死んだ感情
最初の注意書きを読んだ上で読むかどうかを、自己責任で判断してください。
前置きとして、このエッセイという名のモンスターは「世間様の命の尊さ」に真っ向から反抗しているような文である。
なので、不快になった瞬間、このページを閉じて欲しい。
誰からも評価も称賛もされないだろうという想いの元、これを書くに至ったのでどうか、覚悟の程読んで欲しい。
ここまで読んで嫌になったらここから先には進まないで欲しい。
残っている人にだけ、私は告白しようと思う。
私の「死」に関する感情は独特で、きっと誰にも理解されないと思う。
だから、敢えてここに書き記しておこう。
私は、アニメやドラマ、マンガといったものが好きだ。
見ていて、泣くことも多々ある。
キャラクターが死んでしまう時には本当に悲しくて涙が出てくる。
嗚咽を上げて泣くこともある。
だが、私は一番好きな親類の叔母を亡くした時、泣けなかった。
当時書いた追悼詩がある。
***
拝啓
涙のひとつも流れずとも
今宵は貴方を偲びます
貴方の好きな送り火を
焚いて笑顔を想います
殻だに解き放たれて今
ごゆるりと御休み下さい
敬具
某月某日、追悼詩。
***
「殻だに」とは「体」と「魂の抜けた殻」という意味だ。
ここにある送り火とはたばこである。
この時、すとんと死というものを理解した。
死とは即ち、ただ会えなくなるだけなのだな、と。
最近会ってなかった人が、ふとずっと居なくなるだけのこと。
今まで、そんな別れは幾度となく私を襲ってきた。
そんな瞬間、さみしいとは思うが、ああ、そうかと納得できる。
死だけなのである。
世間でいうところの納得のいかない別れというのがあるのは。
非難轟轟を承知でこれを書いているので、どうか更なる暴言を許してほしい。
葬式も墓参りもくそ食らえだ。
私が死んだら、何もして欲しくない。
そんな儀式に何の感傷も持ち合わせていない。
自分の親が死んでも私は葬式面倒だなとしか思わないだろう。
同様に、友人の葬式に出たいとも全く思わない。
最後の別れを告げる。
そんなことに何の意味があるのだろう。
葬式なんていうのが故人のためじゃなく、残された者のための儀式だなんて、とっくに知っている。
まぁ、それは私個人的な意見としておこう。
きっとこんな文章を書く私の人物像はひどいものだろう。
人間嫌いと思われても仕方ない。
ただ一つ言わせてほしい。
私は、嫌いな人間というものが少ない方だと思う。
大体の人の事は好きなのだ。
「私以外の人間」という生き物は好きなのだ。
だからこそ、自分がどれだけ非道なことを今書いているのか理解しているのだ。
話は戻って、私はキャラクターの離別や死がとてつもなく悲しい。
それが現実世界の人間には、どこか諦念があるのかもしれない。
経験上、自分が愛されることを信じられない。
友人達には、怒られそうなことを書いているが、これが真実だ。
私が人を愛しても、私は人に愛されてるとは思わない。
だから、誰が私から居なくなっても、それはその人の自由意思なのだから、と思う。
死だけはそれに当てはまらない、自由意思とは違うけれど、それだけだ。
私から、また一人大事な人間が消えただけだ。
普通の別れと何が違うのだろう!
理屈で分かっても、それが私の感情を動かすとは限らない。
どれだけ大好きな人間が死んでも、私はたぶん本気では泣かないだろう。
今年の頭、祖母を亡くした時も、私は泣けなかった。
ただ、施設に入っていた祖母が、永遠に会えなくなっただけのこと。
私は、こんな風にしか考えられない自分が大嫌いだ。
ここまで読んだ人は果たしているのだろうか。
居たとしたらお礼とお詫びを言わなければならないだろう。
こんな稚拙な、ただ感情を吐露しただけの文章を読んでくれてありがとう。
そして、あなたの大事な時間を奪ってしまって申し訳ない。
重ねて、ありがとう。
たぶんこの文章を読んでいい感情を抱く人はいないでしょう。
それでも吐露する場所を、ここに選んだことをどうかお許し願いたい。