第十六段 もう一人の彼女
春。
ナギトは、アスカ大学へ入学した。
大学の構内にも、桜があふれるように咲いていた。
入学式を終え、ナギトはふと――
「校内を見てみたい」
と思った。
いつも通り、黒髪は耳にかかるほどの長さ。白いワイシャツに黒いズボンという簡素な服装が、春の光の中でかえって凛とした印象を与えていた。
人気の少ない構内を、ゆっくりと歩く。
そのとき、不意に――
誰かに呼ばれたような感覚が、胸の奥に響いた。
ナギトは導かれるように歩き出した。
階段を上り、長い廊下を進み、
そして――ひとつの教室の扉を開いた。
教室の中には、女性が一人座っていた。
黒のワンピースに白いカーディガンを羽織り、長い黒髪を静かに垂らしている。落ち着いた佇まいは、まるで春の光そのものをまとっているかのようだった。
女性は静かに立ち上がり、ナギトの方を向く。
(……ナミカさん?)
だが、どこか違う。
確かに顔立ちはナミカそのもの。
しかし、纏う空気がまるで別人だった。
(ナミカさんであって、ナミカさんではない……?)
ナギトは困惑した。
女性はナギトに気づくと席を離れ、静かに近づいてくる。
ナギトは驚きのあまり、ただ立ち尽くしていた。
女性はナギトの前に立ち、
柔らかく微笑む。
「こんにちは。お待ちしていましたよ」
声まで、ナミカにそっくりだった。
ナギトは言葉を失った。
声を出そうとしても、どうすればよいのか分からない。
「どうされたの?」
女性は首を傾げる。
そして――
「私です。ナミカです。……忘れてしまったのですか?」
少しきょとんとした表情。
ナギトは、息を呑みながら、振り絞るように言った。
「……いえ。
あなたは――ナミカさんではありませんよね?」
教室の外では、桜の花びらが風に舞っていた。
その瞬間――
女性の表情が、わずかに固まったように見えた。
だが次の瞬間、何事もなかったかのように、柔らかな微笑みが戻る。
「ふふ……ナミカですよ」
その声を聞いた途端、
先ほどまで漂っていた違和感のある空気は、すっと消え去った。
そこにいるのは――
まぎれもなく、ナミカそのもの。
ナギトは驚きを隠せなかった。
「……すみません。勘違いでした。
どうかしていたんです……」
「もう、私のことを忘れてしまったんですか?」
少し拗ねたような声。
「いえ……違います。
最初に見たとき、雰囲気が……
どこか違うように感じてしまって……」
ナミカは、ふっと小さく笑った。
「そう感じたのなら……
それは、きっと気のせいではありませんね」
桜の花びらが、窓の外で静かに舞っていた。
「えっ……」
「人の細胞の多くは、約一年もすればほとんどが入れ替わります。
一年前の私と、今の私は――生物学的には、ほぼ別人なんですよ」
ナミカは、くすりと笑った。
「それはさておき。
大学入学、おめでとうございます。
ようやく大学生になりましたね」
「あっ……ありがとうございます」
「ナギトさんなら、きっと入学できると信じていました」
「非天然遺伝子の学生相手に、生体鎧の試合で勝利を重ねたこと……
本当に見事でした」
「いえ……ナミカさんの助言のおかげです……」
「助言だけで成し得る偉業ではありませんよ」
ナミカは、少しだけ目を細める。
「ナギトさんには、生体鎧を操る“感覚”の才能があるのかもしれませんね……」
「実は――
一年半後に、世界大会が開催されるのです」
「大学で生体鎧の技術を磨き、
この大会で優勝を目指すのも、ひとつの道かもしれません」
「世界大会……」
「はい。
この大会には、ターマハラ、カムツキ、タカギ、ヤミ、ヨミ――
五つの世界から選手が集まります。
そして開催地はターマハラです。」
「参加するかどうかは、ナギトさんの自由ですが….」
「もし、出場を望むのなら……
世界大会まで、私がナギトさんを指導しても構いませんよ?」
「ナミカさんが……自分を指導……?」
「当然です。
私も天然遺伝子の人間ですから。
応援したい気持ちもありますし……」
「まずは、このヤマトの代表選手に選ばれる必要があります」
ナミカは、静かに微笑んだ。
「――いかがですか?」
ナギトは、一瞬だけ息を呑み、
そして、まっすぐに答えた。
「はい。
ぜひ、お願いします!」
ナギトは自分自身の力がどこまでできるのか試したいと思った。
ナミカは、穏やかに微笑んだ。
「それでは、明日から早速訓練に入りましょう」
「はい、よろしくお願いします」
「ふふ……こちらこそ、よろしくお願いしますね」
ナミカは軽く会釈すると、
「それでは私はこれから用事がありますので、
お先に失礼しますね。あとで連絡しますね」
そう言って、教室を後にした。
ナギトは、その背中を見送りながら、
胸の奥に静かな高揚を感じていた。
――新しい道が、今ここから始まる。
ナミカは、大学構内の桜並木を一人歩いていた。
先ほどまでの、柔らかく優しい雰囲気は消え、どこか別の気配が、彼女の周囲に静かにまとわりつく。
春の風が、長い黒髪を揺らした。
誰もいない並木道で、ナミカは小さく立ち止まる。
そして――
「ナギちゃん……ごめんね。そしてナミカ….」
ぽつりと、誰にも届かない声で呟いた。
その声は、風に溶け、舞い落ちる桜の花びらの中へ消えていった。




