水色の花
窓ガラスにはあたしの顔が映り込んでいた。窓の外の世界は夜の闇に黒く塗りつぶされていて、その闇のなかに浮かぶあたしの顔は暗い絵の一部みたいだ。
あたしは頬杖をついて窓の外を眺めている。あたしが今居るのはファミレスだ。注文した料理が運ばれてくるのを待っているのだけれど、まだ運ばれてくる気配はない。
土曜日の夜のファミレスは混雑していて、あたしの隣の席に座っている、大学生くらいだろうか、男女混合の集団が先ほどから騒がしい。ヘッドホンをしていても彼らの話し声が音楽を突き抜けてあたしの鼓膜を震わせる。あたしは彼らの存在を自分のなかから遮断しようと瞳を閉じてみたけれど、無駄だった。
あたしは諦めて閉じていた瞼を開くと、また窓の外の闇を見つめた。
あたしは先月二十三歳になったばかりで無職だ。無職というかフリーターで、じゃあ何かを目指しているのかといえば特にそういうわけでもなく、ただなんとなくフリーターをしている。
一応大学四年のときに形だけの就職活動はしたけれど、その程度の努力で今のご時世就職先が決まるわけもなく、仕方なく、というか仕方がないというほどの切羽詰まった感覚もないけれど、とりあえず生きて行くのにお金は必要だからアルバイトをしている。
アルバイト先は居酒屋で、そこで週三日から四日程度働き、あとは気が向いたときにスポット派遣で働いている。決して余裕があるわけではないけれど、かといってすごく貧乏なわけでもない。自分ひとり、生きて行くくらいのことはなんとかなっている。東京でアパートを借りて、光熱費を払い、食べて行くことはことくらいのことはなんとかできている。
でも、お姉ちゃんはちゃんとしたところに就職した方がいいよ、と、顔を会わせればいつも言う。あとお母さんも。お父さんは何も言わない。あたしに何を言っても無駄だと思っているのだろう。あたしはお父さんの自分を見る目が嫌いだ。飽きれたような落胆したような眼差し。
あたしは高校三年のときにお父さんとひどい喧嘩をした。それ以来あたしはお父さんが苦手だ。苦手というか嫌いなのか嫌いというか憎いのか。あとお兄ちゃんも。お兄ちゃんはあたしが高校三年くらいのときからずっと部屋に引きこもっている。
「お待たせしました」
やっとわたしが注文した料理が運ばれて来た。ハンバーグと海老フライとライスのセット。あたしはヘッドホンを外すと、ナイフとフォークを手に持ち、ハンバーグをナイフで切ってそれを口に運んだ。咀嚼する。不味くもないし、美味しくもない。ムシャ。ムシャ。ムシャ。ムシャ。
隣の席に座っている先ほどの学生らしい集団の話声が今度は直接意識のなかに飛び込んでくる。彼らの話し方を聞いていると、ちょっと恥ずかしくなる。方言丸出し。といって方言を話す事は全然悪いことでもなんでもないのだけれど。でもそれを恥ずかしいと感じてしまうのは田舎もののコンプレックスだろうか。
あたしは大学で東京にいってからあまり方言は話さなくなった。あたしもほんのちょっと前までは普通に彼らと同じ話し方をしていて、それが当たり前だと思っていたんだなと感心するというよりかは不思議な感じがする。
あたしは今地元に帰って来ている。ほんとうは帰るつもりはなかったのだのだけれど、母親が正月くらいはこっちに帰ってきなさいよと煩かったので帰ることにしたのだ。でも、帰って来たのはいいものすることがない。地元の友達とは大学にいってからすっかり疎遠になってしまっているし、田舎なのでひとりで時間を潰せるような場所もない。といって家のなかでじっとしているのも退屈なので、こうしてひとりてくてくファミレスに食事にきたというわけだ。
なにもひとりでファミレスに来なくてもいいのだろうけど、とにかくあたしは今日ひとりで家にいたくなかったのだ。実家で一番話しやすい母親は友達と会う予定があるとかで外出しているし、お姉ちゃんは彼氏とデートしている。すると、今家に居ると、必然的に父親と兄とずっと一緒の空間にいるということになる。一応自分の部屋があることはあるけれど、なんとなく雰囲気的に気詰まりだ。彼らの存在が気になって落ち着かない。肉親のことをそんなふうに感じてしまうのもなんだか哀しい気がするけれど。
食事を終えると、若いウェイトレスの女の子が(たぶんあたしよりも若い)あいた食器を下げに来た。やけに静かになったなと思ってとなりを見てみると、いつの間にかさっきまで騒がしかった学生のグループがいなくなっている。腕時計で時刻を確認してみると、時刻は21時を少し回ったくらいだった。帰るにはまだ早い気がする。あたしは机の上のメニューを手に取って広げると、呼び出しボタンを押して、ドリンクバーとケーキを追加した。
ドリンクバーはセルフサービスになっている。あたしは席を立つと、歩いて行って、ドリンクバーのコーナーで、レモンティーを作った。そしてそれを持って席に戻ると、また窓の外を見つめながらゆっくりといれたばかりレモンティーを啜った。
窓の外には地元にしかない信用金庫のビルが立っている。数えてみると、それは七階建ての建物で、あたしの地元ではかなり大きな建物だ。信用金庫って何をするところなのだろう。銀行だろうか。よくわからないし、興味を持ったことすらなかった。
昔こんなふうにこうやってファミレスの窓からこの建物を見たことがあるなと思っていたら、思い出した。あれは高校のときだ。高校三年のとき。大学受験で母親と一緒に東京に行って、その帰りにファミレスに寄って食事をしたのだ。
