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第8話 三回忌

 週末の午後、淳一は居間の壁に残された二年前のカレンダーを眺めていた。明日は、優子の三回忌だ。琢磨との電話で決めた日程が、とうとう現実のものとして迫ってきた。この日が来ることへの覚悟は、どこかで無意識に避けていた気持ちだった。カレンダーの数字が目に入るたび、かつて優子と一緒に過ごした日々が確かにあったことを物語っている。

 佳子の誕生日、琢磨の卒業式、家族旅行の予定。優子の細い字で書き込まれたメモが、今は色褪せたインクとなって残っているだけだ。淳一は指でその数字をなぞり、小さく息をついた。避けていた現実を、今は迎えるしかない。


 台所に移動し、淳一は鍋におでんの下ごしらえを始めた。ガスコンロに火をつけると、水が沸き立つ音が静かな部屋に響く。大根を手に取り、包丁で丁寧に皮を剥く。湯気が立ち上り、ほのかな出汁の香りが漂ってきた。ふと、優子の笑顔が頭をよぎる。

『おでんは大根が命よね』と、彼女がよく言っていた言葉が、今でも鮮明に耳に残っている。あの頃、優子は台所に立ち、楽しそうに料理をしていた。佳子が、

『お母さんの味噌汁が一番好き』と笑い、琢磨が小さな手で大根も持ちながらかじっていた。何気ない日常が、今となってはどれほど貴重だったのか。大根を切る手が一瞬止まり、淳一は目を閉じた。あの日々は、もう戻ってはこない。


 鍋に具材を並べながら、淳一は優子の声が聞こえるような錯覚に陥った。

『淳一、味見してね。濃すぎたら駄目よ』

 あの穏やかな笑顔が、目の前に浮かぶ。だが、次の瞬間、静寂が現実を突きつける。台所の隅に置かれた彼女のエプロンは、埃を被ったまま動かない。淳一は鍋を見つめ、胸の奥に疼く痛みを抑えた。三回忌を前に、家族が集まる日が来る。それが、優子を偲ぶ最後の機会になるかもしれない。


 午後になり、玄関のチャイムが鳴った。淳一は手を拭き、足を止めて顔を上げると、ドアが開く音が聞こえた。琢磨が作業着の上にコートを羽織って姿を見せた。少し疲れた顔に、汗が滲んでいる。

「父さん、早めに着いたよ」と、彼は小さく笑った。

「お前も忙しいのに、悪いな」

 淳一は近づきながら答えると、琢磨は軽く首を振った。

「母さんのためだし。気にしないでよ」

 その言葉に、淳一は少しだけ胸が温かくなる気がした。琢磨の目には、優子の優しさが宿っているようだった。


 しばらくして、佳子が黒いコートを着て玄関に現れた。小さな会釈をしながら入ってくる。

「佳子、来てくれたのか?」と淳一が声をかけると、彼女は淡々と答えた。

「うん、まあ。琢磨が来るって言うから」

 その声は冷たく、距離を感じさせた。淳一は彼女の視線を避け、内心で小さく息をついた。佳子の冷たさは、優子の死以来ずっと続いている。あの日の病室で、彼女が『お父さんを待ってたのよ』と泣いた声が、今でも耳に残っている。


 居間の座卓には、おでんと共に簡単なつまみが並べられた。家族が揃うのは、優子の葬儀以来だ。琢磨がコートを脱ぎ、座卓に腰を下ろすと、

「懐かしい匂いだね」と呟いた。淳一は頷き、

「母さんが好きだったからな」と答えた。

 佳子は仏壇の前に立ち、母の形見である緑色のショールをじっと見つめていた。 

 静かな時間が流れる。琢磨が何気なく言った。

「母さんの好きな色だったね」

 その言葉に、佳子は静かに頷いたが、すぐに鋭い口調が続いた。

「父さんが仕事ばっかりだったから、帰りを待っている間、母さんが一人で編んでたよね」

 

 その言葉が、淳一の胸に突き刺さった。箸を止め、少しだけ目を伏せる。

『そうだな。俺がもっと家にいれば良かった』と、心の中で反省が浮かんだ。

 だが、言葉には出せなかった。何度も考えてきたことだ。優子の病が分かった時、もっと仕事を減らしていれば。彼女の最期に間に合っていれば。だが、今さら言ってもどうにもならない。佳子の視線が冷たく感じられ、淳一は黙って湯呑を手に取った。

 佳子はさらに冷たく言い放った。

「今さら言ってもね」と冷たく言い放ち、

「仕事があるから。もう帰るね」

 そう言って立ち上がり、無理に微笑みながらその場を離れた。

「もう少し…」

 琢磨が引き留めようとしたが、佳子は背を向けた。玄関へ向かうその姿に、淳一は何故か、優子の面影を重ねてしまった。家族との距離がどんどん広がっていくのを、ただ見ているしかなかった。優子を亡くしたあの時と、同じ感覚が蘇る。


