月光に揺れる国
――――大陸暦467年。『月の国』ランペティーヤ王国の首都マャラにて。
「何年ぶりかしら……」
わたしは馬車の窓に手を当て、ポツリと呟いた。
視線の先には、立派な宮殿が建っている。当然、そこへ向かうこの道は丁寧に整えられていた。
’’月の国’’⸻大陸一美しく平和と謳われる我が故郷である。
月が近くに見えるこの国は、観光業だけで国の経済が回る。
資源は平凡だが、隣国の大国とも長年戦争はない。
そう。特別故に普通の国家にあるべき争いごとを経験してこなかった国なのだ。
やがて国の特権階級は腐敗し、正義を貫くものは弾かれてった。
馬車で道を歩くだけで、この国の惨状がわかってしまう。
道だけが綺麗に整えられて、その周りには頑丈な屋敷なんて一つもなかった。
しかし丘の上にある屋敷たちはずいぶん立派だ。
汚いものを退けて、綺麗なだけの道を用意する。
その先にあるものが、綺麗だとは限らないのに。
馬車は丘の頂上の王宮めがけてゆっくり進んでいた。
「はぁ……お気楽なもんね」
おっと。思わず本音が溢れちゃう。
重税を強いられた平民、及び抗議した一部の善良な貴族。それらの屋敷が荒れ、重税の源である王の宮はずいぶん立派だ。豪華絢爛と言っていいだろう。なんと、拡張工事まで検討しているとか。
「三年ぶりではないでしょうか」
普段ならわたしの独り言だと察して無視するのに、弟子は唐突に先程の呟きの返事をした。
声色は相変わらず平坦で、媚びる気がないせいで愛想のない表情がわたしの方を向く。
「三年……。存外、この土地を離れていたのですね、わたくしは」
わたしは彼女の視線から逃げるように再び意識を窓の外に戻し、荘厳な王宮を見上げた。わたしに合わせるように、彼女の視線も王宮に向かうのを感じた。
三年ぶりの帰郷。普通、三年も故郷を離れていれば「やった、帰ってきたぞ!」と浮かれるのが普通ではないだろうか。なのに何故、わたしの心には今、ひとつものな懐旧の念もないのだろう。
あちらこちらを見ては「あぁそうだ。ここでは昔誰々とこんな事があったな」とか、そういうことを思い出して思わず笑みが零れてしまうのがわたしの理想……というかわたしの知る「普通」なのだけど。
(どうやらそれは、この国の人には当てはまらないらしい)
溢れるのは幸せな記憶から来る笑みなどではなく。
荒廃した平民層と、何故かそれと反比例して絢爛になった商人の多い区域、及び黒い噂の貴族層の発展っぷりへのただの溜息だった。
(本当、ある意味期待を裏切らない人達ですね)
わたしがいるからどうこうと変わるわけではないのだけれど、やはりこの変貌と明瞭な貧富の差は行政の人間としては改善していきたいという気持ちが自然と湧いてくる。……というか、この惨状を見て平気で暮らせる人は、ただの馬鹿でしょう。
(……いえ、馬鹿はわたしもね。行き先が地獄だと知っていて、のこのこついて来たのだから)
ガチャン。
馬車が止まった。わたしの職場の前に着いたのだろう。
丘の頂上付近、王城に近いそこがわたしの職場。
神秘の国とも呼ばれるこの国の財政を管理する財務部で、わたしは長年働いている。
職務は税務調査と徴収。本部からの指示で納税の義務を果たしていない国民のところへ出向くのが仕事だ。税の回収のためならば、時には武力の行使もする。
納税は国民の義務だ。それをしない者は、罰するのがルールである。
たとえ、払いたくても払えない人達が相手だとしても。
この国の法律では、貴族である税務調査官だけが平民からの徴税を認めている。貴族からの納税は神資料の監査しか入らないのだ。
嫌な仕事だと思うが、嫌だと投げ出すのは、もっと嫌だった。
だからわたしなりの方法で仕事を全うしてきた。
その結果が、今日だ。
パカッパカッ。
先程よりも少し遅めのスピードで再び馬が歩き始めた。
ピタッと音が止まって数秒後、馬車の扉が開かれる。
