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第4話:黄金の包み焼きと、ほどける心


今夜の離宮は、しとしとと静かな雨に包まれていた。

地下貯蔵庫の明かりの下、私は丁寧に「出汁だし」を取っていた。


昨夜までの揚げ物や串焼きといった刺激の強いものもいいけれど、雨の夜には少し趣向を変えたものが欲しくなる。

使っているのは、北の海で獲れるという「銀鱗の干魚ぎんりんのかんぎょ」と、深い青色が美しい海藻「海龍草かいりゅうそう」だ。


この世界の人々は、素材をそのまま煮込むことはあっても、こうして「旨味だけを抽出する」という概念があまりない。

私は熟成魔法を使い、本来なら数時間かかる抽出を、最も雑味のない黄金色の状態で完成させた。


「お嬢様、今夜は一段と優しい香りがしますね。昨日までの、鼻をくすぐるような強烈な匂いとは違って、なんだか胸がすっと軽くなるような……」


手伝ってくれているミーナが、鍋から立ち上る湯気をそっと吸い込み、うっとりと目を細めた。


「これは『出汁』というのよ、ミーナ。料理の土台になる、魔法のスープね。今夜はこれを使って、特別な卵焼きを作りましょう」


用意したのは、この国で最も親しまれている「陽だまりひだまりたまご」だ。

鮮やかなオレンジ色の黄身が特徴のこの卵に、先ほどの出汁と、ほんの少しの黒露こくろ、そして隠し味に蜜根みつねの絞り汁を加える。


「さあ、ここからが腕の見せ所よ」


熱した四角い鉄板に、薄く油を引く。

卵液を流し込むと、ジュー、と控えめな音が響く。

半熟のうちに奥から手前へと丁寧に巻き、空いたスペースに再び卵液を流す。

それを何度も繰り返し、層を重ねていく。


「わあ……! お嬢様、なんて鮮やかな手つき。まるで魔法を使っているみたいに、卵がどんどん厚みを増していきますわ!」


ミーナが感嘆の声を上げたその時、重厚な扉が静かに開いた。


「……今夜は、静かだな」


現れたのは、カイルム様だった。

濡れたマントをミーナに預け、彼は椅子に深く腰を下ろした。

その顔色は昨日よりもさらに白く、目の下には隈が浮き出ている。


「お疲れのようですね、陛下」


「……ああ。国境付近の領地報告が重なってな。頭が休まらんのだ」


彼はこめかみを指で押さえ、吐き出すように言った。

私は黙って、焼き上がったばかりの「出汁巻き卵」を切り分け、湯気が立つ一皿を彼の前に置いた。

そして、今夜は酒ではなく、少しだけ温めた「黄粒麦こうりゅうばぎ」の軽い飲み物を添える。


「どうぞ。今夜はこれをお召し上がりください」


カイルム様は、目の前の黄色い塊を不思議そうに見つめた。


「これは、卵か? 随分と柔らかそうだが……」


彼は箸――私がわざわざ作らせた二本の棒――を、ぎこちなく使って卵を口に運んだ。

その瞬間、彼の眉間の皺が、目に見えて緩んでいく。


「……っ。何だ、この食感は。噛む必要がないほど柔らかい。そして、中から溢れ出してくるこの温かい汁は……」


「それが、出汁の力ですわ」


横からミーナが、我慢できずに口を開いた。


「陛下、私も一口頂きましたが、これは心に染み渡る味です! 昨日のような『攻め』の味ではなくて、包み込んでくれるような、お母様の腕の中にいるような……そんな温かさなんです!」


カイルム様はミーナの言葉に頷くように、二切れ目、三切れ目と口を動かした。

一切れ食べるごとに、彼の強張っていた肩の力が抜けていくのがわかる。


「……確かに。この優しい味は、荒んだ心に静かに染み込む。不思議だ、腹を満たすためではなく、心が満たされていくような感覚だ」


彼は温かい飲み物を一口含み、ふぅ、と長い溜息をついた。


「レティシア。貴様の料理は、毒ではないな。……これは、薬だ」


「光栄ですわ。でも、薬だと思って食べると味が落ちます。ただの『美味しい夜食』だと思ってください」


私が微笑むと、カイルム様はわずかに口角を上げた。

彼が笑ったところを、私は初めて見た。


「そうだな。ただの、美味い飯だ。……不思議と、眠気がしてきた。ここ数日、まともに眠れていなかったというのに」


「それは、お腹と心が温まった証拠ですわ。今夜はもう、執務室には戻らずにお休みください」


カイルム様は最後の一切れを惜しむように口に運ぶと、立ち上がった。

足取りは、来た時よりもずっと軽やかだった。


「明日……明日は、少し刺激のあるものが食べたい。貴様のあの、黄金色の酒に合うようなものをな」


「ふふ、考えておきますわ」


カイルム様が去った後、ミーナが私に詰め寄ってきた。


「お嬢様! 今、陛下笑いましたよね!? 絶対に笑いましたわ! それに、明日のリクエストまでして……!」


「そうね。でも、まずは私たちが残りを食べちゃいましょう。出汁巻き卵は、冷めても美味しいのよ」


私たちは残った卵焼きを分け合い、雨音を聴きながら穏やかな夜の時間を楽しんだ。

カイルム様の胃袋が、確実に私の「居酒屋」に捕らえられつつあることを、確信しながら。


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