が低下していたようだ。これは良くない。
「ずっと呼んでたのに。お腹が空いた。休んで何か食べようよ」
「……ぼうっとしていた。そうだな、そうしよう」
スマホの時間は13:22。早朝からもう5時間は歩いている。朦朧とするのも当然だ。
周りは相変わらずの沙漠。腰掛けられそうな所も無い。仕方なくその場に胡座で座り込む。
(座り込んだら立てなくなりそうだ)
座ってしまってからそう思ったが、もう遅かった。全身に重りをつり下げられたような疲労感で腰が上がらない。
「カップ麺が食べたいけど、昼間はやめといて……この吸う奴をもらうね」
ぐったりの俺を尻目に棚を漁るレアーナは、ゼリー飲料のエネルギーを手にすると立ったまま飲み始めた。
「さすが……旅慣れていらっしゃる」
対して俺は這うように棚に取り付き、ゼリー飲料を手に取る。
キャップを捻りながら今まで進んできた方を見る。もう部屋はどこにあるのかわからない。
「こりゃ、きついな」
ハッカーにはつらい旅だと判っていたが、初日の昼にこの有様とは。
「まだそんなに進んでないよ。ケンは普段足を使ってないね。日が陰るまでには……あの辺まで進まないと」
レアーナはそういって、地平線のあたりを指さす。地平線まではだいたい4.5㎞ぐらいだっけ。
「レアーナはよく歩き回る方だったのか? 俺の居た所じゃあ樹精は樹から離れて生きていけないってのが常識だったけど」
「大抵の樹精はそうだよ。水とお日様の有るところなら特に。私はじっとしてるのはダメ。居ても立っても居られない気分になっちゃう」
「へぇ」
「ケンは出歩くのが好きじゃないってことかな。じゃあなんで、こんな外で食べやすい食料をたくさん持ってたの?」
「調理に手間が掛からず、片付けが簡単ってことだと、こうなったのさ。考え事をしてるときは雑事に気を取られたくなくてさ」
「ふーん」
地平線を見つめながらの、気のない会話。短い食事はすぐに終わってしまう。空になったチューブをどうしようか迷い、結局投げ捨てた。
立ち上がるのには、いつもの数倍の気合いが必要だった。
投げ出してあったケーブルを袈裟懸けして、前傾で体重をかけて引く。
動き出す、までが、重いん、だよな。
ザリッ ザリザリザリ――
(おかしい)
レアーナは健脚だ。
二人とも目立つ荷物は水筒だけなのだが、初老越えのオジサンでは全く敵わないことを、この半日余りで思い知らされた。
ペースメーカーは常時彼女で、俺はそれに必死でついて行っている。要はかなりのハイペースだと言うこと。
(こんなに遠いはず無いんだが)
それなのに、レアーナがあの辺りと示した所に、歩いても歩いてもなかなか近づかないのだ。蜃気楼かはたまた逃げ水かといった感じで、思ったように距離が稼げない。
いや、進んでるのだから距離は稼いでいるはずだ。逆進するベルトコンベアーの上を歩かされているのではないかと疑いたくなる。
(こんなに歩いてるのに、酷いペテンに掛けられた気分だ)
倒れそうになる身体をケーブルに預け、流れる地面を見ながらひたすら引く。顔を上げる元気も無くなっていた。
「今日はこの辺で泊まろう」
声を掛けられて、はっと意識を取り戻す。
辺りは薄暗くなっていた。
「暗くなったら何も見えなくなっちゃうから、今のうちに食事して寝る準備だよ」
「はーっ、はーっ、はーっ」
膝に手を突いて喘ぐ俺は、返事もまともに出来ない。スマホを見ると時刻はもう16時すぎ。
溜まった疲労で霞んできた目で、地平線を睨み付ける。ただ、広い……それはものすごい障害なのだと理解させられた。
「えあこんが無いから焚き火が欲しいなぁ……。あそこのヒョロッとした細い木、刈れないかな」
喘ぎながらも視線を上げ、レアーナの指の先を見ると、なんとも頼りない低木が数本寄り添って生えていた。
俺は棚から使い慣れた折りたたみの電工ナイフを探しだし、レアーナに手渡した。若い頃学校でつかっていた想い出の品だ。
鉈のような分厚い刀身で畳めばコンパクト、三芯VVFケーブルも楽に叩き切れるので、役に立つのではないかと持ってきたのだ。
ナイフを手に歩いていくレアーナを見送る俺は、その時やっと気がついた。彼女の影が余りにも短いことに。
周りは確かに日が陰って薄暗くなり始めている。その不自然さ。
日食を体験した事が有るだろうか。俺が見たのは部分日食だったが、それでも辺りが薄暗くなった。しかし伸びる影も無く白色光のままの日暮れは物珍しかったことを覚えている。
(これ、日食なのか?)
