003:銀髪女の正体は
全身に水を振りかけて冷却を開始してから、銀髪女が目覚めるまでに1時間半ほどかかった。
そのあいだ俺は昏々と眠る銀髪女を横目に、部屋に持ち込んでしまった砂を丁寧に掃き出したり、脱がせた衣服から砂を落として畳んだりして待った。
精密機器の多い自室に砂埃が入っても平気、というハッカーは居ないだろう。
銀髪女は、まだまだ萎れた感じで動きも鈍いが、命の危機は脱したようだ。ふらふら室内に視線を彷徨わせて、ベッド脇に座っている俺の顔に焦点が合った。
「ここは?」
か細い、涸れた声。
(言葉が通じる?)
外人ぽいので外国語かと思ったが普通に日本語だ。逆に不審に思うが、言葉が通じることに安堵したのも本心。
シャイな日本人なら理解してくれると思う。
「ここは俺の部屋の中だ。まだ動かない方が良い。いろいろ聞きたい事があるが、とりあえずは着替えてほしいから、脱がせ方を教えてくれ。砂だらけでベッドに上げられないんだ」
男なら洋裁鋏か何かで肌着以外ばーっと剥ぎ取って、タオルで砂を拭った上でベッドに転がしておいて、目が覚めたらスウェットでも着させれば良いんだが、女は救命でも脱がすとトラブルになるからな……。
本人の要請という名目でも無いと、手を掛けただけで後々問題にされかねない。
大がかりすぎるから『こんな時男がどんな反応をするか』系のドッキリでは無いと思うが。
「助けて、くれたの?」
まだ、思考の速度がこちらの言葉に追いついていない。ここは合わせる他無いか……。
「そうだ。水も食料もある。ここは安全だ。とりあえずはベッドで眠りたいだろう?」
同意を得て、最初に靴を脱がせる。
靴自体は革の編上靴っぽいのだが、その上から脚絆と思しき布が幾重にも巻かれていて、簡単には脱がせることが出来なかったのだ。
手早く脚絆を外し、上から紐を緩めてようやく脱がせると、またも床はすっかり砂だらけだ。下着と靴の隙間から砂が入るのを防ぐ役目もあるんだな、これ。
砂埃が機械に入るのが嫌で、普段から窓を閉めっぱなしにしていたのに、またも台無しになってしまった。
服を脱ぐのはさすがに嫌がった。
さりとて、一人で着替える体力もなさそうなので、タンスから大判のバスタオルを何枚も出してベッドに敷いて、その上に銀髪女を運んだ。
インドア派には力がないからつらいが、意識がある人間は自分でバランスを取るし、しがみつくぐらいはしてくれるので何とかなった。
ベッドを背上げして、紙コップにスポーツ飲料を注ぎ、ゆっくりと飲ませる。根気よく、少しずつ。
コップに軽く2杯飲み干して、銀髪女は小さく首を振り、口を開いた。
「助かりました、ありがとう。私はレアーナといいます。途中で水がなくなってしまって」
笑顔で聞きながら、相手の言葉を素早く、注意深く咀嚼する。
『レアーナ』が固有名だろうか。日本人ではない。しかし流暢な日本語。
「おれは中村健一郎。ナカムラが家名、ケンイチロウが名前。……ハッカーだ」
少し悩んで、そう答えた。おれが自分を語るとしたらこうなるだろう。
昨今ハッカーと呼ばれている奴らは、キーボードを叩くしか出来ないが、あんな犯罪者まがいの連中と一緒にされると困る。あれはせいぜいクラッカー。
今でこそ、コンピューターに耽溺し魔法のようにいろいろできるスーパーマンのようなイメージで語られるが、ハッカーというのは本来コンピューター関連機器を解析して楽しむ人の事なのだ。
ユーザーとプログラマーがイコールだった時代、仕様を策定し、回路図を引き、配線設計を描いて、コテを握って実装し、ハードをデバックしながら基底プログラムできて、初めて一人前のプログラマーである。
その上でちゃんと解析を楽しめて、やっと解析者といえるのだ。
「変わった呼び名……。聞いた事の無い種族だよ」
「いや、ハッカーは職業……かな。生業、仕事と言えば判るだろう」
種族……ハッカーを種族と呼んだのはまあいい。名前に何の反応も示さない? 明らかに言語が違うのに?
