第9話:王宮晩餐会の危機と、祭りの知恵
「レティシア、力を貸してくれ。貴様しかいないんだ」
昼下がり、離宮に飛び込んできたカイルム様の顔は、これまでにないほど青ざめていた。
いつもなら夜、お酒の匂いに誘われてやってくるはずの彼が、昼間に、しかも公式の場で見せる「私」という一人称さえ忘れて「俺」を剥き出しにしている。
事情を聞けば、事態は深刻だった。
今夜、隣国の「バルカ帝国」から使節団を迎えて晩餐会が開かれる。バルカ帝国は武勇を重んじる国で、今回の会談の結果次第では、長年の国境紛争が再燃しかねない。
しかし、あろうことか王宮の総料理長が過労で倒れ、さらには原因不明の集団食中毒で、厨房の主力メンバーが全滅してしまったというのだ。
「残った見習いたちだけでは、帝国の使節団を満足させる料理は作れん。帝国の連中は美食家というより、質より量を、そして何より『活気』を好むと聞く。王宮の澄まし料理では、彼らを退屈させるだけだ」
「なるほど……。陛下、一つ提案がありますわ」
私はエプロンを締め直し、不敵に微笑んだ。
「王宮の格式張った晩餐会は、一度忘れましょう。今夜は、私の『居酒屋スタイル』でおもてなしをするのです」
「居酒屋スタイルだと?」
驚くカイルム様を尻目に、私はミーナを呼び寄せ、地下貯蔵庫の「秘密の兵器」を運び出させた。
晩餐会の会場。
並み居る帝国の使節団たちは、退屈そうに空いた皿を見つめていた。
最初に出された、伝統的な「蒸し野菜のスープ」には手を付けた形跡さえない。
「ソルスティスの料理は、やはり病人の食べ物だな」と、使節団の長である筋骨隆々の大男、ドラガン特使が吐き捨てるように言った、その時だった。
「――皆様、本日のメインディッシュを運びますわ!」
私の合図で、厨房から見習い料理人たちが次々と「大きな鉄板」を運び出した。
貴族の晩餐会ではあり得ない、もうもうと立ち上る煙。
そして、会場中に広がるのは、焦げた黒露と薬石の暴力的なまでに食欲をそそる香りだ。
「な、なんだこれは……。行儀の悪い匂いだが、胃袋が掴まれるようだぞ」
ドラガン特使が身を乗り出す。
鉄板の上で弾けているのは、大量の「二角豚」のひき肉と、細かく刻んだ「薬石」の実、そしてシャキシャキとした食感の「地底根」を包んだ、白い薄皮の塊。
そう、前世で愛した「餃子」だ。
ジュゥゥゥッ!
という激しい音と共に、私は仕上げに「黄粒麦」の酒を振りかけ、蒸し焼きにした。
皮が透き通り、裏側には美味しそうな狐色の「羽根」が付いている。
「さあ、召し上がれ! 『白翼の包み焼き』でございます!」
私は自ら特製のタレ――黒露に青尖の実の絞り汁を加えたピリ辛のタレ――を添えて、特使の前に置いた。
特使は疑いながらも、その塊を一口で放り込んだ。
パリッ。
会場に、小気味よい音が響く。
次の瞬間、特使の目が血走った。
「……っ!! おおぉぉぉぉっ!!」
彼は立ち上がり、咆哮した。
「なんだ、この肉汁は! 噛んだ瞬間に口の中で熱い滝のように溢れ出してくる! 皮のパリパリした食感と、中の肉の重厚な旨味……。そして、この突き抜けるような薬石の香りとピリッとした辛み! これだ、俺たちが求めていたのはこれだ!」
「酒だ! 酒を持ってこい!」
他の使節団員たちも、我先にと鉄板に手を伸ばす。
私はそこで、魔石で限界まで冷やした「黄粒麦」の酒を、ジョッキで次々と運ばせた。
「これは……! この黄金色の酒、昨日までのワインとは比べ物にならんほど、この肉料理に合う! 喉の脂をすべて洗い流し、また次の一口を誘うではないか!」
ドラガン特使は、ジョッキを飲み干し、豪快に笑った。
その隣で、カイルム様とヴァレリウス卿も、いつもの居酒屋での顔に戻って夢中で食べている。
「陛下、これです! 王宮でこれを食べられる日が来るとは! この羽根の部分、パリパリしていて最高です!」
ヴァレリウス卿が、騎士の礼儀を忘れて手づかみで餃子を頬張る。
カイルム様も、満足げに頷きながらドラガン特使とジョッキを合わせた。
「ドラガン特使、わが国の『新しい味』を気に入っていただけたようで何よりだ」
「陛下、参りましたな! このような刺激的な料理を出す国が、弱腰なはずがない。貴国との同盟、喜んで継続させていただこう!」
冷え切っていた晩餐会の空気は、一気にお祭りのような熱狂に変わった。
隅々まで行き渡る、肉の焼ける匂いと麦酒の泡。
豪華な装飾品よりも、目の前の一皿が、国と国との心を繋いでいく。
ミーナが私の横で、嬉し泣きをしながら追加のタレを運んでいた。
「お嬢様、すごいです……。王宮のみんなが、あんなに楽しそうに食べてます……」
「居酒屋の料理はね、壁を壊す力があるのよ」
私は、最後に残った「海の実」の出汁スープを特使たちに振る舞いながら、確信していた。
もう、誰も私のことを「悪役令嬢」だの「お飾り王妃」だのとは呼ばないだろう。
私は、この国の胃袋を支える、唯一無二の存在になったのだ。
宴が終わり、夜風が心地よいバルコニー。
カイルム様が私に歩み寄り、月光の下で私の手を握った。
「……レティシア。貴様は、奇跡を起こしたな。感謝してもしきれん」
「いいえ。ただ、みんなでお酒を飲みたかっただけですから」
私が微笑むと、彼はその手を離さず、ゆっくりと顔を近づけてきた。
「……明日、離宮へ戻る必要はない。本宮に、貴様のための専用の厨房を用意した。そこを、貴様の『店』にするがいい。そして……」
カイルム様の言葉を、私は人差し指で遮った。
「陛下。続きは、いつもの場所で。新作の『焼きそば』を仕込んでありますから」
「……ふ。どこまでも、食えない女だ」
カイルム様は呆れたように笑い、私の額に優しく口づけをした。
王宮の居酒屋は、今夜、伝説になったのである。




