2
第一節:召命
主は人の心を秤にかけられた。
山の塵よりも軽き愛は退けられ、海よりも深い愛を抱く者のみがその胸に抱かれた。
その額に光環を戴かせ、勇者と名づけられた。
主は仰せになった。
「汝、その愛を我に捧げよ」
第五節:竜
竜は愛を持たぬもの。
奪うことしか知らず、捧げることを知らぬ。
ゆえに勇者は、その過剰なる愛をもって竜を討たねばならぬ。
愛を知らぬものよ、愛にて滅びるがよい。
──教会聖典『光環書』勇者の章より一部抜粋
◇
雨音に混じって唾を飲みこむ音が耳の奥でやけに大きく響いた。
同時に、喉の奥から激情が込み上げる。息を吸おうとして、少女は咽せた。
酸欠に霞む頭の中で修道士の声が執拗に反響する。
──愛に報いを求めてはいけません。
──愛を求めてはなりません。
──力を求めてはいけません。
──ただ主に捧げ、愛し、果たしなさい。
それが万物の霊長たる人の責務。選ばれし勇者として生まれた少女の本質。
だから、感謝すべきなのだ。無償の愛を、褒め称えるべきなのだ。
だというのに。
初めて外気を吸う赤子のように、たどたどしく呼吸を繰り返すたびに、激情が喉元まで込み上げてくる。
細い声が、こぼれ落ちた。
「返して……!」
ガラスに爪を立てたような、歪んだ音だった。
自分がこれほどの声を出せるとは、少女自身思っていなかった。向かいに立つ女性も、わずかに目を見開く。
堰を切った激情に身を任せるまま、少女は地面に転がる剣を掴んだ。
刃は欠け、柄にはひびが走っている。数合と持つとは思えない。それすら判断できぬほど、心はひび割れていた。
「それは……私の……」
声が震える。
数え切れぬ年月をかけ、肉体の奥底に馴染むまで染み込ませてきた剣術。その手は今、習いたての騎士見習いのように、小刻みに震えていた。
ぬかるみに足を取られ、よろめきながらも、剣を振り上げる。
遅い。
軌道は単純で、防御の必要すらない。
女性は僅かに身体を傾けただけだった。
剣は虚空を切り、少女は頭から泥の中に倒れ込む。
「…だめ、…わたしの、なの…!」
譫言めいた呟きを零し、涙と泥で顔を汚しながら、少女は再び立ち上がる。
剣を振りかぶった瞬間、女性が動いた。
最小限の動作で踏み込み、掌底で柄を叩く。剣はあっけなく手を離れた。
「あっ…」
姿勢を崩した刹那、鳩尾に拳が突き込まれた。
内蔵を裏返されるような激痛に、少女は膝から崩れ落ち、そのまま前のめりに倒れ込む。
吐き出した胃の内容物が、雨に溶けていくのをぼんやりと見つめた。
視界が瞬き、雷が弾ける。
意識が遠のく──その直前、冷たい指が触れた気がした。
無意識に。
縋るものを探すように。少女の指が女性のマントの裾を掴む。
引き留められるにはあまりにも弱い力。それでも、女性は動かなかった。
落ちていく瞼を無理やり持ち上げ、少女は女性の顔を見上げる。
滲む視界の中で、女性の、あけぼのの輪郭を捉えた。
「……いか、ない……?」
なぜその言葉が口をついたのか、少女自身も分からない。
先程より、ずっと幼い声だった。
「行きません」
冷たい音声。だが、何故だか、暖かかった。
少女は再び目を閉じて、マントを掴む指にだけ、僅かに力を込めた。
◇
理解できなかった。
あけぼのは、自らのローブを握りしめたまま気絶している少女を横目に、造形室で生成した蜂の巣炭素質燃料を火にくべる。
外は土砂降りの雨。少女を放置するわけにもいかず、近くの洞窟で雨宿りをしている最中であった。
他にすることもなく、あけぼのは邂逅時の記録映像を繰り返し再生していた。
驚愕、僅かな安堵。不安、恐怖、怒り。
安堵しながら不安を抱き、感謝しながら怒りを抱き、脅威が去ってなお恐怖を覚える。
──矛盾。
その語を、あけぼのは知識として知っている。
だが彼女は機械だ。その思考は0と1の集合体。量子揺らぎを用いた演算機構であろうと、2や3が入り込む余地はない。
ゆえに、矛盾を理解できない。
太陽系を超え、複数の銀河系を巡ってなお、地球人は完全な自発思考を持つ人工知能を生み出していない。
「…んぅ…」
思索が堂々巡りに陥っている傍らで、少女が目を覚ました。
薪の爆ぜる音と、洞窟に反響する雨音。
肌寒さを覚え、少女は無意識にマントを引き寄せる。僅かに湿り気を帯びた荒い布の感触が素肌に触れて──素肌?
慌ててマントを捲ると、そこにあるのは何も纏っていない自分の身体だった。
傷一つない、健康そのものの身体。その異常さは、
込み上げる羞恥心の前にあっさり押し流された。
小さく悲鳴を上げ、少女はマントをきつく巻き直し、三角座りになる。
火照った顔の先には、服を剥いだ当人──あけぼのの姿。
「気分はいかがですか?」
責めるでも、逸らすでもなく。
そこにあるのは単なる確認だった。怪我はないか、異常はないか。それ以上でも、それ以下でもない。
「な、何で…?」
何故自分を殺しかけた相手に対し、そんな態度で接することができるのか。少女の問いにあけぼのは表情を変えずに答える。
「服が血と泥で酷い状態でしたので。下着は無事でしたから、乾かしています」
質問の意図とはまるで噛み合わない回答だった。
少女の目線が横へ移り、焚き火の前に木の枝で吊るされた自身の下着と鎧で止まる。
次の瞬間、ぽん、と音がしそうな勢いで再び顔を赤くし、少女は亜音速でそれらをマントの中へ引き込んだ。
中々の反応速度だ。あけぼのは密かに、評価を一段階引き上げた。




