第5話:潜入の騎士団長と、秘密の燻製
昨夜、カイルム様が残した「刺激のあるものを」というリクエスト。
それに応えるため、私は今日、朝から離宮の庭で「煙」と格闘していた。
「お嬢様、これでお肉に香りが付くのですか? なんだか不思議な準備ですね」
ミーナが不思議そうに覗き込むのは、私がレンガを組んで作った簡易的な燻製器だ。
中に入っているのは、この地方でよく食べられる「風羊」の塩漬け肉と、濃厚な味わいの「雲乳のチーズ」である。
「ええ。この『香木』のチップを燃やして、その煙でじっくりと食材を包み込むの。これが、お酒に最高に合う『燻製』になるのよ」
私は熟成魔法を使い、本来なら数日かかる乾燥と熟成の工程を一気に済ませた。
仕上げに、砕いた「黒棘の実」をたっぷりと振りかける。これは前世で言うところの黒胡椒だ。ピリッとした鋭い刺激が、燻製の香りをさらに引き立てるはず。
夕闇が降り、離宮の地下貯蔵庫にいい香りが充満し始めた頃。
重々しい足音が階段を下りてきた。
だが、その足音はいつものカイルム様のものより、ずっと力強く、どこか警戒を含んでいる。
「……見つけたぞ。王妃レティシア、貴様、ここで一体何を企んでいる」
現れたのは、銀の甲冑を身に纏った大男だった。
鋭い眼光に、固く結ばれた口元。近衛騎士団長、ヴァレリウスだ。
カイルム様の幼馴染であり、王国最強の騎士と謳われる人物である。
「あら、ヴァレリウス卿。そんなに怖い顔をして、どうなさいました?」
「陛下が夜な夜なこの離宮に足を運んでいると聞き、調査に来た。貴様、卑劣な術で陛下をたぶらかしているのではないだろうな」
ヴァレリウス卿は腰の剣に手をかけ、貯蔵庫の中を鋭く見渡す。
その背後から、ひょいとカイルム様が顔を出した。
「よせ、ヴァレリウス。私が自分の意思で来ていると言っただろう」
「陛下! しかし、この妙な匂いは……」
ヴァレリウス卿が鼻をひくつかせ、燻製器の方を指差す。
私は微笑みながら、ちょうど出来上がったばかりの燻製チーズとハムを切り分け、皿に並べた。
「疑うのなら、まずはお召し上がりになってはいかがですか? 毒が入っていないことは、陛下が証明してくださいますわ」
私はキンキンに冷えた「黄粒麦」の酒を三つのジョッキに注ぎ、テーブルに置いた。
カイルム様は迷わず席に着き、黒胡椒がたっぷりかかった燻製ハムを口に運ぶ。
「……っ。これだ。この独特の香ばしさ、そして鼻を突き抜ける黒棘の刺激。これが欲しかった」
カイルム様は幸せそうに目を細め、黄金色の酒を流し込んだ。
それを見たヴァレリウス卿は、顔を真っ赤にして憤慨する。
「へ、陛下! 毒見もせずにそんな……! 仕方ない、私が毒見をいたします!」
彼は半ばヤケクソ気味に、燻製チーズをひょいと口に放り込んだ。
次の瞬間、彼の強面が劇的に変化した。
「……っ!? な、なんだこれは。口に入れた瞬間に広がる、この森のような深い香りは……。それに、チーズの濃厚なコクが、この黒棘の辛みでさらに強調されている……!」
「こちらもどうぞ。お酒と一緒に流し込むのがコツですよ」
私がジョッキを勧めると、ヴァレリウス卿は「くっ……」と呻きながらも、一気に酒を煽った。
「…………ぷはぁっ! なんという……なんという喉越しだ! この苦味が、チーズの脂をさらりと流し、次の一口を誘う。止まらん、これは止まらんぞ!」
「ヴァレリウス卿、この風羊のハムも食べてみてくださいな。噛むたびに脂の甘みが溢れてくるんですから!」
ミーナが嬉しそうに、追加の皿を差し出す。
騎士団長は、もはや警戒心などどこかへ吹き飛んだ様子で、次々と燻製を口に運んでいく。
「おい、ヴァレリウス。俺の分まで食べるなと言っただろう」
「陛下、これは調査です! 調査の結果、この食べ物には……中毒性という名の、極めて危険な魅力があることが判明いたしました!」
最強の騎士が、まるで子供のようにハムの奪い合いをしている。
その光景を見て、私は思わず吹き出した。
「お二人とも、落ち着いてください。お代わりはいくらでもありますわ」
結局、ヴァレリウス卿はジョッキを三杯も空け、燻製一皿をあっという間に平らげてしまった。
彼は最後に深く溜息をつき、私に向かって深く頭を下げた。
「……王妃殿下、先ほどの無礼を謝罪いたします。これほどの料理を作る方に、悪意などあるはずがありません。心に迷いがある者に、この『一点の曇りもない旨味』は出せませんからな」
「わかってくれればいいのだ。……ところでレティシア、明日は何を作るつもりだ?」
カイルム様が、早くも次の期待を込めた瞳で私を見る。
その隣では、ヴァレリウス卿も期待に満ちた顔でこちらを凝視していた。
「そうですね……。お客様が増えたことですし、もう少し賑やかなメニューにしましょうか。例えば……この国の『海の実』を使った、熱々の料理なんていかがかしら」
「海の実だと? あれは下魚として扱われているはずだが……」
カイルム様が不思議そうに首を傾げる。
私はただ、いたずらっぽく微笑むだけにとどめた。
冷徹だった王と、堅物だった騎士団長。
二人の胃袋が、私の秘密の居酒屋によって、完全に陥落した瞬間だった。




