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第3話 琢磨


 優子の入院生活が始まった頃、淳一は仕事を終えると、毎日のように病院へ通った。病室のカーテン越しに差し込む柔らかな陽射し、消毒液の匂い、そして点滴の滴る音―それらが、彼の新しい日常になっていた。

 

『何か必要なものはないか?』

 病室の椅子に腰を下ろすたび、淳一は決まってそう尋ねた。

『ありがとう。もう十分よ』

 優子は穏やかな笑みを浮かべて首を振った

 家のことも、料理も洗濯も、すべて優子に頼りきりだった淳一にとって、彼女の不在は、生活の根幹が失われたも同然だった。病室で過ごす時間は、家のことや自分の無力さを優子に打ち明けることで過ぎていった。


『なあ、早く良くなって、家に帰ってきてくれ。俺一人じゃ、何もできやしない』

 手を握る淳一の声は、冗談めかしながらも本気だった。優子は穏やかに微笑みながら、時折咳をこらえていた。

『あなた、結婚した頃からずっとそう言ってたわね』

 優子は懐かしそうに目を細めた。

『でもね、あなたなら一人でもやっていける。私は、そう思ってるの』

 その言葉に、淳一はふと胸が詰まった。優子は自分の体の変化や日々衰えていく現実を感じながらも、希望的な言葉を口にすることはなかった。淳一にとっては、彼女が病と闘う姿を見るだけで精一杯だった。だが、優子はすでに悟っていたのだ。自分にはもう、多くの時間が残されていないことを。

 

『大丈夫よ、あなた。いざとなったら、琢磨も佳子もいるんだから』

 ある日の夕暮れ時、窓の外が茜色に染まる中、優子は痩せた手で毛布をぎゅっと握りながら、ぽつりと言った。その声はかすかだったが、はっきりと耳に届いた。

 淳一は胸の奥が締めつけられる思いで、彼女の顔を見つめた。

『仕事を休んでも、辞めてもいい。お前の傍にいてやりたい』

 喉に詰まるものをこらえ、淳一はそう告げた。

 だが、優子は小さく首を振った。静かに、しかし確かな意志を持って。

『もう、いいの。あなたが元気でいてくれれば、それで』


 優子の入院生活は、病の進行を緩やかに抑えるための治療が中心だった。抗がん剤の副作用で髪が抜け、痩せていく体を支えるのは、点滴と流動食だけの日々。それでも優子は弱音を吐かなかった。淳一は毎晩病院へ通い、短い時間でも傍にいることを日課にしていた。日々の見舞いの中で、二人はささやかな話をよく交わした。昔のこと、子どもたちの成長、そしてこれからのこと―。


『あなた、私がいなくなっても、ご飯ちゃんと食べるのよ?』

 ある夜、痩せた頬に微笑を浮かべ、優子は茶目っ気のある口調で言った。

『心配するな。冷凍食品とコンビニで何とかなるさ』

 苦笑いする淳一に、優子は首を振って言い返す。

『違うのよ。そういうことじゃない。ちゃんと…誰かに、頼ってもいいから

私の分も長生きしてね』

 その瞳は、どこか遠くを見ているようだった。


 半年という月日が流れ、春が近づいてきた頃、優子の容態は急速に悪化していた。だが、病院からの連絡はなかった。医師は『今夜が山場です』とは言わなかった。むしろ、ここ数日の体調は落ち着いている、と淳一は聞かされていた。


 その日、淳一は仕事だった。大きな案件の締切が近く、どうしても休めない事情があった。

『また、夕方顔を出すからな』

 朝、病室に顔を出した時、優子は微笑んで頷いた。声を出すのもつらそうだったが、その瞳は穏やかだった。

 午後になって、たまたま佳子が見舞いに来た。仕事の合間を縫っての短い時間だった。ベッドに寄り添い、優子の手を握ったその時、彼女の呼吸が浅く、苦しそうに変わっていった。

『お母さん、大丈夫?』

 佳子が慌てて看護師を呼ぶと、駆けつけた医師が応急処置を始めた。酸素マスクが顔に押し当てられ、機械の鋭い電子音が響く。だが、優子の胸の動きは徐々に弱まり、やがて静かになった。佳子は震える手で母の手を握り、『お父さんを…待ってたのに』と呟いた。