あかれらずいぶん時が経った。少女だったあたしは大人になり、大人といってもまだ子供みたいなものだけれど、でも一応大人で、社会人で、あの頃持っていた無限大の可能性は知らない間すり減ってしまって、もうほとんど跡形もなくなっている。左手の掌を広げてみる。今、あたしのこの掌のなかにはまだあとどれくらの可能性が残されているのだろうか。あたしは掌のなかに米粒ほどの小さなガラス玉があるところを想像してみた。
その昔、あたしは信じていた。これからの未来には楽しいことがたくさん待っているんだって。努力次第でなんにだってなれるんだって。あたしには他のひとにはない特別な才能があるはずなんだって。でも、実際にはそんなものなんて全くなくて、あたしも結局その他のどこにでもいるひとたちと同じで、というかそれ以下で、暗く冷たい水に肩まで浸かりながら必死に水面から顔を出している。まだ大丈夫だって、これからだって自分を誤摩化して、毎日をしのいでいる。
ふと、視線を転じると、ファミレスの壁には、見たことのない絵が飾られてあった。それは水色の花を描いた絵で、繊細で、美しい絵だった。見ていると、その絵の優しい水色の色彩が目の角膜の表面に冷たく溶けていきそうな気がした。
絵。そういえばあたしも絵を描くのが好きだった。わりと上手だった。中学生の頃くらいまでは絵を描けばいつも賞をもらっていた。
あたしが絵を描くことに興味を持ったのはお兄ちゃんの影響だ。今は全くといっていいほど話をしなくなってしまったけれど、中学生の頃くらいまでは比較的にお兄ちゃんとも仲が良かった。そして兄ちゃんは絵を描くのが得意だった。ほんとうにお兄ちゃんの描く絵は上手で、美しくて、魔法みたいで、だから、あたしはどうやったらお兄ちゃんみたいな絵が描けるのだろうと憧れるように思っていた。
いつだったかわたしはお兄ちゃんに訊ねてみたことがある。どうやったらそんなに上手に絵が描けるようになるの、と。すると、お兄ちゃんはやわらかく、そして自信に満ちた目で微笑んで、美樹もずっと続けていればすぐ上手くなるよと言ってくれた。そのときお兄ちゃんの顔が逆光のなかで取った写真みたいに思考のなかに淡く浮かびあがって、でも、すぐ消えた。
お兄ちゃんが引きこもりになってからもうすぐ五年になる。お兄ちゃんは大学を卒業したあと普通に会社に就職したけれど、でも、すぐ辞めて実家に帰って来た。会社を辞めたのは絵を描きたいからだと言っていた。プロの絵描きになりたいんだと言っていた。そんな兄を父は責めた。絵なんて描いてどうするんだと父は兄を罵倒した。絵で食べて行けるようになるわけないだろう、と。こじきになるつもりか、と。あたしが高校のときのことだ。
瞳を閉じる。そしてその閉じた瞼にきつく力を込める。瞼の内側に光の混じった汚い薄闇が広がる。
「どうかされました?」
ふいに声が聞こえる。閉じていた瞳を開くと、いつからそこにいたのかさっき食器を下げに来たウェイトレスの女の子があたしの顔を心配そうに覗き込んでいた。見てみると、彼女の手にはあたしが注文したケーキがある。あたしは彼女に向かっていくらか強張った笑みを浮かべると、首を振った。彼女はあたしの仕草に平気なら良かったですというふうに目元で微笑みかけると、あたしのテーブルの上にケーキを置いて厨房へ戻っていた。あたしはそんなに心配されるようなひどい表情をしていたのだろうか。
運ばれてきたケーキをフォークで掬って口元に運ぶ。チョコレートケーキ。ただ甘いだけのケーキ。一人きりで食べるケーキはたださえ味気ないケーキがさらに味気なくなる。
どこからともなく笑い声が聞こえてくる。楽しそうな家族団らんの声。明るい金色の光をまぶしたような声。声の聞こえくる方に視線を向けてみると、そこには家族連れらしいひとたちがいる。まだ小学校高学年くらいの男の子と、女の子と、そのお父さんとお母さん。
見ていると、お父さんが男の子のことをからからって、それで家族のみんなが笑っているみたいだ。男の子は自分のことを冗談にされて不満そうな表情を浮かべているけれど、でも、本気で怒っているわけではない。どちらかというとそういった雰囲気を楽しんでくつろいでいるように見える。彼らもあたしと同じようにケーキを食べている。どこかに行った帰りだろうか。
あんなふうに家族みんなで食事にいったのは一体どれくらい前のことだろう。もうずいぶん長いこと家族みんなで同じ時間を過ごすことはなくなってしまった。
またケーキを掬って口に運ぶ。
ケーキといえば、あたしがまだ小さい頃、お兄ちゃんはよく自分の分をあたしに譲ってくれたっけ。俺はもうお腹いっぱいだからお前食えよと言って。
今日はなんだかやけにお兄ちゃんのことを思い出してしまう。お兄ちゃんと最後に話をしたのはいつだろう。
あたしは手にしていたフォークを置いた。まだケーキは半分くらい残っている。あたしはお皿の上に半分程残ったケーキをじっと見つめた。それから頬杖をつくと、またさっきの絵を眺めてみた。花の絵。確かあたしが最後に見たお兄ちゃんの絵も花を描いたものだった。優しくて、静かで、そして少しだけ哀しい感じのする絵。あたしは思い出のなかの絵をいつまでも眺め続けた。
花の色彩が冷たい水のように目を静かに濡らしていった。