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第2話 優子

 淳一が優子と初めて言葉を交わしたのは、春の日差しが柔らかく差し込む社屋の廊下だった。新入社員の入社式が終わり、緊張気味の若者たちが先輩社員に挨拶して回る中、控えめに頭を下げた優子の姿に、ふと目が留まった。黒髪を後ろで束ねた清楚な印象の女性で、目が合った瞬間に、小さく微笑んだ。その笑顔は、初めて会ったはずなのにどこか温かく、淳一の胸にそっと響いた。淳一は、その光景を鮮明に覚えていた。あの何気ない出会いが、やがて人生の支えになるとは、夢にも思わなかった。


 それから数日後、優子が配属されたのは、偶然にも淳一が所属する部署だった。まだ事務作業に慣れない彼女を、周囲が温かく見守る中、淳一はどこかぎこちない態度で接していた。男子校育ちで、女兄弟もおらず、女性との距離感が掴めずにいた淳一は、挨拶一つするにも妙に緊張してしまう。優子がふと淳一の手元を覗き込んで、『佐藤さん、字がきれいですね』と笑ったとき、その一言に顔が熱くなるのを感じながら、『いや、そんなことないよ』と目を逸らした。女子とまともに話した記憶すらない自分が、こんな言葉に動揺するなんて、と内心で苦笑した。


 淳一が家族を背負うことになったのは、十六歳の冬だった。父が急な病で倒れ、残された母と弟との生活は、一気に現実の重みを増した。高校の授業が終われば、近くの工場でアルバイト。機械油の匂いが染みついた作業着を母に洗ってもらい、また次の日へ。進学の夢を諦めることに未練がなかったわけではないが、それよりも目の前の暮らしを守ることが先だった。

 だからこそ、地元の企業に就職が決まった時は、ようやく家に安定をもたらせるという安心感があった。そして、その職場で出会ったのが優子だった。

 当時の優子には、大学時代から付き合っていた恋人がいたことを、淳一は周囲の噂で知った。気さくで誰にでも優しい性格ゆえ、職場でも人気があった優子には、自然と人が集まっていた。優子は、活動的な女性で、冬にはスキーを楽しんだり、夏にはバーベキューなど社内外の友人達と青春を謳歌していた。淳一は、そんな彼女を遠くから眺めているだけだった。だが、彼女のちょっとした仕草や笑顔に触れるたびに、心の奥で何かがゆっくりと膨らんでいくのを感じていた。

 恋愛に不器用な淳一は、想いを告げることもできず、ただ黙々と仕事に打ち込んだ。時折、優子が困っている様子を見ると、言葉少なに手を貸した。道具の場所を教えたり、書類の整理を手伝ったり。優子はそんな淳一に、『佐藤さんって、本当に頼りになりますね』と、優子は屈託のない笑顔を向けた。その一言が、日々の励みだった。


 やがて、優子の恋人とはうまくいかなくなったと、彼女自身の口から聞いたのは、入社して3年目のある雨の日。職場の飲み会で偶然帰りが一緒になり、駅までの道すがら、小さく呟くように打ち明けてくれた。

『…なんだか、気持ちがすれ違ってきてて。もう、別れるかもしれません』


 その言葉に、淳一はすぐには何も言えなかった。ただ、濡れた歩道を歩きながら、『そうか』と呟いた自分の声が、やけに冷たく響いたのを覚えている。

 その後、二人は少しずつ距離を縮めていった。淳一の一途な性格、黙々と支える姿勢に、優子も次第に心を許していったのだろう。今思えば、活動的な優子と対照的な淳一が何故付き合うことになったのかも不思議であった。入社から4年後、優子が25歳、淳一が27歳の春、二人は同棲を始め、ほどなくして入籍した。

『少し地味な生活になりそうね』と笑った優子に、

『派手なのは僕に似合わないさ』と照れくさそうに答えた記憶が、今でも鮮やかに胸に残っている。


『病院の健診を受けようかと思うの』

 優子がそう切り出したのは、三年前の春の陽射しが柔らかくなり始めたある休日の朝だった。淳一が新聞を広げ、コーヒーの湯気がほのかに立ちのぼる食卓でのことだった。何気ない口調ではあったが、妙に言葉を選ぶようなその言い方が、淳一の耳に残った。

『琢磨も高校を卒業して、少し手が離れたしね。そろそろちゃんと診てもらおうかと思って』

 優子はそう言いながら、湯呑みを手に取って口をつけた。その動作にいつもと変わった様子はなく、むしろ普段より穏やかな笑顔だった。


『そうか。健診なんて受けてなかったしな。たまにはそういうのも大事だな』

 何気なく相槌を打ったが、そのときは深く考えることはなかった。

 思えば、その頃から優子の動作に、わずかながら緩慢さが混じっていたような気がする。だがそれは、仕事と家事を両立し、子どもたちの世話にも手を抜かず走り続けてきた彼女にとって、単なる疲労の表れだと思っていた。きっと、彼女自身もそう信じたかったのだろう。


 数日後、優子は近くの総合病院で人間ドックを受診した。生まれて初めての本格的な健診だった。一か月後に帰宅したその夜、食卓に座った優子は、いつものように夕食を作り終えた後、湯気の立つ味噌汁を前に少しだけ俯いていた。

『…精密検査が必要なんだって』

 その一言が、穏やかな日常にぽつりと落ちた石のように、静かに、だが確かに波紋を広げた。

『何か悪い所があったのか?』

 淳一は尋ねたが、優子は首を横に振るばかりで、それ以上詳しくは語ろうとしなかった。

 再び病院に足を運んだ優子が、医師から診断を受けたのは、その数日後だった。検査結果の説明を受ける日、彼女は一人で病院へ向かった。

『大丈夫だから』と穏やかに言った優子の表情が、逆に淳一の胸をざわつかせた。


 そしてその夜、病院から戻った優子の顔を見た瞬間、淳一は言葉を失った。穏やかな表情の裏に、確かな影が宿っていたからだ。

『…もう手遅れなんだって。手術も、難しいって』

 優子は、そう言って静かに目を伏せた。淳一は耳を疑いながら、彼女の傍に駆け寄った。だが、優子はすでにすべてを受け入れているように、力なく微笑んだ。

『まだ信じられない』と呟いた淳一に、

『私も。でも、どうせなら、ちゃんと向き合おうと思うの』と優子は答えた。

 その声は、決して取り乱すことなく、むしろ彼を気遣うように優しかった。

 それまで病気一つせず、家族を支え続けてきた優子が、突然病に襲われた現実を、淳一は受け止めきれなかった。何をしてやれるのか分からないまま、ただ隣で彼女の手を握ることしかできなかった。


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