第8話:独占欲のスパイスと、とろける角煮
今夜の離宮は、どこか落ち着かない空気が漂っていた。
地下貯蔵庫の入り口で、カイルム様が少し険しい顔をして立っていたからだ。
「……レティシア。今夜は、まだ誰も来ていないな?」
「ええ、陛下。一番乗りですよ。何かあったのですか?」
私が問いかけると、カイルム様はふいっと視線を逸らし、いつもの指定席――木箱に毛皮を敷いた椅子――に深く腰を下ろした。
「いや……。ヴァレリウスの奴が、昼間の演習中に昨夜の貝の味が忘れられないと惚気ていてな。エレオノーラまでもが、お前の出汁がどうのと騒いでいる。……少し、騒がしくなりすぎた」
カイルム様の声は、どこか拗ねた子供のように聞こえた。
私は心の中で苦笑する。どうやら陛下は、この秘密の場所が「自分だけのもの」でなくなってきたことに、不満を感じているらしい。
「ふふ、そんなに怖い顔をしないでください。今夜は、じっくり時間をかけて仕込んだ『特別なもの』がありますから」
私は大きな土鍋の蓋を開けた。
立ち上ったのは、甘く、そして抗いがたいほど濃厚な「肉」の香りだ。
「……ほう。今夜は、肉か」
カイルム様の鼻先がぴくりと動く。
鍋の中で踊っているのは、この国で最も脂が乗っているとされる「二角豚」のバラ肉だ。
私はこの肉を、黒露と蜜根の絞り汁、そして香りの強いハーブ「芳草」と共に、三時間以上かけて魔法でじっくりと煮込んだ。
余分な脂を丁寧に取り除き、旨味だけを凝縮させた「角煮」のような一品。
「さあ、お待たせしました。二角豚の『とろとろ煮』です」
小皿に取り分けられた肉は、箸で触れただけで崩れてしまいそうなほど柔らかい。
カイルム様は、一切れの肉を口に運んだ。
「…………っ」
彼は言葉を失い、ゆっくりと目を閉じた。
咀嚼するたびに、肉の繊維がほどけ、濃厚な脂の甘みが舌の上で溶けていく。
「なんだ、これは。噛む必要がない。……口の中に入れた瞬間、至福だけを残して消えていく。この甘辛い味付け、そしてこの肉の柔らかさ。王宮の硬いローストとは正反対の……まさに、禁断の味だ」
「陛下、こちらもどうぞ。今夜は特別に冷やした、黄粒麦のさらに濃い銘柄です」
私が差し出したのは、いつもの麦酒よりもさらにコクの強い、琥珀色の液体だ。
カイルム様はそれを一気に飲み干し、ふぅ、と熱い吐息を漏らした。
「……うまい。重厚な肉の味を、この苦味の強い酒ががっしりと受け止めている。……レティシア、やはり貴様を離宮に置いておくのは間違いだった」
カイルム様の瞳が、熱を帯びて私を射抜く。
彼は私の手首を、不意に、しかし優しく掴んだ。
「もう、他の奴らには食わせたくない。ヴァレリウスも、エレオノーラもだ。……明日から、貴様を本宮の私の隣に戻そう。そして、俺のためだけに料理を作れ。俺だけのものになれ」
それは、あまりにも強引で、あまりにも直球な独占欲の吐露だった。
普通の令嬢なら、頬を赤らめて頷くところだろう。
「……嫌ですよ」
私は、微笑みながらきっぱりと断った。
「な……っ!? 嫌だと、言ったのか?」
「はい。私は、自分が美味しいと思うものを、みんなが美味しそうに食べて、飲んでくれるのが好きなんです。陛下だけのために閉じこもるなんて、私の『居酒屋』が泣いてしまいますわ」
カイルム様は呆然として私を見つめた。
王である自分を、それも「愛」を感じさせる言葉で誘った自分を、これほどあっさりと拒絶する女など、彼の人生には一人もいなかったに違いない。
「お嬢様、そんなこと言っちゃって大丈夫なんですか……?」
隅で片付けをしていたミーナが、ハラハラしながらこちらを見ている。
カイルム様はしばらく黙っていたが、やがて、ぷっと吹き出した。
「……ははは! 振られたな。王であるこの俺が、一皿の料理に負けたというわけか」
「負けたのではありませんわ、陛下。私は、美味しいものを分かち合う喜びを大切にしたいだけです」
私がそう言って、さらにもう一切れ、一番脂の乗った肉を彼の皿に乗せると、カイルム様は降参したように両手を上げた。
「……わかった。貴様の負けだ、レティシア。いや、俺の負けか。だが、一つだけ約束しろ。新しい料理を作る時は、必ず俺を最初に呼ぶことだ。それだけは、譲らん」
「ふふ、それくらいなら、お安い御用ですわ」
その時、ドタドタと騒がしい足音が聞こえてきた。
「殿下ー! 陛下ー! 今夜もいい匂いが外まで漏れてますよ!」
現れたのは、鼻を真っ赤にしたヴァレリウス卿だった。
彼はテーブルの上の肉を見るなり、目を輝かせる。
「おおっ! このとろけそうな肉はなんですか! 陛下、一人でずるいですよ!」
「……ちっ、また邪魔が入ったか」
カイルム様はあからさまに嫌な顔をしたが、ヴァレリウス卿がジョッキを片手に「乾杯!」と叫ぶと、渋々ながらも自分のジョッキを合わせた。
「んんんーっ! この肉、飲み物ですわ! 噛まなくても喉を通っていく! 麦酒との相性も最高だ!」
「でしょう? ヴァレリウス様。お嬢様、この残った煮汁を、パンにつけてもいいですか?」
「いいわよ、ミーナ。それが一番美味しいんだから」
四人で囲む食卓。
独占欲というスパイスは、結局、賑やかな笑い声にかき消されてしまった。
けれど、カイルム様が時折、私に向ける視線は、出会った頃よりもずっと熱く、確かな温度を持って私を捉えていた。
私はそれに応えるように、新しい麦酒を注ぐ。
離宮の夜は、まだ始まったばかりだ。




