第2話:禁断の揚げ物と、月夜の誘惑
離宮での生活が始まって三日。
私の生活は、控えめに言って最高だった。
朝は小鳥のさえずりで目覚め、午前中は離宮の広い庭を散歩する。午後は読書をしたり、地下の貯蔵庫で「魔法の仕込み」をしたりして過ごす。
カイルム陛下からは何の連絡もないが、それが何よりの贈り物だ。
「お嬢様、本日の配給が届きましたが……やはり、ひどい内容です」
昼下がり、憤慨した様子でミーナが台所にやってきた。
籠の中には、痩せた「月下鳥」の胸肉が数枚と、しなびた根菜、そして質の悪い「白根粉」が入っている。
「王妃に捧げる食材ではありませんわ。あからさまな嫌がらせです!」
「いいのよ、ミーナ。私にとっては、この方が都合がいいんだから」
私は不敵に笑う。
確かに貴族が好む豪華な食材ではない。しかし、この「月下鳥」は、適切に扱えば最高の食材に化ける。
私はさっそく、地下で熟成させていた「黒露」を取り出した。
これは、前世で言うところの醤油に似た調味料だ。この世界では豆を煮て潰すだけの料理はあるが、発酵させるという概念は乏しい。
私は自分の熟成魔法を使い、数ヶ月かかる発酵の工程を一瞬で終わらせ、芳醇な香りの液体を作り出していた。
「さて、今日のメインはこれよ」
私は月下鳥の肉を一口大に切り分け、黒露と、すり下ろした「薬石」の実、それに少しの果実酒に漬け込む。
薬石の実はニンニクに似た刺激的な香りがする。
「お、お嬢様? そんな刺激の強いものを混ぜてどうするのですか? 貴族は香りの強いものを避けるのがマナーでは……」
「マナーより美味しさよ。これに、この白根粉をまぶして……」
私は大きな鍋に、「種精油」をたっぷりと注いだ。
油を熱し、パチパチと音が鳴り始めたところで、粉をまとった肉を投入する。
シュワァァァーッ!
という、心地よい音が静かな台所に響き渡る。
それと同時に、香ばしく、暴力的なまでに食欲をそそる香りが一気に広がった。
「な、なんですの、この音と匂いは! 肉を油で泳がせるなんて、そんな野蛮な調理法……」
ミーナは最初、頬を赤らめて戸惑っていた。
しかし、肉が狐色に色づき、表面がカリッと固まっていく様子を凝視している。
「はい、出来上がり。これは『黄金揚げ』とでも名付けようかしら」
皿に山盛りにされた、揚げたての肉。
私はミーナに一つ、小皿に取り分けて差し出した。
「さあ、熱いうちに食べてみて」
「は、はい……いただきます」
ミーナがフォークを使い、恐る恐る黄金色の肉を口に運ぶ。
サクッ、という小気味よい音がした。
「……っ!?」
ミーナの動きが止まる。
彼女はハフハフと熱さを堪えながら、咀嚼を繰り返した。
「おいしい……! 噛んだ瞬間、衣の中から肉の汁が溢れてきました! この薬石の香りと、黒露の深い塩味が、お肉の甘みを引き立てて……こんなに力強い味、生まれて初めて食べましたわ!」
「ふふ、そうでしょう? この油のコクがたまらないのよね」
私も一つ、口に放り込む。
カリッとした衣の食感の後に、じゅわっと広がる肉汁の洪水。
これだ。これこそが、居酒屋で私が求めていた味。
「これには、やっぱりあれが必要ね」
私は地下から、さらに冷えを強めた「黄粒麦」の酒を持ってきた。
ジョッキを二つ用意し、黄金の液体を注ぐ。
「ミーナ、いくわよ。乾杯」
「乾杯です、お嬢様!」
私たちは、揚げたての肉を頬張り、冷え切った麦酒でそれを流し込んだ。
喉を刺激する炭酸と、脂を綺麗に洗い流す麦の苦味。
「……はぁぁ、極楽。この組み合わせを考えた人は天才だわ」
「お嬢様、この黄金色の飲み物がお肉に合いすぎます! 止まりませんわ!」
ミーナはもう、マナーも忘れて二つ目の肉に手を伸ばしている。
二人で笑い合いながら、夢中で食べていたその時だった。
「――何の騒ぎだ」
低く、冷徹な声が台所の入り口から響いた。
そこには、豪華な軍服のボタンを外し、ひどく疲れた顔をしたカイルム様が立っていた。
彼の瞳は、私たちが食べている山盛りの黄金揚げと、黄金の酒に釘付けになっている。
「陛下……!? なぜこちらに?」
「……離宮の庭を散歩していたら、妙な匂いがしたのだ。鼻を突く、凶悪なまでの香りが」
カイルム様は、ゆっくりとこちらへ歩み寄ってくる。
彼は私の手にあるジョッキと、皿に残った肉をじっと見つめた。
「それは、何だ」
「これは……月下鳥を油で揚げたものでございます。陛下のお口に合うようなものでは……」
「いいから出せ。毒見だ」
彼はそう言うと、私の制止も聞かずに、大皿から一切れの肉を指で直接つまみあげた。
貴族としてあるまじき行為だが、彼は何かに取り憑かれたように、その肉を口に運ぶ。
サクッ。
再び、心地よい音が響く。
カイルム様の目が見開かれた。
彼は無言のまま、三回、四回と咀嚼し、ゴクリと飲み込んだ。
「……この味、何だ。舌を刺すような刺激があるのに、その後から追いかけてくるこの旨味は。それに、この表面の食感……」
「陛下、よろしければこちらの飲み物もどうぞ。よく冷えております」
私は心得たものだ。
キンキンに冷えたジョッキを彼に差し出す。
カイルム様は不審そうにそれを受け取ると、一気に煽った。
「……っ、くはっ!」
彼は大きく息を吐き出し、呆然とした表情でジョッキを見つめた。
「何だこれは。喉が焼けるような刺激の後に、驚くほどの清涼感がやってくる。……俺は、こんな飲み物を知らない」
「お口に合いましたでしょうか?」
問いかけると、カイルム様は急に我に返ったように咳払いをし、冷たい表情を取り繕った。
「……フン、野蛮な味だ。貴族の食卓には到底出せん。だが……そうだな、あまりに量が多そうだから、少しだけ減らしてやってもいい」
そう言いながら、彼は二つ目の肉に手を伸ばした。
その顔には、先ほどまでの疲れが少しだけ消えているように見えた。
結局、カイルム様はその場に座り込み、私とミーナが用意していた黄金揚げの半分以上を平らげてしまった。
そして、三杯目の麦酒を飲み干すと、満足げな溜息をついた。
「明日も、またこの匂いがするのか?」
去り際、彼は背を向けたまま、ボソリと呟いた。
「さあ、明日は別のものを作っているかもしれませんわ」
私が微笑んで答えると、彼はわずかに肩を揺らし、夜の闇へと消えていった。
「……お嬢様。陛下、明日もいらっしゃるつもりですよ、あれ」
「いいわよ。お客さんは多いほうが楽しいもの」
私はジョッキに残った最後の一口を飲み干し、次は何を「仕込もう」かと、楽しくて仕方がない気分でいた。




