第6話 近所
翌朝も、淳一は目覚ましが鳴る前に目を覚ました。昨夜は眠ったというより、ただ時間が過ぎただけのような気がした。体は重く、頭の奥に疲れが残っている。ベッドから抜け出し、冷え切った部屋で肩をすぼめると、窓の外はまだ薄暗い。カーテンの隙間から漏れる朝の光は弱々しく、冬の厳しさを静かに告げていた。カーテンを少し開けると、夜の間にまた雪が降ったようで、屋根や歩道が白く染まっていた。住宅街の輪郭が柔らかくぼやけ、真っ白な世界が広がっている。
窓ガラスに映る自分の顔を一瞥し、淳一は小さく息をついた。白髪が目立つ髪、深く刻まれた皺。58歳という歳を、鏡で見るたびに実感させられる。ふと、遠い記憶が蘇る。若い頃、優子と出かけた雪景色の温泉旅行だ。駅のホームで食べた肉まんの湯気が冷えた手を温め、優子が『熱いから気をつけてね』と笑った声が耳に響く。雪に埋もれた道を手をつないで歩き、宿の窓から見えた白銀の世界が、二人の未来を祝福しているようだった。
あの頃は、こんな静かな朝でも、隣に彼女がいて、些細な会話で心が満たされていた。今となっては、まるで他人の記憶のように遠く、触れられない幻のように感じられる。
そのとき、玄関のチャイムが鳴った。こんな朝早くに誰だろうと訝しく思いながら、淳一はスリッパを履いて玄関へ向かった。冷たいフローリングが足裏に染み、肩をすくめながらドアに手をかける。扉を開けると、そこには近所の小学生の女の子が立っていた。手には、昨日落としたらしい手袋を握っている。赤いマフラーを巻いた小さな姿が、雪の白さに映えていた。
「これ、佐藤さんのじゃないかなって…おばあちゃんが言ってたの」と、女の子は小さな声で言った。恥ずかしそうに目を伏せながら、手袋を差し出す。
淳一はそれを受け取り、確かに自分のものだと気づいた。昨日、会社からの帰りに鍵を取り出したとき、コートのポケットにしまったつもりだったが、気づかずに落としたのだろう。濃いグレーのウールの手袋は、少し雪に濡れて冷たくなっていた。
「ありがとう。助かったよ」と微笑む。自分でも驚くほど柔らかい声だった。
女の子は小さく頷き、
「うん…じゃあ、行ってきます!」と笑顔を見せて走り去った。
雪を踏む軽やかな足音が、朝の静寂に小さく響き、やがて遠ざかっていった。
淳一は玄関に立ち尽くし、手袋を握ったまま少女の背中を見送った。彼女の名前も、近所の誰の子かも知らない。優子が生きていれば、
『あの子、田中さんの孫よね』と笑いながら教えてくれたかもしれない。
かつては近所付き合いもあったこの家で、優子は子供たちに手を振ったり、近隣の奥さんたちと立ち話をしたりしていた。だが、今はそんな繋がりも薄れ、淳一自身、誰かと顔を合わせることもほとんどなくなっていた。
それでも、知らない誰かが自分のことを気にかけてくれている。そのささやかな事実が、凍りついた心をわずかに溶かした気がした。
ドアを閉め、リビングに戻ると、淳一は手袋をテーブルの上に置いた。冷たい感触が指先に残り、ふと昨日の帰り道を思い出す。雪の残る道を一人歩きながら、電車の中で感じた『どこか遠くへ行きたい』という衝動が頭をよぎった。
あの時、手袋を落としたことにも気づかず、ただ家に帰ることだけを考えていた。誰かが拾ってくれるなんて、思いもしなかった。
ゴミを出すまで、まだ少し時間があった。淳一はゴミ袋を手に外へ出た。雪が薄く積もった路地が広がり、朝の静けさが辺りを包んでいる。ゴミ捨て場まで歩く間、近所の家の窓から漏れる明かりが目に入った。カーテンの隙間から、家族が朝食を囲む姿がちらりと見える。子供の笑い声が微かに聞こえ、淳一は思わず立ち止まった。
あの頃、佳子と琢磨が庭で雪だるまを作っていた冬を思い出す。優子が『手袋しないと冷たいよ』と言いながら笑い、出来の悪い雪だるまに目を細めていた。あの笑い声が響いた庭は、今では雪に埋もれ、誰も踏み入れていない。
角を曲がると、近所の老夫婦が玄関先で雪かきをしていた。老女が顔を上げ、淳一に気づくと小さく手を振った。
「佐藤さん、寒いねえ」と声をかけてくる。
淳一は軽く会釈し、「そうですね。お気をつけて」と答えた。
老夫がスコップを手に雪を掻き分けながら、
「孫が手袋拾ったんだよ。佐藤さんのだろ?」と笑う。
女の子の祖母だったのか、と淳一は内心で納得した。
「ええ、おかげさまで」と返すと、
「優子さんがいた頃は、よく声かけてくれたよ」と懐かしそうに言った。
その一言に、淳一の胸がちくりと疼いた。
「そうでしたね」とだけ答え、ゴミ袋を捨てて踵を返す。
短い会話が終わり、再び一人歩き出した。かつては優子と一緒に近所を散歩した道だ。彼女が『春になったら花壇をもう少し賑やかにしようね』と言っていた花壇は、今では雪の下に埋もれ、雑草すら枯れている。優子が近所の子供たちに『大きくなったね』と笑いかけ、老夫婦と世間話を交わしていた姿が、遠い記憶として蘇る。あの頃は、自分もその輪の中にいた。今はただ、通り過ぎるだけの存在だ。
歩きながら、淳一はポケットに手を入れた。手袋の冷たさがまだ残っている。女の子の笑顔と、老女の懐かしい口調が、頭の中で交錯する。誰かと繋がっている感覚。それは、優子がいた頃には当たり前だったものだ。彼女がこの家を温かく保ち、家族を、近所を繋いでいた。今はその役割を果たす人がおらず、淳一自身、そんな繋がりを求める気力も失っていた。それでも、今日の朝、知らない少女が手袋を届けてくれた。その小さな行為が、凍てついた日常に微かな風を吹き込んだ気がした。
家に戻ると、淳一はゴミ袋を置いて窓辺に立った。外では、雪が再びちらつき始めていた。遠くで、女の子が友達と合流し、学校へと向かう姿が見える。赤いマフラーと小さなランドセルが、雪の中で小さく揺れている。彼女たちの笑い声が風に乗り、かすかに耳に届いた。あの声に、佳子と琢磨の幼い頃が重なる。佳子が『雪だるま作ろう!』と庭に飛び出し、琢磨が小さな手で雪を丸めていた日々。あの頃、家族は一つだった。優子の笑顔が、その中心にあった。
窓ガラスに手を当てると、冷たさが掌に染みる。ふと、佳子の顔が浮かんだ。最後に会ったのはいつだったか。優子の葬儀の後、彼女は実家に寄り付かなくなり、あれから一年間、家族が揃うことは無かった。三回忌が近づいている今、ちゃんと話せるだろうか。琢磨は気遣って電話をくれるが、佳子は違う。彼女の冷たい視線と、『仕事がそんなに大事だったの?』という言葉が、今でも胸に突き刺さっている。