俺は空を仰いだ。
「ひっ!」
そして見た。柔らかく微笑む太陽の『顔』を。
彫りの深い西洋風のセルロイド人形のような、わざとらしいほどの笑顔。通常の五倍は有ろうかという大きさ。めらめらと燃える光冠が見える。
古典的なシンボル化された太陽がそこにはあった。
「うぁああああああああああああああ!」
悲鳴が勝手に出た。足下が揺らぐ。平行感が崩れ、尻餅をつく。
(知らない! こんなのは知らない!)
今まで隣に居た知人が、擬態した怪物であったことを知った様な衝撃。心拍が跳ね上がる。頭の中がぐちゃぐちゃで思考がまとまらない。
俺は恐慌に陥った。
「ひっ! ひいっ!」
ごく当たり前に見える、周りの全ての物が、なにかの白々しい擬態に見えた。恐ろしい本性を隠しているように感じて、どこにも身を預けられない。
地面がばくりと口を開くような錯覚。地面に突いた手を慌てて引っ込める。必死に立ち上がろうとしてバランスを崩して転がる。
身も世も無く悲鳴をあげ、大地すら突き放そうとばたばたと暴れる。揺れ動く視界。目眩がする。気分が悪い。
ここはどこだ。現代でも過去でも、せめて地球だと思っていた。
あれはなんだ。顔のある恒星なんて既知宇宙の範囲には存在しない。
「どう……ケ……あば……」
ぐらぐら定まらない視界に誰かの姿が入り、切れ切れの声が聞こえる。
歩き続けた疲労で重い身体と廻らない思考。そこに激甚な恐怖。視界が狭まり、音が遠くなる。
パニックに陥り必死に暴れた俺の身体は簡単に限界を超え、失神した。
目を開く。広がる満天の星空。
その中に浮かぶ、消灯した白熱電球のような暗い天体。その顔は目を閉じ安らかな寝顔になっている。
太陽は子供の書く絵には良く登場するモチーフだ。赤や黄色に輝き、笑顔で絵画世界を照らす。だが実際に目の当たりにするとグロテスクだ。
俺はそれを妙に冷めた気持ちで見つめる。気を失っていたのだろうか。強制的に取った休息は、俺の意識に平静を取り戻させた。
今はモニターに映る映像を見るかのように客観視できる。
パチッ、パチッと薪の爆ぜる音に気がついた。
目を向けると、拳大の礫を並べた簡素な竈に拗くれた枝が数本くべられ、小さな炎が揺らめいている。
竈の向こうには毛布にくるまったレアーナが眠っていた。光が届く範囲はほんの僅かで、背後は墨を流したような濃密な闇。
俺も頭から足の先まで毛布にくるまっていた。頭の下の感触は多分ペットボトルだろう。
全てレアーナにやらせてしまった。礼を言わないとな。
ドッキリや実験なんてチンケな物じゃ無かった。差し渡し数十kmの屋内空間なんて無い。屋外の天空にあんな巨大な物を浮かべる技術も無い。
しかし顔のある恒星とは。オマケに夜になると消灯する。朝になるとまた燃え始めるのだろうか。
過去にタイムトラベルしたかも、ぐらいは予想の範囲としてありえた。しかしこんな奇妙な恒星は知らない。あれば天文学者が放っておかないだろう。
(ここはいったい何処なんだ? どうすれば帰れるんだろう)
漠然と考えていた方策が全て霧散してしまった。地道に下調べをして、手がかりを見つけ出さないと。
いや、その前に人里にたどり着き、まずは生き抜かなくては。
新しい方策を組み立てていく。地理、政治形態、経済機構、身分制度。情報はどれだけでも必要となる。
そして……。天空の眠る太陽を見つめる。
一体お前は何なのか。天文現象? 生命体? 人工物? それとも別の何か?
どんな法則で動き、何の役割がある?
こんなふざけた存在が許されるのだろうか。全くの未知。実に興味をそそられる。知りたい。
空の『あいつ』に向けて静かに拳を突き出す。お前は俺の研究課題に値する。
「おまえを、解析してやる!」