1.繰り返される夢
今でも時折、夢に見る。
それは、鮮烈なまでの『赤』
「逃げて!! ソフィア!」
目の前で、女性の体に魔物の牙が食い込んだ。
真っ赤な花が咲いたように血飛沫が舞い、あたりを濡らす。
「お……かあ、さ……」
魔物たちはその女性を惨殺したが、食べることはしない。
「ウマソウなニンゲン」
「マリョクのタカイオンナ」
飢えた瞳が、やせ細った小さな少女ただ一人へと向けられる。
「クワセロ」
血の匂いが辺りに満ち、死と絶望がじりじりと忍び寄る。
「クワセロォォォォォォォ!!」
異形の魔物たちが、一斉に少女に襲いかかった。
――誰か、助けて。
その瞬間、金色の光がソフィアを包み込んだ。
「ソフィア、ソフィア」
優しく揺すぶられ、ソフィアの意識はゆっくりと浮上した。
「大丈夫? また、あの夢かな」
目を開けると、輝くような銀の髪が視界に入った。
ウィリアム様だ。
「ウィリアム様……?」
全力で走ったかのように心臓が早鐘を打ち、呼吸が乱れる。最近は見なくなっていたはずなのに、十年経った今でも、あの夢を見るとひどくうなされてしまう。
「大丈夫です、少しうなされただけで」
「辛かったね」
彼は、ソフィアとは違う大きな手で額の汗を拭い、子供をあやすように背を叩いてくれた。その温かさに触れて、高鳴っていた心臓が少しずつ落ち着きを取り戻していく。
「ありがとうございます。もう、大丈夫です」
「本当に?」
王族特有の宝石のような紫紺の瞳が、心配そうに細められる。
「はい、本当に大丈夫です」
――だって、あの時も、今も、あなた様が私を守ってくれたから。
ソフィアは、十年前、命を落としかけていたところを、王弟であり帝国の天才魔導士でもあるウィリアムに助けられた。
「子守歌でも歌おうか?」
昔と同じように、冗談めかして彼は言う。
「もう、私子供じゃないんですよ」
「わかったよ。ただし今日の勤務は午前で終わりだ。ダニエラにも伝えておこう」
「そこまで気遣って頂かなくても、私は元気で」
「だめだよ。今日はゆっくり休んで」
ウィリアムは、ソフィアのことを今でも助けた時のままの幼い子供だと思っているのか、とても過保護だ。少しでもソフィアが体調を崩すと飛んできて、仕事を休ませようとする。
「でも……」
「師匠の言うことは、素直に聞いておきなさい」
魔物から助けてくれた後、魔法の師にもなってくれたのだが、そうでなくてもウィリアムは王弟だ。命令すれば平民であるソフィアに拒否権などない。だが、彼はいつもソフィアの意思を尊重してくれていた。
「わかりました」
ウィリアムはソフィアの額に手を置くと、優しい声で囁いた。
「まだ夜中だ。眠りなさい」
じんわりと手の平からウィリアムの魔力が流れてくるのを感じる。これは眠りの魔法。彼の温かい魔力に包まれて、ソフィアは今度こそ悪夢を見ない心地よい眠りに落ちた。
翌朝。意気込んでポーションを調合していると、突然、艶やかな黒髪が印象的な美女が机の下から現れた。
「ソフィア! 聞いたわよ」
「わわっ!」
「大丈夫? 辛いところはない?」
ダニエラと呼ばれた美女は、薬が零れそうになるのもお構いなしに、ソフィアをぎゅうぎゅうと抱きしめてくる。狭い部屋だ。机の上も壁に造りつけられた棚にも、色鮮やかなガラス瓶が何段も並んでいる。中身は一瓶金貨数枚するような高価なものも多く、もし割ってしまえば始末書騒ぎは免れないだろう。ソフィアはそれらを倒さないよう、必死に転ばないように耐えながら答えた。
「ダニエラ様、だ、大丈夫ですから……」
二十代そこそこに見えるこの美女は、帝国魔導士の副長官で指折りの魔女だ。見る者を虜にしてしまう妖艶な美貌だが、年齢は不詳で、城の重鎮によると最低でも百歳は超えているらしい。確かにソフィアが城に来てから全く容姿が変わっていない。
「本当に?」
「はい」
何故机の下から現れたのか疑問に思い床に目を向けると、いつの間にか書かれた転移の術式が展開されていた。
「ダニエラ様、いつ転移の紋を描いたのですか?」
「私にかかればこんなの、ちょちょいのちょいですぐ書けるのよ」
