流刑地からの告白
流刑地からの告白
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是を「太田正成真之政談記」と自ら書す
花魁淵
丹波川が流れる鶏冠山の山中には、黒川金山と呼ばれるとても大きな鉱山があった。
武田氏が金山の採掘を行うようになり、その資源の豊富さから人が集まだし、黒川千軒といわれる密集した家屋立ち並んでいた。あっという間に人口は1000人をも超える巨大な鉱山町ができた。
黒川金山は信玄公から武田氏の軍資金のほとんどを支える隠し金山であった。また金山で働く金山衆は戦などにも動員され、その両面の功績から諸役免除を受け金山はますます大きくなっていった。質屋や遊郭までもができて、黒川金山町は一つの町として繁栄の一途を辿った。
一方で天下も制さんとした武田の勢いは最大の柱である信玄の病死から歯車を違える。信玄の死後に家督を継いだ勝頼も一度違えた歯車は動かすことはできず、とうとう織田信長の甲州征伐(武田征伐)により、当主勝頼と武田の血脈は途絶え甲斐武田氏は滅亡を迎えた。
そして黒川金山も一帯が徳川家康の統治下に置かれることとなるが家康公は黒川を庇護し、金山衆も武田の時と同じ待遇にされ黒川は家康公統治下でも勢いは衰えることはなかった…
それからおよそ100年後の元禄
江戸幕府第五代将軍は綱吉のころ、黒川金山について幕府内である動きがあった。
綱吉のもとに当時幕府の政治に大きな影響力をもった、徳川一門の長老徳川光圀が参上し内々の話をしたのだ。
内々の話を終えると光圀は江戸城を後にし、屋敷へと戻り当時黒川金山を治めていた甲府の藩主徳川綱豊に書状を送った。その内容は、黒川金山閉山に伴い相談ありて重臣新見正信を水戸に来させよとのことだった。
書状をうけて徳川綱豊公は相談役でもある新見正信は向かわせられないということで臣下の太田正成を水戸へ向かわせた。
半月後
甲府藩主綱豊公の家臣である太田正成が光圀の元に参上した。太田正成が一渡りの口上をのべ終わると、光圀は太田正成を近くに呼んだ、
「何の用向きで来たかは分かるだろうな」
「承知しております。黒川閉山のことと」
「うむ。黒川衆は隠した財のことをしっている、まず黒川衆は必ず藩の諸役にあたらせ、監視下におき決して不満を募らせるな、わかったか?」
「はい。仰せの通り綱豊様にお伝えいたします」
「それでよい。………黒川衆は鉱山町の遊郭をよく使っているとか‥?」
「はい。黒川衆は遊郭の常連でございます」
「閉山ということで、パッと黒川衆達の慰労で遊女達を舞わせて宴でも催したらどうだ?」
「それは良い考…」
言葉を遮り光圀は太田正成の耳元で
「……」
正宗は震える体を静めようとしながら
「それは。綱豊様の許可なくしては…」
「綱豊には黙っていればいい、正成お前が責任を持ってやりなさい。話はそれだけだ、下がってよい」
ただならぬ悪寒で肩に力の入らない太田正成は、眉間に指をあてて恐怖を押し込め水戸を後に甲府への途についた。
そして桜が満開の頃、柳沢川の上流にある高さ50m以上のゴリョウ滝で黒川衆たちと甲府藩の役人達への酒宴の席が太田正成らによって設けられた。
ゴリョウの滝の目の前には藤葛でつった宴台を設け、その演台を眺めながら黒川衆と役人たちは飲めや飲めやと滝壺のように酒を飲み込んでいった。酒も程よく入った役人や黒川衆達は口々に
何か興はないのかと言い出した、太田正成が前に出て、
「各々方、興を用意しておるので、今から舞わせましょう。」
すると滝の前の藤葛でつった宴台に、黒川千軒の遊郭の遊女や三味の手たちが55人現れ桜舞うゴリョウ滝を前に舞いをはじめた。
男たちは声ならぬ声を上げて手をたたき、そしてまた滝壺のように酒を飲み込んでいった。
ゴリョウの滝を三味の音が包み、そこに桜が舞い遊女が舞って宴に壮麗な彩りを加えた。その美しさには目の肥えたものも酔っているものも言葉を失い、目をうっとりとさせ中には感涙するものまでいた。
そして気がつけば舞いも終盤。三味の音が早く、強く、けたたましく最高潮の盛り上がりを見せると、
バチバチバチバチバチッッ