そう考えながら表情は当たり前という顔で通し、「運ぶとき余りに軽かったから、カラカラに乾ききってるのかと驚いたよ」と、おどけてみせる。
人心地付いた頃を見計らって、ペットボトルをドンと枕元に置いてやってから、床の砂を箒で追い出しにかかる。
部屋の外にざっと掃き出して、ウェットティッシュで床板を拭き上げて仕上げる。これで一段落だ。
銀髪女改めレアーナの顔を改めて見ると、結構砂がこびり付いている。かいた汗に舞い上がった砂埃がくっついて、そのまま乾いちゃったんだろうな。
流れでウェットティッシュを一枚取り出しそうになったが、さすがにこれは不味いと思い直した。
タオルを入れたナイロン袋にペットボトルの水とポットのお湯を注いで、固く絞って蒸しタオルを作る。
「顔を拭くから目、つぶって」
蒸しタオルを見たレアーナの顔がぱっと明るくなり、顔を気持ち上向けて目を閉じる。
俺は後頭部に手を添えて、額から順に下へ顔を拭いてやる。
目を閉じて大人しく拭かれている顔が、子供のおすまし顔っぽくて妙に可笑しかった。
タオルを何度も折り返してタオルがまんべんなく汚れた代わりに、こびりついた砂埃が無くなってサッパリとましな外見になった。
「きもちよかったぁ」
そう言ってにっこり微笑んだ顔に、不覚にもドキッとする。おっと、冷静に。
「空腹じゃ無いか? 何か食べられそうか?」
「うーん、お腹は空いてるけど……スープのような物があれば……」
なるほど。
まだ固形物を食べられるか判らないので、ゼリー飲料を渡して飲み口を吸うのだと教えてやる。
レアーナはゼリー飲料の外見を見てギョッとしたが、言われたとおりに蓋をねじ切り、素直に口にくわえる。
そうっと吸い取って味を確かめ納得すると、笑顔でタップリ時間をかけて一本飲みきった。
俺はそれを笑顔で黙って見つめていた。しかし頭の中は高速回転中。
当たり前に日本語で会話が成立し、レアーナも母国語のように流暢に話す。会話の微妙なニュアンスも正しくくみ取っている。
ゼリー飲料には驚いたのに、室内のコンピュータ群やエアコンには興味を示さない。
少々いびつな反応だが、発展途上国の知日家だろうか?
飲み終わった空容器を受け取ってゴミ箱に投げ捨て、満足げな顔でベッドに身を預けたレアーナに、さりげなく質問する。
「で、何故行き倒れることになったんだ? 何が有ったか覚えてるか?」
レアーナは俺の顔をキョトンと見返し、一拍おいて答えた。
「強盗団に襲われて、逃げていたの」
「ほほう」
ちょっと舌足らずだが、妙に耳触りの良い声で、レアーナは行き倒れるまでの経緯を語った。
彼女は、定期貨客便で旅行中であったらしい。その旅もあと少しで終わろうというところで強盗団の襲撃に遭った。
旅の終盤で、乗客の商人に化けた盗賊団が定期貨客便を乗っ取ったらしい。そいつらが積み込んでいた荷物も中身は武装した一味という、周到な計画だったようだ。
定期貨客便の荷物室から武器を持った連中が出てきて暴れ出した時、甲板に居た彼女は荷物だけで身軽だったのですぐに飛び降りた。
まっとうな商人達は、積み込んでいた商品を失うことを逡巡し、命と商品を失った。
「飛び降りたあとは走って走って……隠れてやり過ごしたの」
「ふむふむ」
ハイジャックか。
ちなみに飛行機で無くてもハイジャックだ。子供の頃、飛行機だからハイが付き、海ならシージャック、車ならカージャックだと思っていたのは恥ずかしい想い出だ。
盗賊団はすんなり制圧できた貨客便を、専門家無しの不慣れな状態で、まずは隠さねばならず、元々身一つと手荷物のみの貧乏旅行(本人談)をしていた旅人1人を追いかけなかったのだろう。
幸運が重なって生き残る事が出来たのだな。
「じっと隠れている内に寝ちゃって、気がついたら朝になってて、じゃあ進もうかと思ったら、『あれ? これって一人で取り残されたってことじゃない?』って気がついて……。でも目的地まであと少しっぽかったし、太陽の向きで方向がわかるから歩けば何とか着けるんじゃないかって考えたの」
「ははぁ。でも、その前に手持ちの水が尽きて倒れてしまったのか」
場所は判らなくても目指す方向は判るから、とりあえず進んで途中で救助されることを狙ったのか。
「そして、運良く貴方に助けられたわけ」
「そのあいだ、誰とも会えなかった?」
「うん。航路にもどりたかったから、なるべく均された所を進んだんだけど、他の便に行き会わなくて……」
なるほどねえ。まあいくつか突っ込みたいところはあるが、事情はよく分かった。ちょっとカマをかけてみるか。
「つまり俺はアンタに部屋ごと連れてこられたわけか……」
「えっ!?」
怪訝な表情で部屋のあちこちを見渡すレアーナ。