「お帰りなさいませ、ミランダレット様」
財務部長官、つまりわたしの勤め先で一番のお偉いさんの秘書官が、そう言って綺麗な礼で出迎えの言葉を述べた。
わたしはニコリと社交用の笑顔を貼り付けて、優雅に男性騎士の手を取って馬車を降りてみせる。すると後方でカチャカチャと物が擦れる音がした。
軽く視線を向ければ、彼らは隠れることなくその姿を現した。
門から着いてきていたのだろうか。なぜか王宮騎士が整列していた。
これほど人がいて気付かぬはずがないのだが、秘書官はわたし以外は見えていないとばかりに頭を下げ続けていた。
それは作法に則っているようで、見て見ぬふりをしているようにも見えた。
そして男性騎士は馬車から弟子が降りたのを確認すると、軽い会釈をして馬を引いていった。
それと同時に、彼はわたしの許可で顔を上げる。彼はわたしのことを改めて視認すると、先程とは違う、見慣れた温かな笑みを見せた。
「太陽の輝く本日この時、あなたに再び出会えたことが大変嬉しゅうございます。光の神をはじめ、多くの神々のお導きによるものと存じます。この巡り合わせに感謝と祝福を」
パラパラと祝福の光が降り注ぐ。
(祝福とは。殴ってやろうか)
貴族の挨拶は身分が低い方が挨拶と共に祝福を捧げるのがマナーだとわかっているが、思わず文句を言いたくなる。
「3年ぶりですね。大臣の秘書ですか、出世しましたね」
「はい。何分、人が減ったものですから」
「そしてわたしも減らす、と」
その言葉には答えず、秘書官は踵を返して建物の方へ向き直る。
「ご案内いたします」
黙ってついて来い、ということだろう。
わたしはチラリと後ろに視線を送る。
ついてきてしまった幼い弟子は、相変わらずの無表情で秘書官をじっと見ていた。
愛想のない子。
だけど、わたしのかわいい弟子だ。
目が合うと、人形のような少女はそのまま見つめ返してくる。わたしは思わず笑みがこぼれて、同時に胸がきゅっと締め付けられた。
「行きましょうか」
「はい」
わたし達も建物へ向かって歩いていく。
前なら手を握って歩いていたけれど、もうそれはしない。……なぜなら少女はもう道を覚えているし、護身用の魔術具も渡した。知り合いの家系魔法を入れ込んだ、特別な製品だ。わたしの残したものは、きっと彼女を守ってくれるだろう。
秘書官は財務部の長官の部屋へと案内してくれた。
「長官。ミランダレッド様とそのお弟子さまがいらっしゃいました」
「入れ」
偉そうな言葉と共に、扉が開かれる。
「久方ぶりだな、ミランダとその弟子よ」
「お久しぶりにございます」
丁寧に頭を下げる。
偉そうなじいさんは、記憶よりも幾分立派になった椅子にふんぞり返って座っていた。
「まるで別人ですね」
「そうか?」
「ええ。もっと威厳のある方だったというのに」
「そうだなぁ……そうかもしれん」
長官は髭を触りながらこちらを見据える。
その眼光には鋭い光が宿っていた。
若かりし頃のじいさんが残っているのだろうか。
今やただの老害だというのに。
こいつは偉そうにしているが、実際偉いのだ。国の財政を担う大臣であり、国をここまで荒廃させた原因のひとつでありながら、それ以前までは国を支えていた忠臣でもある。
わたしは忠臣だったじいさんには尊敬、憧憬していた。
「しかし、随分派手な模様替えをなさったんですね」
部屋の調度も長官の衣服も度が過ぎている。
王族しか許されない黄金の帯。
(こんなことをする人ではなかったのに)
権力が彼を変えてしまったのだろうか。
それとも、愛だろうか。
「ああ。良いだろう? 西から取り寄せたのだ。上に立つ者は常に相応しいものを身につけなければならないからな。
そして―――お前は相応しくない」
バンッ! と勢いよく扉が開かれ、武装した騎士達がわたしと弟子を拘束する。
「っ……魔術無効化の陣に、武装した王宮騎士とは。一体なにをそこまで恐れていらっしゃるのです?」
