日本の不利な学習環境
江学勤教授(Professor Jiang Xueqin)や似た思想を持つその対談相手らを見ていると、古代ローマなどに関する知識の深さに関心する。それによって自らの無知を思い知らされる。
しかし改めて見ると、自分と彼らとでは与えられた前提条件が異なる。そこにおいて重要な要因は、日本は第二次世界大戦の敗戦国の一つだということだ。例えば現代日本の歴史教育は第一に、米国を正義と見なす歴史観の受容を前提条件としている。実際、戦後日本で知識があるとされてきた人々は、江学勤氏のような知的水準にない。
また、技術進歩が著しいとはいえ、言語の違いは大きな機能を果たしている。世界的な権力からの検閲を弱める意味で地域言語には意味がある。しかし、江学勤氏らの知的水準を前にするなら、世界的な知識へのアクセスの不足は決定的短所の一つだ。ブルーピル、レッドピルという対比で言えば、ワシントンの帝王学は初めからレッドピルだという側面がある。
江学勤氏のような人物像を考えるなら、彼らは卓越性を強く希求した時代があったはずだ。自らの卓越性を証明して評価されることによって救われて成功しようという意味回路が成立していた時期があったということだ。環境格差の劣位に生まれて大きな苦しみを注がれるほどその努力は猛烈になるし、実際には個人的資質に恵まれているほど成功という幻想は強くなる。
その結果、公正性を謳っている博打が実際には胴元に圧倒的な利益をもたらしていることを知る。公教育などを通して大衆が信じ込まされている世界理解が、虚偽の情報による洗脳だと知る。支配と搾取のための価値観と意味づけの回路を相対化する。そうして、現代で言う「オルタナティブ右翼」といった思想傾向が現れ、「レッドピル」といった論点が語られる。
第二次世界大戦が悪に対する正義の勝利だったという言説に異論を唱えることは、現代を覆う米国製SNSにおいて第一級の禁忌であり、それに触れた存在はただちに「deplatform」されて影響力と生存圏を抹消される。その意味で、敗戦国の思想的identityは最も重い重圧によって深く屈折している。
賢く有能な者、すなわち勉強や仕事ができる者達ほど名誉と安寧に報われるという価値観で民衆社会は覆われている。しかし実際には、事実的な歴史認識を持つ子供が戦後日本に生まれれば、教育や昇進から排除される。適度に愚かであれば一定程度出世してから失脚するかもしれないが、優れている者達ほど先立って手を引くことになる。その賭博の公平性は詐欺によって汚されているからだ。
しかし、人間社会が欺瞞でない状況などありうるだろうか? 言説を有利に操作することで強者は弱者に対して搾取と加害を行ってきたのであり、人間の宇宙観とはその対人的欺瞞性が物質界にまで投影されたものにすぎない。社会移動は古来から稀であり、古代から階級は固定的であって個人の幸福は環境格差に深く縛られてきた。正義が事実のことであるなら、真の正義が表立って正義と呼ばれた時代などなかった。すべての正義は常に最高の邪悪と見なされてきたのである。
そうだから、この世に存在する事実的な認知については、いったんは虚偽を信じて生じた卓越性の追求の余韻であると考えられる。そこにあるのは、利益獲得ではなく復讐心なのだ。その個人が幼少期に注がれた痛みに対する、反作用の形状が偶発的にそうだったのだ。
しかしそれは、賢く善良であると自称する人々が実際には愚かで邪悪であり、悪魔化された周縁部では実際には罪のない人々が不当に殺戮されている悪徳に対する憎しみとして正義である。したがって、「帝国」が肥大化して崩壊していく局面においてそれは改革者としての役割を果たす。
しかしそれは、預言者自身が幸福に報われるとか、ついに真に正義ある時代が訪れるということではない。時代の局所における揺らぎにすぎず、何かを根本的に解決する力を備えてはいない。
したがって、それを知っているだろう彼らの内心には一定の虚無感も伴っているだろう。彼ら英雄達は皆、死に向けて戦っているのだ。文明というシステムの不幸はあまりにも大きく、良心と知性とはあまりにも絶対的に周縁化されている。しかしそれを認識してなお戦いつづける性質もまた、人間には確かにある。




