5 嫌がらせ
「ソフィアさん、殿下にこれ持って行ってくれませんか? 王宮の執務室にいると思うんですが、また忘れ物されたみたいで」
カーティスがソフィアに書類の束を渡して言った。これは今日の会議で使う物らしい。
「わかりました」
王族であるウィリアムは、魔術塔と王宮を行き来して仕事をこなしている。ソフィアも城壁内であれば自由に移動できるが、基本的に魔術塔にいることが多く、王宮を訪れることはあまりない。だが、ウィリアムの唯一の弟子であるソフィアは、彼に会うため、時折王宮へ赴くことがあった。
――完璧な方なのに、たまに抜けていらっしゃるのよね。
仕事に関して抜けはないのだが、たまに忘れ物をするので、そのたびにソフィアが王宮へ届けていた。昼間もウィリアムに会えるのは嬉しいのだが、ソフィアは王宮が少し苦手だった。
魔術塔の中では仲の良い弟子と師としていられるが、王宮で見るウィリアムは立派な王族で、自分との身分の差を思い知らされるというのもある。だが、もう一つ最近ソフィアを悩ませている問題があった。
魔術塔から王宮に繋がる廊下を渡り、ウィリアムの部屋に向かっていると、貴族の令嬢たちがこちらに向かって歩いてきていた。
――しまった。
そう思ったが、もう見つかってしまっていた。
「あら、皆様。何か変な匂いがしませんこと?」
「嫌ねぇ、下品でいやらしい匂いがするわ」
美しさを競うように色鮮やかなドレスをまとった令嬢たちが、獲物を見つけたと言わんばかりの目でソフィアを睨みつけている。
「あら、花の魔女がお出ましよ」
「男を漁りに来たのかしら」
ウィリアムは現在二十八歳で、本来なら結婚していてもおかしくない年齢だが、婚約者すらいない。見目麗しく、王弟という高い地位にいるウィリアムに夢中の令嬢は数多く、最近は彼の目に少しでも止まりたいと、執務室のそばをうろついていた。そんな令嬢たちにとって、唯一の弟子としてウィリアムに目をかけられているソフィアは、ひどく厭わしい存在だった。
「見て。まるでドブネズミのような格好ね」
「汚らわしいわ」
魔導師は基本、同じような濃紺のローブを羽織っている。金の刺繍も施されており、華美ではないが洗練された服だとソフィアは思っているのだが、蝶のように美しいドレスを着ている貴族令嬢からすると、ドブネズミに見えるらしい。
――ウィリアム様も魔術塔では、同じものを着ているんだけどな。
だが、彼女たちはウィリアムが着ている場面を見かけても、決してそんなことは言わないだろう。
「そこをどいていただけますか?」
ここを通らないとウィリアムの部屋には行けない。本当は話したくなかったが、ソフィアは仕方なく口を開いた。
「汚らわしい! 誰に向かって口をきいているの?」
「身の程をわきまえない女ね」
――黙っていても、どいてはくれないくせに。
「どいていただけますか?」
ソフィアが言い終わらないうちに、ばしゃっと泥のような物が頭にかかった。
「まあ、見て! ドブネズミがさらに汚くなったわ」
「臭いわね」
ぼたぼたと頭から汚物を垂らすソフィアを見て、彼女たちはそれはそれは楽しそうに笑っていた。最初は軽い嫌味だけだったが、最近はエスカレートしていた。それでも今日のように物を投げつけられたのは初めてだ。
何の汚物かわからないが、鼻が曲がりそうなほど臭い。頭の泥が顔にまで垂れてくる。それでもソフィアは、あえて拭わなかった。
――今、反抗的だと思われると、話が長引く。
怒りよりも、いつ会えるかわからない相手のために、汚泥を用意していたことに呆れ返ってしまう。
「お情けでウィリアム殿下のそばに置いていただいているくせに、調子に乗るんじゃないわよ」
「あー臭い。お前なんて、やはり悪魔がお似合いだわ」
一通りソフィアに罵詈雑言を投げ、汚物まみれになったソフィアを見て、令嬢たちはやっと満足したようだ。
「さあ、その汚れは魔法で取り払いなさい。そうすれば道を開けてあげるわ」
泥を投げたのが自分たちだとウィリアムに知られたくないのだろう。ソフィアは無言で自分に術をかけ、泥を取り去った。
「わかっているわね? ウィリアム様に告げ口しようなど、お考えにならないことよ? わたくしは宰相の娘。お前など、どうにでもできるの」
そう言って、金髪碧眼の美しい令嬢がソフィアを脅し、そのまま踵を返して去っていった。
――何も言われなくても、告げ口などしないのに。
ソフィアは令嬢たちの後ろ姿を見ながらそう思っていた。確かに嫌な気分になるし、やめてほしい。だが、それよりもこんな些細なことでウィリアムを煩わせるのが嫌だった。
――悪口は聞き流せばいいし、泥や汚れは魔術で消せばいい。
「うん、大丈夫!」
ソフィアは深呼吸をし、笑顔を作るとそのままウィリアムの部屋に向かった。