一応貴族だからか、拘束は手錠のみだ。しかし、想定よりも騎士達はわたし達を警戒していた。拘束はきつく、弟子の首には剣が向けられている。
弟子を拘束する方がわたしが抵抗しないと踏んだのだろう。
「月は単独では輝けまい」
かつて”月の妖精”と呼ばれた侯爵令嬢――わたしを揶揄した言葉だろう。
「ここは月の国ですよ。あなたの言葉は、国への暴言と認識できますが」
わたしの言葉に、騎士達が長官へ視線を向けた。
その一瞬の緩みの間に、わたしは全力で魔力を解放する。
「「っ!?」」
騎士達は失神して、後ろからは剣が床に落ちる音がした。
「何事だ!?」
室内の異変を察知した外の騎士達が侵入してくると、すぐさまわたしを拘束する。今度はきつく、身体を床に叩きつけながら。
「……さすがだな。魔法陣を壊すほどの魔力を持っているとは驚いた」
その男は、わたしの全力にも意識を保ち、冷静に状況を見つめていた。
「わたくしも驚きました。あなたの秘書官さまが強力な魔術師でしたなんて存じ上げませんでした」
わたしは結構本気で驚いている。
咄嗟に防御結界を張り、自分と長官を守ったのだ。
魔力解放は奇襲攻撃であり、解放された魔力が多いほど効果範囲を広げることができる。効果は相手を失神させるだけだが、こういう状況では十分だ。そして、護衛でもない人間が奇襲に対して二人分の結界を張って対応した。さらに祝福を受けた時にも気づかせないほど精密な魔力コントロール。
一介の秘書にしては度が過ぎている。
(……そういうことか)
「黒幕は中央国ですか?」
その言葉に長官は驚いたように目を見張り、秘書官はニヤリと笑った。
「国を是正せしめんとする貴族も、中央の脅威となり得るわたくしも、初めから必要なかったのですね」
わたしにいなくなってほしいのは、この国の腐敗した連中だ。
では彼らはなぜ、美しいこの国を汚し続けたのか。
なぜ、改善しようともしなかったのか。
それは――
「この国は売られるのですね。そして、大国の力を借りて再興するでしょう」
盛衰は操作されたものだった。
この国を大国の中央国に売り、大国からの資金と貢献度で得をする人達が存在したのだ。
正直、王族が出てくることは予想できていたが、話がここまで大きなものだとは思わなかった。
(弟子を逃したのは正解でしたね)
魔術具は魔力を注入すると作動する。先ほどの魔力解放で弟子の魔術具は正常に作動し、彼女はこの部屋からはすでに姿を消していた。
「さて、お話は以上ですか? これ以上ここにいては裁判に遅れてしまうやもしれません」
「……そうだな。おい、連れて行け」
秘書官の言葉に促されるように、長官が指示を出した。騎士たちはわたしに魔力封じの拘束具を着け、両脇を固めた厳重体制で誘導を始めた。
(……気のせいかしら。長官の瞳が一瞬、揺らめいていた)
♢
⸻王宮・法廷の間にて。
扉が開くと、そこはすでに満員だった。
名のある貴族たちと王族がわたしを見ている。
参考人席には見知った人たちもいた。
わたしは裁判官の前に立たされ、罪状が読み上げられる。
それらは、真実と嘘が巧妙に混じり合っていた。
⸻第一に、被告人は地主からは過剰な金銭を、平民からは物資を徴収し、税を回収していた。
この国の法律では、平民からも金銭での徴税は必須。けれども、こんな田舎の国のさらに辺境で、物品貨幣制度は簡単には順応しない。だからその分のバランスをその土地の貴族とで調整したのだ。
法律には反しているが、徴税の義務は果たしたし、特例状も確かにもらったはずだ。
だけどこの場にはないらしい。一体どこへいったのやら。
⸻第二に、被告人は私腹を肥やし暴力で土地を奪った。
確かに担保として土地を抑えることはあった。しかしそれは法律を遵守し、できる限りの事情も汲んだものだった。
わたしの罪状は確かに事実であるが、背景が省かれていた。