「ここはもう人間領じゃなかったの? あなたの部屋なんでしょ?」
気を失ったあと、気がついたら室内だからそう思うだろうな。エアコンで気温も違うし。
「ここは俺の部屋だが人間領って所じゃない。俺は日本という国の生まれだが聞いた事はあるか?」
レアーナはパチパチ目を瞬き、ちょっと考えてから首を振る。
「助けを呼んだだろう? 俺は誰かの助けを呼ぶ声を聞いた後、この場所に部屋ごと移動していたんだ」
そういって、ドアを開けて外を見せる。
外は変わらず荒野で、強い日差しと熱気が入ってくる。地面にはレアーナを引きずった跡がドアまで続いている。
「このとおり、すぐそこにあんたが転がっていたので、運び込んで介抱したんだ」
「えっ、なんで? どうなってるの? だって……えーっ!」
「ここは沙漠のどまんなか。そこに俺の部屋がぽつんと置かれてる。俺は間違いなく自分の家にいたのに、助けを求める声が聞こえたと思ったら、ここにいたんだ。となると、もう呼んだのはあんた以外考えにくい」
ドアの外を見て驚いたレアーナは、外と部屋の中を何度も見比べる。その手は無意識に上衣の裾を握りしめている。
やがて肩を落とし、うつむいた。
「そう……だったのね。まだ助かったわけじゃ無かったのか。でも私が呼んだって言われても記憶が無い。それにこんな時は誰でも良いから助けを呼ぶでしょ?」
「……ごもっとも」
なんだか俺がレアーナをいじめてるみたいな気分にさせられた。この空気、なんとかしないと。
とりあえずドアを閉めてから、椅子をコロコロとベッド際まで動かして座る。
ドアから入った熱気にエアコンが反応し駆逐し始めた。
彼女も含めた、この状況そのものを疑っていることを押し隠して、とりあえず更なる情報を仕入れる事にした。
「というわけで、今後について話しをしないとならないわけだ。俺はここが何処かも判らない。ここはなんていう場所なんだ?」
「えっ? このあたりは誰も住んでいないので特に名前は……強いて言うなら領域外?」
レアーナは俺を上目遣いでみて、申し訳なさそうに言う。
この世界を指して聞いたつもりが、質問のしかたがまずかったか。言い方を変えよう。
「この世界はなんと呼ばれてるんだ?」
「世界? 世界は世界でしょう?」
(おおぅ……)
変な顔されてしまった。なにやってるんだ俺。
『別の世界』という概念自体を持っていないのだろうか。
この難しさはなかなかだ。
たとえば右という概念を、ジェスチャー抜きの言葉のみで伝えるようなもんだ。”お箸を持つ方”とかの言い回しは常識が同じ事を前提にしてるから使えない。
今回は言葉が通じるからはるかに難易度は低いけど、SFだと素数の羅列のような全宇宙共通と考えられる定理を使って、知性体であることを証明するところからスタートしなくてはならない。
「じゃあ、来たところと行くところの地名を教えてくれないか」
「……妖精領のティル・ナ・ノーグにあるニブルハウルから、人間領のムーにあるポロスボロスです」
呆気にとられてしまった。言葉は分かる。意味も理解できる。納得はできんが。
「ヨウセイ?」
「妖精」
思わず聞き直すと、真顔で頷かれた。
その名の通り、妖精達が住む領域らしい。かなり離れていて、公営の定期貨客便だと半月以上はかかるとか。
なんだか話の雲行きが怪しくなってきたんだが……。
「んー。ということは君は妖精かな?」
「そうだけど、そうじゃない。すぐ妖精って一纏めにしないで。私は樹精よ、人間」
何の気なしに聞いたんだが、妖精と呼ばれるのが気に障ったようだ。
しかし樹精とは。ギリシャ神話だっけ。そう言う設定ってことなのかな。
(うん。こういうの子供の頃にジュブナイル小説で読んだことがある。今だとライトノベルか。レフリーやったときによく使った、巻き込まれ型の強制導入シナリオみたいだ)
しかし望外の成果だぞ。なじみのある単語がでてきた。
ティル・ナ・ノーグとムー。どちらも俺の時代で伝説の地名として知られている。逆にレアーナは日本を知らないと言う。
これを素直に信じるなら、俺は過去に飛んだと言う事になる。未来であれば日本が伝説の地名となり、おれはティル・ナ・ノーグもムーも知らないはずだからだ。
時間を移動したなら日本から位置が動いているのは今更だが、ムーは太平洋にあったと言われる大陸だ。この分だとアトランティスもありそうだが、これは大西洋。
架空の土地が、後の世の何処に当たるかだが、アフリカ中央部から始まった人類の広がり方から考えて、アジアから東、ヨーロッパから西となると、該当するのは北アメリカ大陸になる。
ここは今のところ気候的にも地形的にも、『過去の北アメリカ中南部』と考えるのが妥当では無いか?
