第9話 定期健診
優子の三回忌がひと段落した翌週、淳一は医療センターの待合室に座っていた。朝から降り続いていた雨は止み、窓の外には薄い陽光が差し込んでいたが、館内は少し寒く、消毒液の匂いが漂っている。健康診断の順番を待つ間、淳一は老眼鏡をかけて手元の書類に目を通した。
保険証と問診票を手に持つが、細かい文字が少しぼやけ、心なしか遠く感じる。目をこすりながら書類をめくると、視線が自然と空いている椅子の向こう側へと流れた。誰もが自分の世界に閉じこもり、静かに時間が流れていく。待合室には他の患者も数人座っていたが、誰も言葉を交わすことなく、ただ黙々と待っている。時折、子供が母親に小さく話しかける声が聞こえるが、それもすぐに途切れた。
淳一は書類を膝に置き、背もたれに体を預けた。健康診断は会社からの義務だ。総務の田中が『早めに予約してくださいね』と笑いながら渡してきた案内を思い出す。
優子の病が発覚した春の記憶が頭をよぎり、胸がざわついた。あの時、もっと早く気づいていれば。もっと傍にいてやれば。そんな後悔が、こうして病院に来るたびに蘇る。ふと、隣の席に座る老女が咳き込む音に目をやると、その後ろ姿に優子の面影が重なった。だが、次の瞬間、老女が振り向いた顔は知らない誰かで、淳一は小さく息をついて視線を戻した。
受付のカウンターに立つ女性に、ふと目が留まった。名札には『筒井みさき』と記されている。彼女は、落ち着いた雰囲気で書類を整理しながら、時折、来院する患者に穏やかな声をかけていた。白い制服に包まれた細い背中が、無理なく動いている。その姿を何気なく見つめていると、淳一の胸に懐かしい感覚が呼び起こされた。
優子が生きていた頃も、あの落ち着いた雰囲気で周りのことをそっと支えていた。家族や近所の人々、そして仕事で疲れた自分を。みさきの穏やかな仕草に、優子の微笑みが一瞬重なった気がした。カウンターに置かれたペンを手に取り、書類に何かを書き込む彼女の手元。優子が台所で夕飯の支度をしながら、『味噌汁は濃すぎない方がいいわね』と笑った姿が、なぜか脳裏に浮かんだ。
みさきの動きには、無駄がないのにどこかゆったりとした空気があった。患者が受付に来ると、彼女は顔を上げて小さく頷き、柔らかな声で対応する。その声が待合室に響くたび、淳一は思わず聞き入ってしまう。彼女の存在が、この無機質な空間に微かな温もりを与えているようだった。だが、同時に、何か言いようのない違和感が胸の奥に引っかかった。彼女の落ち着きが、どこか現実離れしているような、不思議な感覚。優子とは似ているようで、どこか違う。そんな思いが頭をよぎるが、すぐに打ち消した。疲れているだけだ、と自分に言い聞かせた。
その時、受付から『佐藤淳一様』と名前が呼ばれた。淳一は立ち上がり、老眼鏡を外してポケットにしまうと、ゆっくりと受付へと向かった。足音がタイルの床に小さく響き、待合室の静寂をわずかに揺らす。カウンターに近づくと、みさきが顔を上げ、静かに微笑んだ。
「佐藤淳一様ですね。こちらでお預かりします」と、柔らかな声で言う。
みさきの視線が一瞬、淳一に留まったような気がした。彼女の瞳は深く、どこか遠くを見ているようで、なのにしっかりとこちらを見つめている。その一瞬に、何かを感じた。驚きとも、懐かしさとも、寂しさともつかない感情が、胸の奥で小さく波打った。
「どうかしましたか?」と、淳一は思わず口にした。
言葉が飛び出した瞬間、自分でも驚いた。みさきは一瞬動きを止め、少し戸惑ったように淳一を見た。その表情に、わずかな影がよぎったように見えたが、すぐに笑顔を作って答えた。
「いえ、失礼しました」と、小さく首を振る。
その声には、どこか安心感を覚える響きがあった。書類を差し出すと、彼女の手が一瞬触れそうな距離で動く。その細い指先が、紙を丁寧に受け取る姿に、淳一はなぜか目を奪われた。
ふと、みさきの動きに微かな不自然さを感じた。彼女が書類を手に持つ瞬間、指先が紙をすり抜けるような、ほんの一瞬の錯覚。光の加減か、それとも疲れた目のせいか。淳一は首を振ってその思いを振り払ったが、心のどこかに引っかかりが残った。だが、その感覚はすぐに過ぎ去り、みさきは何事もなかったかのように、診察の手続きを進めた。書類をファイルに挟み、受付の端末に何かを入力する。彼女の指がキーボードを軽く叩く音が、静かな空間に小さく響く。淳一はその音を聞きながら、なぜか彼女の横顔から目を離せなかった。
その笑顔が、淳一には少し寂しげに映った。いや、寂しげというより、どこか儚い。彼女の瞳に映る光が、まるで現実のものではないような、そんな錯覚を覚えた。だが、そんなはずはない。何も気にすることはない、と自分に言い聞かせながら、淳一は受付を終えて椅子に戻った。みさきは再び書類を手に取り、次の患者の対応を始めた。その背中を見ながら、淳一は膝に置いた書類を握り直した。
診察を待つ間、淳一の視線は自然とみさきに戻っていた。彼女が患者に渡す書類、カウンターのペン、時折髪をかき上げる仕草が、自然と目を引いた。優子に似ているからだろうか。それとも、この無機質な待合室で、彼女だけが生き生きと見えるからか。だが、それだけではない何かがあった。彼女の周りに漂う空気が、他の誰とも違う。静かで、穏やかで、なのにどこか現実から浮いているような。そんな感覚が、淳一の胸に微かな波紋を広げていた。
待合室の時計がカチカチと時を刻む中、淳一はふと思い出した。優子が病室で最期に言った言葉。『あなたが元気でいてくれれば』その言葉が、みさきの柔らかな声と重なった気がした。だが、みさきの声には、優子の温かさとは違う、何か別の響きがあった。懐かしさと同時に、言いようのない寂しさが混じる。それは、まるで遠くから聞こえる風の音のようで、触れようとすれば消えてしまいそうな儚さだった。
診察室への呼び出しが近づき、他の患者が名前を呼ばれて立ち上がるたび、淳一の心は妙に落ち着かなかった。あの短いやり取りが、なぜか胸に残っている。みさきの瞳に一瞬感じた何か。それは、驚きだったのか、懐かしさだったのか、それとも単なる勘違いなのか。彼女を見た瞬間、心の奥に眠っていた何かが揺れ動いた気がした。長い間、誰とも深く関わらず、ただ生きてきた日々に、小さな波が立ったような感覚。だが、それが何を意味するのか、淳一にはまだ分からなかった。
やがて、自分の名前が呼ばれ、淳一は立ち上がった。診察室へ向かう前に、もう一度みさきの方を見た。彼女は別の患者に対応しながら、穏やかに微笑んでいる。その姿が、遠くに霞む風景のように見えた。足音を立てて歩き出すと、彼女の声が背後で小さく響き続けていた。
「次の方、どうぞ」
その声が、なぜか心の奥に染みていく。
診察室のドアを開ける瞬間、淳一は小さく息をついた。あの微かな引っかかりが、何か意味のあるものなのか、それともただの気のせいなのか。答えはまだ見つからない。だが、心の中でその感覚がしばらく消えることはなかった。みさきという存在が、静かに、しかし確かに、淳一の日常に微かな波紋を広げていた。