……当たり前だ。これは、ただ邪魔者を陥れるためだけの裁判なのだから。
読み上げられた罪に、きっと意味なんてない。
「それでは参考人からの話を伺おう。前へ」
それを合図に、数人の参考人が順に証言台に立った。
着の身着のままの彼らは、顔を強張らせていた。
わたしへの訴えは貴族と平民双方からも者だった。つまり、過去関わってきた平民の中に、わたしを訴え出た者たちがいるのだ。
「……」
参考人は見知った顔ばかりだった。
長官は参考人の紹介を始めたが、そんなものなくてもわたしにはわかる。 特に思い強く、助けたつもりの人たちだったからだ。
胸の奥がきゅっと痛む。
心がモヤモヤする。
誰の顔も見たくない。
このまま見つめていたら、黒い感情が溢れてしまう。
でも、だめだ。わたしは堂々としていなくちゃ。
だって近い将来、わたしの弟子はきっと帰ってくる。そして今この様子も、知るだろうから。
「どうしてわたくしを訴えたのかお聞きしても?」
わたしの言葉に母親は唇を噛み、子どもは震え、父親はわたしから目を逸らした。
「ち、違うんだ……ミランダ様。俺たちはただ、あんたのしたことを正直に話しただけで……」
こんな風に悪用されるなんて思いもよらなかった、とでもいうように、父親は震えた声で訴えてきた。
わたしはゆっくりと息を吸い、裁判官の前に一歩進んだ。
「わたくしにこの者たちを責める資格はございません」
「……つまり、罪をお認めになると?」
「ええ、この方々の仰ったことは事実ですから」
その言葉で、わたしの有罪が確定する。
「⸻ここに、被告人ミランダレットを罪人と確定し、その罪の重さから即刻死刑を言い渡す」
これにて裁判は閉廷。
わたしは明日、処刑される。
♢
朝日が昇り、街に鐘が鳴り響く。
人々が処刑台の周りに集まり、歓声が湧く。
「悪魔を殺せ!」
「天罰を!」
民衆が声高に叫ぶ。
聞こえてくるのはわたしの死を願うものばかり。
財務部でのやり取りも、裁判のことも、すでに知られているのだろう。
裁判は平民の前での斬首に決定した。
首を切りやすくするために、食事は抜かれた。
喉の奥までせり上がる苦味。
湧き上がってくる気持ちの悪いものは、きっとお腹が空いているからだろう。
かつて助け、守り、未来の安寧を願ったはずの人たちが、わたしを殺す。
それでも。
(それでも――わたしは)
この国で育まれた確かな愛をたくさん見てきた。
それが壊れていく様を見続け、気づけば助けたいと、何か力になりたいと思ってしまった。
傲慢なその心も、最後まで本心を隠すことも。あなたたちが言うのなら、きっと罪なのだろう。
「最後の言葉はあるか、ミランダレッド」
処刑人の声。
人々は沈黙し、わたしの答えを待っている。
わたしは真っ直ぐ前を向き、確かな声量で語りかける。
「わたくしは、本当に罪を犯したのでしょうか?」
わたしの反省の言葉を待っていたのだろう。広場に集まった人々からの怒号が飛ぶ。
「わたくしのしてきたことは罪でしょうか? わたくしは、国の財政を守るために働いてまいりました。救える者は救い、不正を働く者は裁きました。――すべて、そこに住まうあなたたちのために」
人が日々を生きていくために必要なものはなんだろうか。
死にゆく人間が、未来を生きていく人間に残せるものはなんだろうか。
「わたくしは各地を見て周り、たくさんの人に出会いました」
それは歴史だ。
過去の事実をあくまで歴史とし、人々の記憶に残す。
「そして、人の優しさに触れました」
財務官としての仕事は簡単だ。
ただ税を回収すればいい。
必要なら相手を問わず暴力を駆使し、金品を抑える。
そう。求められていたのはそんな簡単なお仕事。
「時に人は、窮地に追い込まれ、他人を陥れることがあります」
国民を救うなんてことは出過ぎた真似だったのだ。
そんなことを続けていればどうなるかなんてわかっていた。