しかし何故、現代日本語が古代の人間に通用するのかは判らない。その疑問がここを過去だと単純に結論づけさせないのだが。
「あー。うん、わかった。ここは俺の住んでいた所じゃ無いってことが」
「はあ……そうなると私はどうすれば良いんでしょう」
「君を助けるから、同時に俺も助けてくれ。文字通り助け合いだ。俺が帰る方法を見つける手助けをしてほしい」
窓を見るといつの間にか日が陰って薄暗くなっていた。時計はまもなく18時になろうとしている。
俺は長話をしてレアーナに随分無理をさせていたことに気がついた。
「でも今日は日も暮れてしまったし、ここまでにしよう。疲れただろう。食事はできそうか?」
レアーナはほっと息をつき、「今なら何でも好き嫌い無く食べられそう」と笑った。
俺は沙漠の夜が寒くなることを思い出し、照明を点けてから雨戸を閉める。エアコンは何時も自動にしてあるから、寒くなれば暖房に切り替わってくれるだろう。
俺は御籠もり用品を吟味して、カップ麺を二個取り出した。
レアーナの味の好みが判らないので、もっともポピュラーなチキン味だ。無用な警戒を抱かせないためにも俺も同じ物が良いだろう。
ポットからお湯を注いで、プラスチックフォークで注ぎ口にグサッと封をして(あのフォークの一本が途中から太くなってるのはこの為だ)3分間。興味深そうにそれを見守るレアーナだったが、次第に漏れ漂う食欲をそそる香りに、だんだん意識が持って行かれているようだ。
そっと横目で見ると口が半開きで視線はガッチリカップ麺に注がれている。
「これは君の分。君ってのも余所余所しいな。名前で呼んでも良いかな」
「うん、もちろん。わたしもケンイチロウ……は長いからケンって呼ぶから」
うん、それはいいけど視線がカップ麺に釘付けですよ? 心の中で呟きながらも顔には出さない。
カップ麺を両手で受け取ったレアーナは、その温かさに目を細める。
「あったかい。もっと熱いように見えたんだけど」
「中身は熱いぞ。口に入れるときに気をつけろ」
フォークを抜いて、蓋を端だけ残してめくる。立ち上る湯気と香気。フォークを突っ込みグルリと中身をひっくり返し混ぜ合わせる。
レアーナはそれをじっと見て、同じように真似る。それをそっと伺った俺は、何気ない顔で麺を巻き取り、息を吹きかけて冷ます。わかりやすく、真似しやすいように。そして一口でパクリ。
レアーナも同じように巻き取った麺をパクリ。そして固まる。
「んーっ!」
フォークを咥えたまま、声なき叫びを上げるレアーナ。そこから呆気にとられる俺を一瞥もする事無く怒濤の喫食!
あれっ、そういうキャラなの!?