 琢磨が小さく溜息をつき、

「姉さん、相変わらずだな」と呟いた。

 淳一は少しだけ肩を落とし、残ったおでんを無言で見つめた。家族の間に横たわる無言の溝が、また一層深くなった気がした。それでも、明日は三回忌。優子が愛した日常を、少しでも取り戻すために、また一歩踏み出さなければならない。それが家族として、父として、最後にできることなのだろう。


 翌日。静かな春の空に、薄い雲が流れていた。朝方まで弱い雨が降っていたが、やっと止んでくれた。午前中から、淳一の家には親戚が集まり、控えめながらも厳かな雰囲気の中、優子の三回忌の法要が執り行われた。親戚一同で、お寺の本堂に足を踏み入れると、読経の声が低く響き、香の煙が淡く立ち上った。淳一は仏壇の前に座り、合掌して目を閉じた。優子の遺影が静かにこちらを見つめている。 

 あれから二年が経つのだという実感が、今日になってようやく現実のものとして迫ってきた。彼女の笑顔が、胸の奥に鮮やかに浮かぶ。だが、その隣には、病室で冷たくなった彼女の手の感触も重なる。

 法要が進む中、親戚たちが静かに手を合わせる。琢磨は僧侶の横で供物を整え、佳子は少し離れた席で無表情に座っていた。読経の声が途切れると、静寂が本堂を包んだ。淳一は目を閉じたまま、優子に語りかけるように心の中で呟いた。

「佳子も琢磨も来てくれたよ。少しぎこちないけど、こうやって集まれた」

 その思いが、どこか彼女に届いている気がした。


 法要の後、親族一同で寺の控室に集まり、簡単な会食が行われた。折り詰めの弁当を配り、親戚たちが静かに言葉を交わす。琢磨は叔父と穏やかに話し、佳子は必要最低限の会話だけを済ませていた。淳一は落ち着かない気持ちのまま、湯呑を手に持つ。何気なく見ると、佳子が仏前に供えた小さな白い花をそっと整えている姿が目に入った。彼女の手が花に触れる一瞬に、優子の優しさが重なり、淳一の胸に小さな感謝が芽生えた。あの冷たい態度の中にも、母への思いが残っている。そんな希望が、微かに灯った。


 夕方近く、すべての行事が終わり、家には再び三人だけが戻った。居間の仏壇には、新しい花と供物が並び、優子の遺影が静かに家族を見守っていた。窓の外では、冬の陽が沈みかけ、薄暗い空に街灯が灯り始めている。琢磨が座卓に腰を下ろし、

「…静かだったな、今年は」とぽつりと言った。

淳一は小さく頷き、湯呑を手に取った。

「皆、よく来てくれた。母さんも喜んでると思う」

 その言葉に、自分を励ますような響きがあった。

 佳子は仏壇の前に正座したまま、小さな声で、

「そうだといいけどね」と呟いた。

 彼女の視線は遺影から離れず、その横顔には何とも言えない寂しさが滲んでいた。長い髪が頬に落ち、彼女がそれを払う仕草に、優子の癖が重なる。淳一はその姿を見つめ、胸が締め付けられるのを感じた。


 しばし沈黙が流れた。時計の針の音が、やけに耳に響く。琢磨が言葉を探すように口を開いた。

「姉さん、もうちょっとゆっくりすればいいのに」

 その声に、気遣いが滲んでいる。

 佳子はふっと息をつくように笑みを浮かべ、

「そろそろ帰るよ。明日、朝から仕事だし」と答えた。

 すっと立ち上がり、コートを手に取る。その動きに、迷いはない。

「そうか…。忙しいんだな」。

 淳一が言葉をかけたが、佳子はそれに答えず、仏壇に一礼した。

「じゃあね」と小さく呟き、玄関へ向かった。


「送ろうか?」と琢磨が言うと、佳子は振り返らずに首を振った。

「いい。タクシー呼んでるから」

 扉が静かに閉まる音が響き、居間に再び二人だけが残された。

 淳一はその音を聞きながら、胸の奥に小さな痛みを感じた。佳子の背中は冷たく、遠く、優子の最期を思い起こさせるものだった。


 琢磨が小さく溜息をつき、

「父さん…大丈夫か?」と尋ねた。

「ああ、大丈夫だ。こうしてまた、みんなで集まれたんだから」

 淳一は少し笑い、答えた。だが、その声には微かな震えがあった。

 窓の外では、春の夕暮れが迫っていた。薄暗い空に、かすかな明かりが灯り始める。優子が愛した家に、今日も静かな夜が訪れようとしていた。仏壇の花が揺れ、遺影の優子が穏やかに微笑んでいるように見えた。

『もう少し、頑張るよ、優子』

 淳一はその笑顔を見つめ、心の中で小さく呟いた。


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