「けれどそれは、あくまで人の本質の一部でしかないのです」
ただの旅人にしか見えない見知らぬ人に、パンを分け与えてくれる人もいる。
夜凍えていれば家に招き、温かいミルクをくれる人もいる。
「最後に裏切られるなら初めから知りたくなんてなかった。……そう思う気持ちもわかります」
けれど。
「一度優しさに触れ、同じスープを飲んでしまったら」
馬鹿だと思う。自分でも。
「人を愛さずにはいられないのです。どうか、その人たちが住まう国がどうか良いところであるように」
願い、無力な自分に何かできないかと探してしまう。
「どうか、なんの心配もなく日々を過ごせますようにと」
目を閉じれば思い出される脳裏に焼きついた記憶。
月の国と謳われるこの国の日々の風景の美しさ。
「差し伸べられた手をそっと握り返し、次へと繋げる」
守りたいと思った。
特別な理由なんてない。
「それがわたくしのしてきたことです」
それが誰かを悲しませたのなら、確かに罪だろう。
大勢を守る法律によれば、確かに違反だろう。
「後悔はありません。わたくしは、この国に生まれて幸せでした。皆さんに会えて、本当によかった」
わたしは満遍の笑みを浮かべる。
まるで後悔なんてないというその笑みに処刑人は一瞬躊躇い、そして刃を振り下ろした。
薄れていく意識の中で、わたしは一人の愛しい人を見つけてしまう。
(戻ってきてしまったのね)
いつから見られていたのだろう。
わからない。けれど、大丈夫。
わたしはこの国を恨んでないわ。
国民を愛してる。
善良で、時に愚かな人間を。
わたしは死にゆく人。
どうかわたしのことは忘れて、この先のあなたの人生を生きて。
大好きなわたしの弟子。
もう声も出せないけれど。
弟子の姿を見たら、なんだか頬が緩んでしまう。
⸻愛してるわ、ナディア
♢
処刑場には、噛み殺された小さな嗚咽が響いていた。
♢
処刑が執行され、広場も閑散としていく。
長官――かつて誰よりも国を愛したその忠臣は、濁った瞳でミランダを見下ろしていた。
その表情には勝利も憎悪もなく、ただ深い影だけが落ちていた。
(儂の正義とは、なんだったか……)
自分でもわからない問いが胸の奥に沈む。
処刑台の下から、幼子のすすり泣きが聞こえる。
群衆の歓声も怒号も、なぜか遠くに聞こえる。
長官の耳には、今はもう存在しない“家族の声”が聞こえていた。
♢
⸻十数年前
宮殿から離れた、小さな屋敷。
長官はまだ若く、妻と幼い息子と暮らしていた。
彼は傾きかけた国の財政を立て直そうと誰よりも働いた。
腐敗を許さず、貧民への支援も惜しまなかった。
⸻愛する家族を守りたい。
国を、彼らが安心して生きられる場所にしたい。
その信念で必死に働いた。
しかし、ある年。
食糧難と重税のしわ寄せに耐えきれなくなった貧民たちが武装蜂起した。
“悪政の象徴”として狙われたのは、平民街に近い彼の屋敷だった。
家に押し寄せた暴徒。
燃える建物。
逃げる暇もなく――妻と息子は、殺された。
燃える瓦礫の中で、長官は叫び続けた。
「なぜだ……! なぜ、お前たちが……!」
国のために働いた結果がこれだった。
守ろうとした人々に、家族は殺された。
その時気づいた。
ときに人間は愚かで、愚かな人間は決して人には戻れぬのだと。
そして妻子を守れなかった自分も、もう救われない。何も救えない。
正義は人を殺すのだ。
♢
そしてミランダの処刑が終わり、人々の喧騒がひと段落した頃。
長官は、処刑台の前に立ち尽くしていた。
「……」
そこへ貧民の一人が近づいてきた。
「ありがとうございます、大臣様。悪魔を討ってくださって……!」
長官はその顔を見る。
自分の家族を殺した暴徒と、同じ表情だった。
(……ああ。儂は、また間違えたのだな)
胸の奥にずしりと錘がのしかかる。
だが、もう戻れない。
