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第4話 仕事Ⅰ

 目覚まし時計のアラームが鳴り響く前に、淳一は目を覚ました。窓の外はまだ薄暗く、カーテン越しの朝の光は、頼りなく揺れている。枕元に置かれた時計の針は、午前五時五十五分を指している。あと五分寝ていてもよかったが、再び眠れる気はしなかった。

 冷え切った部屋で布団から抜け出すと、冷えたフローリングが体の芯まで冷たさを伝えてきた。足元の冷たさに肩をすぼめながら洗面所へと向かい、蛇口をひねって冷たい水で顔を洗う。目が覚めたはずなのに、頭の奥がまだぼんやりしている。鏡の中には、深く刻まれた皺と、白髪の混じった髪をした男が映っていた。最近、目の下のくまが濃くなった気がする。


 キッチンに入ると、インスタントコーヒーにポットのお湯を注ぐ。昨夜の総菜の残り物を弁当箱に無造作に放り込み、彩りなど考えもしなかった。優子が居なくなってからは、朝食を取らなくなった。コーヒーを飲みながら、弁当箱と箸箱をカバンの中に入れると、ふと窓の外を眺めた。夜の間に降ったのか、屋根の上には雪が静かに積もっている。通勤路の歩道も白く染まり、まだ誰の足跡もない。


 スーツに袖を通し、ネクタイを選ぶ。今日は紺色のものを手に取った。優子が「その色、似合うわよ」と言ってくれたものだった。今でも、ふと、耳元に彼女の声が蘇ることがある。鏡の前で結び目を整える手つきは、もう慣れたものだが、鏡に映る自分の姿が、誰に見せるでもないことに気づき、空しさがこみ上げる。

 リビングの仏壇の前に立ち、コップに水を注いで供える。優子の写真は、変わらぬ笑顔でこちらを見ていた。

「行ってきます」と小さく呟き、深く頭を下げた。リビングに響くその声が、妙に大きく感じられた。


 玄関に立ち、上着を羽織ると、いつものように手袋とマフラーを身につけた。ドアを開けると、冷たい空気が一気に流れ込み、頬に触れた。辺りは静まり返っており、雪を踏みしめる音だけが響く。

 最寄り駅までは徒歩で十五分。街灯の明かりがまだ残る中、淳一はコートの襟を立てて歩いた。雪が積もった道は滑りやすく、足元に気を遣いながら進む。途中、通学途中の高校生たちが楽しげに笑い合いながら追い抜いていく。その明るさが少し眩しくて、思わず視線を逸らした。


 駅に着くと、ホームにはすでに何人もの通勤客が並んでいた。皆、無言のままスマートフォンを見つめたり、手をポケットに突っ込んで寒さを耐えている。電車がホームに滑り込む音と、扉の開く音。人々が流れるように乗り込み、淳一もその中に紛れた。

 車内は暖かく、曇った窓に外の景色はほとんど映らない。優子が生きていた頃は、朝の車内でも『今夜は何を食べようか』とか『週末はどこに行こうか』といった些細なことを考える余裕があった。今はただ、目を閉じて揺れに身を任せていた。時が流れても、誰かを思う気持ちが消えることはない。ただ、その形が変わっただけだった。


 会社まではおよそ四十分の道のり。目的地へ着いても、そこに『何か』が待っているわけではない。ただ、一日をやり過ごすために、今日もまた出勤する。そんな気持ちを押し込めながら、淳一は揺れる電車の中で静かに息を吐いた。


 会社に着くと、デスクには書類の山が待っていた。課長という肩書は、定年を目前にした今では重くのしかかる。若い頃のような体力はない。それでも、働くことは、自分にとって生きる意味の一つだった。淳一が席に着くと、 部下の田中が近づいてきた。

「佐藤課長、おはようございます。昨日の報告書、見ていただけましたか?」

「おはよう。あの報告書は、午前中に目を通しておくよ」

 そう答えながら、心の中では今日の残業を覚悟していた。仕事熱心であることは、若い頃からの習慣だ。 

 パソコンを起動し、画面に映る数字と文字を眺めながら、かつての自分を思い出す。十六歳で父を失い、工場でのアルバイトを始めたあの冬。機械油の匂いが染みついた手で、母に給料を渡した時の安堵感。大学に進学せず、母と弟たちを養うために就職したあの頃から、会社は自分の居場所だった。そして、働くことが生きる意味だった。


 休憩時間になると、田中の周りに数人が集まってきて、スマートフォンを囲んで盛り上がっていた。最新の配信ドラマの話らしく、何やら芸人の真似をして笑い合っている。

「それってハラスメントじゃん。コンプライアンス的にアウトでしょ?」

 誰かが冗談めかして言うと、

「確かに。今の時代は厳しいからな」

「社内の話じゃないんだから、まあいいだろ。最近はどこも昔みたいに振る舞えなくなってきてるけどさ」

「いや、時代がそうなんだから従うしかないよな。業務でも気にする項目の一つだし」

 若い社員たちはそんな会話を交わしながら、どこか慣れた調子で笑いを続けていた。

 確かに、職場内での振る舞いも、昔とは違う。気をつけるべきことが増え、軽い冗談すら慎重に選ばねばならない時代になった。それが当然なのだと理解していても、息苦しさを感じることもある。

 淳一は彼らの方を一瞥したが、話には加わらず、ただ黙って席から離れて行った。


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