「ふーっふーっ、んぐんぐ」
最初こそフォークに巻いて食べていたが、もどかしくなったのかフォークを掻き込むように使い始めた。
「けほっ、けほっ」
あ、急ぎすぎて咽せちゃった。これは遭難していたというのは本当っぽいな。
一口は小さくとも、そんな勢いで食べれば麺はすぐに無くなってしまう。麺が見えなくなるとフォークでスープの中をひっかいて探し、沈んでいた肉や卵、エビを探り当てては黙々と食べるレアーナ。
俺はそれをジト目で眺めながらゆっくりと麺を啜り、カップに口を付けてスープを飲む。
「ズズズズズッ」
あきらめ悪くスープの中を探っていたレアーナは、その音でこっちを見て、そしてカップの中を見つめ、なにやら葛藤の末、意を決して口を付ける。
「ずずー」
多分口を付けて啜ることに抵抗があったのだろうが、スープの味はこれまたお気に召したらしい。口の中のスープを噛みしめるように味わい、また一口飲んでは味わう。
「ふーーーーっ」
両手で包むように持ったカップ麺を、スープまで残さず完食したレアーナは、満足げな長いため息をついた。空中にふわりと白息が広がる。
「気に入ったかな。今夜はそれで寝られそうか?」
「おいしかったぁ。むしろこのまま寝させて欲しい」
レアーナは恍惚の表情だ。俺はベッドをフラットに戻し、洋布団をふわりと掛けてやる。
「すまないが一部屋しか無いから今夜は相部屋だ。俺はまだ起きてする事があるから、レアーナはそのまま眠ってくれ。まあ定期便とやらの夜よりは静かだと思うぜ」
そういって、俺は部屋の整理を始めた。空になったカップ麺のカップに軽くティッシュを詰めて水分を吸わせてから、重ねてフォークと一緒にゴミ箱に投入。
エアコンはいつの間にか暖房に切り替わっていた。壁が板一枚じゃあすぐに冷え込んできてしまうのだろう。
それから、放り出したままだったクルーソーを眠らせる作業を始める。
エアコンは切ったら死にかねないが、クルーソーは逆に突然電源が落ちるぐらいなら、あらかじめ正規の手順で電源を落とした方が良い。クルーソーにとって突然の電源断は、人間が頭を強打されて昏倒する衝撃に相当する。
クルーソーは1CPUのソフトウェアオンリーじゃ無いから、シャットダウンにも必要な手順がある。
眠りの欲求を意識に上るまで強化して、身体の感覚を減衰。各欲求が意識レベルを下回り対応するボードが動作を停止していく。最後にボクセル空間の視覚情報を取り込み続けていた海馬ユニットが停止し、残ったフレームを記憶に掃き出していきブラックアウト。
各欲求をすくい取っていたATX機の脳のみが動く、夢を見ている状態になる。そして意識が止まる。
クルーソーは眠った。
時刻は19時半。現代日本人のおれには、眠るなんて考えられない時刻だが、レアーナは食べてすぐ横になる極上の環境でうとうとし始めていた。
それを妨げないように静かにPCを使う。LANは正常だがWANは変わらず反応が無い。天井裏を通って電柱に繋がっていたはずのCATV回線はもちろん見当たらないのだが、その割に接続を維持していてブロードキャストのパケットになにも反応が無いのだ。質の悪いブラックホール・ルーターに繋がったようなもんだ。
携帯を確認しても相変わらず圏外。
(これではどこにも連絡が取れん、どうしようもない)
しかたなく予備の毛布を押し入れから出して空いている床に敷き、クッションを枕にその上に寝っ転がる。
この状態が過去へのタイムスリップなのか、謎の機関のストレステストなのか、壮大なドッキリ企画なのか。それとも別の何かなのか。
レアーナは実際に遭難していたようだが、本人を信用するなら妖精なのだそうだ。信用しなければ、そう言う設定の『俳優』。
もしこの状態を打破したければ移動するしか無い。過去であるケースと現代であるケース両方を考えて、過去だと思って対策をした方が安全だろう。
俺はまた、昔の映画を思い出した。
罠だらけの巨大な立方体迷路の中に囚われるやつだ。あれは最初にいた部屋が、一番出口に近かったというオチがあったような記憶がある。
ここを動いてしまうと戻れなくなるんじゃ無いかという恐怖と、ここは狭い範囲のオープンセットの中心で、真っ直ぐ進んでセットを出ればゴールのドッキリなんじゃ無いかという楽観が、頭の中でぐるぐる廻っている。
レアーナはいつの間にか眠っていた。彼女は聞かれたことには答えるが、それが真実かは自分の目で確かめなければだめだ。
外はもう日が落ち、真っ暗だろう。今日はもう出来ることが無い。仕方なく俺も目を閉じた。
俺は何に巻き込まれたのだろうか。それを考え続けているつもりだったのに、結局いつしか眠っていた。
そして俺は、注意していれば気づけたはずの情報を見落とした。