転移はかなりの高等魔術なのだが、ダニエラはソフィアに会う為にと軽く術を展開してしまう。
彼女はソフィアの頭や顔を撫でまわし、顔色も悪くないのを確認してやっと手を離した。
「ソフィアはすぐに無理をするから。ポーションなんて今作らなくてもいいわよ。今日の仕事はもう終わりにしたら?」
「そんなのだめですよ。こんな簡単な仕事、すぐに終わりますから」
今ソフィアが作っているのは、軽い傷などを治すポーションだ。魔導師に成りたての者が任されるような仕事で、上級魔導師であるソフィアが普段作ることではない。ウィリアムがソフィアを気遣って簡単な仕事を割り当てたのだ。
「殿下ったら、何も今日まで仕事させなくても」
ダニエラは不服そうに口を尖らす。ウィリアムもソフィアに対して過保護だが、八歳でこの城にやってきたソフィアの母親代わりになってくれた人なので、ダニエラもソフィアには甘い。
「悪夢を見ただけで仕事を休む人なんて、いないですから」
「本当ソフィアはまじめね。じゃあ私、手伝っちゃう!」
「副長官が下級ポーション作るなんて聞いたことないですよ。それにダニエラ様また自分の仕事、置いてきたんじゃないですか?」
ソフィアがそう言い終わる前に、机の下から隈を作った男が突然現れ、がっしりとダニエラの腕を握って言った。
「ダニエラ様! やはりここでしたね。今日こそ会議に出て事案を通してもらいますからね!」
その男はダニエラの補佐官兼室長のカーティスだ。
「げっ、転移がばれたの!?」
「転移の術みたいな高等技術を、弟子に会うためだけにホイホイとクローゼットの奥に術式仕込むなど、才能の無駄遣いすぎて普通の人間なら気づかないでしょうが、私はあなたの補佐官なので」
カーティスは眼鏡を上げながら得意そうに言う。
「げえ、キモイ」
「じゃあダニエラ様、お仕事頑張ってください」
そう言って手を振ると、ダニエラは悲しそうな顔をした。
「私はソフィアといたいのに〜」
ダニエラは抵抗しているが、カーティスに机の下へとギューギューと押し込まれている。
「何を言ってるんですか! 今大変な時期なのわかってますよね? 行きますよ! じゃあソフィアさん失礼しますね」
ダニエラとカーティスは、そのまま転移の術で退出して行った。二人がいなくなると、一気に部屋が静かになる。
「よし! じゃあ、仕事終えちゃいますか!」
ソフィアはポーションの続きを作り出したが、集中できたので一時間もかからないうちに、規定の量まで作り終えてしまった。まだ昼まで時間がたっぷりとあるが、今日の仕事はもうない。
「……久しぶりに会いにいこうかな」
ソフィアは支度をして、ある場所へ向かうことにした。部屋を出て歩いていると、すれ違う人が声をかけてくれる。
「ソフィアちゃん、今日は早いのね」
「はい」
「一緒にごはん食べる?」
「今日は少し用事があるので、また今度ご一緒させてください」
ここは魔術塔の中だと言うのもあるが、上級魔導師で幼い頃からここに住んでいるソフィアに対して皆とても優しかった。
――私は幸せ者だわ。
長い階段を下り、魔術塔の裏庭に足を向ける。ここは王城の中でも殆ど誰にも知られていない場所だ。ソフィアはある石板の前で足を止めた。
「お母さん、お父さん」
そこにはソフィアの両親が眠っていた。
「私、元気で今日も幸せだよ」
この世界は魔法と魔獣が存在する。魔法が使える人間は、人を癒し、国防の要にもなるため重宝されていたが、魔獣は魔力の高い人間を好んで食べる。その為魔力が確認された者は国が保護していた。結界が張られ、魔獣が入ってこれない王都に連れて来て、そこで魔法を学ばせながら保護するのだ。
国にとっても優秀な魔法使いを他国に奪われないようにできるし、魔法使いにとっても安全と生活が保障され、お互いにとって必要な制度だ。
だがソフィアの母はソフィアを引き渡すことを拒否した。
「……いい天気だね」
見上げると空は青く澄み渡り、雲が穏やかに流れている。あの日も確か、こんな気持ちのいい日だった。
あの日のことをソフィアは思い出していた。