彼は正義を歪めたまま、それを支えに生きるしかなくなっていた。
♢
ナディアは、処刑後の安置所でミランダレットの亡骸の前にいた。
長官が後ろから静かに入ってくる。
「お前はここに居ていい人間ではない。師匠がお前を逃した意味をわかっているのか」
少女は振り向かず、ただ声を震わせた。
「国に、復讐する。わたしはこの恨みを絶対に忘れない」
長官は長椅子に腰掛けると、教会の神の像を見上げる。
自分が歪んでしまったように、彼女もまた歪み始めている。
己の正義を否定され、恨みや怒りだけを抱く。
「お前の師匠はそんなこと望んでない」
「お前に何がわかる!」
ナディアは長官を魔術で壁に叩きつける。
柱にヒビが入るほど叩きつけられ、長官は咳を繰り返しながら患部を撫でた。
「お前はまだ餓鬼だ」
自分には無理だった。
けれど、今ならまだ間に合うかもしれない。
歪み始めた彼女はまだ幼く故に空っぽで、師匠の最後の言葉も、己の黒い感情も。全てが響いて仕方がないのだろう。
「言葉一つ一つに惑わされるな。お前は国外で自分の道を生きろ」
その言葉が余計にナディアを苛立たせる。
「ふざけるな……子供だから何もするなと? 何も思うなと!?」
「違う。現実を冷静に受け止め、状況を鑑みろと言っているんだ」
立ち上がり、棺に近づいていく。
眠るその顔は美しく、’’月の妖精’の名に相応しいものだった。
「お前の師匠がお前に残したかったものはなんだ? 恨みではないだろう?」
ある日ミランダレットが唐突に連れてきた少女は、両親に捨てられたようだった。
奴隷になりかけたこともあったという。
周囲を警戒し威嚇する様子はまるで猫のようだった。
少女は生まれてからずっと人間の黒い側面ばかりに触れてきていた。
ずっと泥水を注がれていたのに、ある日から愛を注がれるようになった。
やがて少女は人並みに成長した。
愛が憎しみを薄めていったのだ。
「何もできなかったことを悔いる気持ちはわかる。だが、幼いことは悪いことばかりではない。憎しみに囚われるな。受けた愛を、憎しみや怒りで包んでしまうのは勿体無いだろう」
「……」
ミランダレットはいつも笑っていた。己の命が尽きるその時も。
国に尽くし、裏切られ、殺された。
残された人間が抱く感情は必然のものだ。
ーーでも。
「師匠を守りたいと思うから、わたしは師匠の意思を継ぐ」
ナディアは涙を拭い、棺の蓋を閉じる。
垣間見えた師匠の顔は、やはりいつものように笑っていた。
自分はまだ幼く、今日見た地獄を簡単に忘れることなんてできない。
一生をかけて愛を、感謝を伝えたかった相手に罵声を浴びせた人を恨まずにはいられない。
けれど同時に、師匠の意思を無視することなんてできない。
⸻恨んでいないと言えば嘘になる。けれど、お師匠さまが知っていたように、わたしも知っている。この国に住まう人たちの優しさや苦しみを。誰よりも恨んでるあなたがそれを望まないのなら、わたしもそれを守ろう。未来に継ぐべきものは恨みや怒りじゃない。確かな歴史だ。二度と繰り返さないように生きるんだ。
「……お礼は言いません。あなたは呪い殺されて然るべき人ですから」
「ああ」
「けど……また、会いに来ます。その時まではちゃんと生きててくださいね」
「……ああ」
老いぼれたかつての忠臣に興味はない。
ナディアにはやるべきことがある。
悪を正し、正義を執行する。
それは時に刃となって無関係な人間を襲うこともあるだろう。
だから、守るべきは法律でも国でもない。
わたしのルールだ。
崇高な目標なんてない。
けれど今はただ、あなたの歩いた道をわたしも進んでいきたい。
たとえその道が暗くて見えにくくなっていても、崩れかけていても。
わたしが歩くから。
だからどうか、道を照らしていてくださいね、お師匠さま。
それと⸻
……ずっと言えなかったけど、大好きです。愛してます、お師匠さま。