目の覚めるような音と同時に、目の前から宴台が消えた
宴台を支える藤葛が切れ、宴台と遊女たちは支えを失い落ちていったのだ。底の見えぬ深淵へ。
まさに阿鼻叫喚の極み。遊女達の耐え難いほどに響く悲鳴と叫びは役人や黒川衆を一気に素面に戻した。
役目を終えたかのように遊女達の悲鳴は最後に渦となり桜と溶け合い、遠く、遠く、遠くの、遠くへ、消えていってしまった。
川の色は上から見ると水面はほのかに桜色になり、その桜色に綺麗な着物が栄え流れに乗って見えなくなった。
みんな遊女たちが舞っていた時とは違った言葉の失い方、太田正成が前に出る、
「各々方、失礼いたした。この度の黒川金山を閉山することあいなったことはご存じのことと思う。みなは黒川衆の名において金山の隠し財の秘密を漏らすわけはないだろうと上様は信じてらっしゃる。…みなが相手をしていた遊女らに喋ってないだろうか危惧していた。だが…金山衆の相手をしていた遊郭の方々は金山の秘密を知っていたかはわからないが、残念ながら桜と共に散ってしまわれた。非常に残念な事故であった…。黒川衆、役人方の皆様にはこのような不幸起こらないことを願っております。ではそろそろおひらきといたしましょう。」
みなが抜け殻になって帰っていく、太田正成は滝をゆっくりのぞきこんだ。光圀の指示とはいっても恐ろしいことをしたのだと眼下の赤い滝壺と無数の着物に教えられ、身勝手な事とわかってはいても手を合わせられずにいられなかった。
これを聞いた綱豊公は嘆いた。自らの領内で痛ましい事件がおきたこと、まだ若い遊女達の死、その中には黒川衆の妾も多数いただろう。心優しき綱豊公は閉山後、ますます黒川衆の待遇を厚くすることを太田正成に語った。
太田正成は主君を翻弄し、光圀とともに手のひらで転がしている事を心の内で何度も何度も謝った。
だがまだ光圀と太田正成の計画は終わってはいなかった。
太田正成には不満があった、綱豊公は臣下であり育ての親である新見正信を厚く信任していたからだ。
光圀はこれを知り太田正成にある進言をしていた、その指示通り太田正成は行動を起こした。
幕府に対して、
「実は綱豊は幼い頃早くに亡くなられていて、新見正信が自分の子を綱豊と偽り擁立した」
と虚偽の告発をして目の上のこぶである新見正信を失脚させようとした。
しかし幕府はこの告発を光圀の助言によって事実無根とし、逆に太田正成に切腹を命じた。太田正成は光圀に裏切られてしまった、いや操られていたのだ。
光圀は太田正成を操り黒川衆に釘を打ちつけ、そして協力者の太田正成を亡き者とすることに成功した、
かに思えたが切腹を命じられた太田正成を綱豊公は、愚かであろうとも自らの家臣であるからと慈悲求めた。
そして太田正成は切腹から八丈島への遠刑(流刑)に減刑された。
綱豊公は次期将軍に正式に決まり、江戸城西の丸に入り名を徳川家宣と改めて家宣公の甲府藩からの家臣は幕臣となった。
これがゴリョウ滝の悲劇の真の経緯である。
私は自らを責めている。光圀に操られたのは私が阿呆だったのであるからしょうがない。私は主君綱豊公を騙し翻弄したにもかかわらず最後はその綱豊公に救ってもらった。
今なにをもうしても罪人である私の言葉は戯れ言であるが、真の経緯は残さねばならない。綱豊公がつくる後の世は必ず私の真の言葉を聞き入れてくるに違いないと、そう考えここに記した。
昨晩からゴリョウの滝で淵に落ちた遊女達が私を迎えにきているのだ、私は遊女らの元に向かい謝りたいとおもう。今でも私はあの美しい景色を忘れられない、天香国色の遊女達、まさに花魁淵であった。
辞世の句
酔い桜 五十五いのち 混ざりとけ
時代に霞んだ 桜とわたしよ
よいさくら いそいついのち まざりとけ
ときにかすんだ さくらとわたしよ
最後に
綱豊公のご繁栄を祈ります
そして光圀が地獄へ落ちますように
八丈島流罪人 太田正成
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後年ここの地に訪れた明治政府役人がゴリョウの滝と周りに咲く桜を観て、着飾った花魁のように美しいと言ったという。
終わり