第7話:嵐の来客と、癒やしの出汁茶漬け
離宮の「居酒屋」に、初めて招かれざる客がやってきたのは、爽やかに晴れた午後のことだった。
「ごめんあそばせ。ここが噂の『見捨てられた王妃』の寂しいお住まいかしら?」
取り巻きの侍女を連れ、扇子を優雅にくゆらせながら現れたのは、侯爵令嬢エレオノーラ。次期王妃の座を狙っていると噂される、高慢な美貌の令嬢だ。
彼女は鼻をつまむような仕草で、離宮の質素な廊下を見渡した。
「あら、エレオノーラ様。わざわざこのような辺鄙な場所まで、どのようなご用件で?」
私は庭でハーブの手入れをしていた手を止め、にこやかに微笑んだ。
彼女の目は、あからさまに私を蔑んでいる。
「ふん、強がりを。陛下が毎晩のようにここへ通われているという不気味な噂を聞いたのよ。どうせ、卑しい術でも使って陛下をたぶらかしているのでしょう? 正妃候補として、放っておけませんわ」
エレオノーラ様は、私の隣で震えているミーナを冷たく一瞥した。
その顔には、隠しきれない疲労の色があった。王宮内での権力争い、美食の競い合い、そして陛下に振り向いてもらえない焦燥感。彼女もまた、この国の窮屈な「貴族の義務」に焼き尽くされている一人なのだ。
「術だなんて人聞きが悪い。ただ、美味しいものを食べていただいているだけですよ。……ちょうどお昼時ですわ。エレオノーラ様も、一口いかがですか?」
「はあ? 私がこのような場所で食事を? 冗談はやめて……」
「そんなに肩を怒らせていては、せっかくの美貌が台無しですわ。少し、胃を休めてはいかがかしら」
私は半ば強引に、彼女を地下の涼しい貯蔵庫――今の私の「特等席」へと案内した。
今夜のために用意していたのは、北の冷たい海から届いた「白銀鯛」だ。
私は熟成魔法を使い、この魚の身を最も弾力が強く、甘みが引き立つ状態まで高めておいた。
「何かしら、この地味な食べ物は……」
エレオノーラ様が不審げに見つめるのは、炊きたての「白石米」の上に、薄く切った白銀鯛を並べた一皿。その横には、薬石の実と「胡麻の種」を黒露で練り上げた特製のタレを添えてある。
「まずは、このタレを魚に絡めて、そのまま一口どうぞ」
彼女は毒味を疑うように私を睨んだが、あまりの香ばしさに抗えず、一切れの魚を口に運んだ。
「……っ。なんですの、この弾力。それに、このタレの濃厚なコク……。こんなに力強い味、王宮の澄まし料理にはありませんわ」
「ふふ、本番はこれからです。ミーナ、熱いお出汁を」
私は第四話でも使った、銀鱗の干魚から取った黄金色の出汁を、熱々のまま白米と魚の上からたっぷりとかけた。
ジュッ、と魚の身が白く花開くように縮まる。
「さあ、出汁茶漬けですわ。サラサラと召し上がれ」
エレオノーラ様はおずおずとスプーンを取り、出汁と共に米と魚を口にした。
「…………ぁ」
彼女の扇子が、力なく机に置かれた。
二口、三口。彼女は無言で、しかし止まることなくスプーンを動かした。
「……信じられない。温かいお出汁が、キリキリと痛んでいた胃を優しく撫でていくみたい……。お魚の旨味が溶け出して、ご飯と一緒に喉を滑り落ちていく。あんなに騒がしかった頭の中が、急に静かになっていく気がしますわ……」
「お出汁には、心を落ち着かせる魔法があるんですよ」
私がそう言うと、彼女の目から一粒の涙がこぼれ落ちた。
彼女は慌ててハンカチで顔を覆う。
「……恥ずかしいところを見せましたわ。私、毎日、誰よりも豪華なドレスを着て、誰よりも高価な食材を食べて……。でも、一度も『美味しい』なんて心から思えなかった。ただ、負けたくなかっただけなのに」
「たまには、こういう『手抜き』も必要ですわ」
エレオノーラ様は、最後の一滴まで出汁を飲み干すと、すっきりとした顔で立ち上がった。
来た時の棘のある雰囲気は、もうどこにもない。
「レティシア様。……貴女に、宣戦布告をしに来たはずでしたのに。これでは、戦う気も起きませんわ」
「あら、またいつでも『休憩』しに来てくださいな。お出汁はいつでも用意しておきますから」
彼女は「気が向いたらね」と不器用に微笑み、去っていった。
それを見送ったミーナが、ほっと胸を撫で下ろす。
「お嬢様、凄いです……。あんなに怖かったエレオノーラ様が、あんなに穏やかな顔になるなんて」
「美味しいものは、人を素直にさせるのよ」
その日の夜。
いつものようにやってきたカイルム様は、なぜか少し不機嫌そうだった。
「……今日、エレオノーラがここに来たらしいな。何か嫌がらせをされなかったか?」
「いいえ。一緒に温かいお茶漬けを食べて、楽しくお話ししただけですよ」
私が答えると、カイルム様は意外そうに目を丸くした。
「貴様というやつは……。敵さえも胃袋に収めてしまうのか」
「ふふ、陛下。今夜はエレオノーラ様も絶賛した、最高のお出汁で作った『お浸し』もありますわよ。まずは一杯、いかがですか?」
私はキンキンに冷えた「黄粒麦」を差し出した。
カイルム様は少しだけ困ったように笑い、それを受け取った。
「……ああ、頂こう。エレオノーラに先を越されたのは癪だが、俺もその『癒やし』とやらが必要だ」
離宮の居酒屋は、いつの間にか、王宮の荒波に疲れた者たちが集う「聖域」になりつつあった。