 連絡を受けた淳一が病室に駆けつけた時には、すでに優子は白い布の下で静かに横たわっていた。顔を覆うシーツをめくり、彼は冷たくなった手を握った。泣き叫ぶことも、言葉を発することもできなかった。

『間に合わなかった……』

 その場にいた佳子は、こわばった表情のまま、ぽつりと呟いた。

『なんですぐに来られなかったのよ。本当に仕事がそんなに大事だったの? 電話したって無駄なくらい…』

 その声には怒りと哀しみ、そして父への失望が滲んでいた。

『お母さん、待ってたのよ…お父さんを…』

 その言葉に、淳一は目を伏せた。反論する気力もなく、ただ胸の奥で何かが砕ける音がした。そして、今も淳一の胸に深く突き刺さっている。

 

 葬儀の後、家に帰った時の静けさが、今後も続いていくことの不安が淳一を締め付けるのだった。

 それからの二年間、仕事と家の往復だけの生活が続いた。会社では同僚とそれなりに言葉を交わしつつも、心はどこか空っぽだった。定年まであと数年と迫った立場では、若手の指導や書類整理に追われる日々だ。それでも、家に帰れば一人きり。最初の頃は、優子の不在が胸を締め付けたが、今では慣れた。いや、慣れたと思っているだけなのかもしれない。夜が更けるにつれ、家の壁が少しずつ自分を押し潰してくるような感覚が、時折襲ってくる。

 

 そんなとき、テーブルの上で携帯が震えた。振動音が妙に耳につく静けさの中、ディスプレイに映った【琢磨】の文字を見て、淳一は小さく息をついた。

「…もしもし」

「父さん、俺」

 琢磨の声はいつもより硬く、迷いを帯びていた。淳一は息子もまだ悲しみを抱えていると分かり、残された家族が同じ痛みを共有していることを感じた。電話越しに、部屋のざわめきや足音が微かに聞こえる。職場の休憩中か、それとも帰り道だろうか。


「どうした?」

 問いかけに、ほんの一拍の沈黙。そして、ためらいがちな声が返ってきた。

「母さんの三回忌のこと…そろそろ決めないといけないと思って」

 言葉の端がかすかに震えた。淳一は、胸の奥が締め付けられるような感覚に襲われた。(―ああ、そうか。もう、そんなに…)

 暦を確認するまでもなく、二年という歳月が流れたことは分かっていた。それでも、こうして息子の口から『三回忌』という言葉を聞かされると、現実が冷たく心に突き刺さった。時計の針が止まったままのように感じていたが、時は確かに進んでいる。


「…そうだな」

 そう答えながら、ふと気になったことを口にした。

「佳子には?」

「いや…まだ連絡してない。父さんが話してくれるなら、それでもいいけど」

 琢磨の声には、佳子との距離感を思いやるような、あるいは迷惑をかけたくないという気遣いが滲んでいた。いつも周囲を見て、空気を読む子だった  それが、かえって淳一の胸を打った。

「いや、私から話してみる」 と答えながら、淳一は受話器を握る手に力を込めた。琢磨の気遣いが、優子の『大丈夫よ』という言葉を思い出させ、胸が熱くなる。 電話を切ると、淳一はしばらく受話器を持ったまま、動けずにいた。

 まぶたを閉じれば、優子の笑顔が浮かぶ。そのすぐ後に、冷たく目をそらす佳子の表情がよぎる。

『琢磨も佳子もいるんだから』

 優子が最期に言ったあの言葉が、静かに胸を叩いた。


 家族は、きっと大丈夫。優子はそう信じて旅立った。でも、現実はどうだ? 琢磨はまだ父を気遣い、連絡をくれる。けれど佳子は…。もう、どれくらい顔を見ていないだろうか。最後に言葉を交わしたのは、いつだったかさえ思い出せない。

 家族がバラバラになったわけではない。ただ、それぞれが違う時間を生き、違う場所に向かって歩き始めている。

 その歩みが、再び交わる日が来るのだろうか。

 

 電話を置いたばかりの手がまだ冷たく、受話器の感触が指に残っている。洗面台に立つと、鏡に映る自分の顔は疲れ果てた58歳の男のものだった。染めるのも億劫になった白髪を指で梳き、深いため息をついた。浴室から漂う湯気が鏡をゆっくりと曇らせ、映った姿が薄れていく。手を伸ばして拭おうとしたが、やめてそのまま目を伏せた。曇った鏡の向こうで、静寂だけが重く響いた。


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