第13話 散策
図書館を出ると、雨はすっかり上がり、澄んだ午後の陽光が街を優しく包んでいた。アスファルトの端にまだ残る水たまりが、雲の切れ間から差し込む光を反射してきらめいている。空気が冷たく澄み、桜の花びらの香りがほのかに漂う。淳一は、みさきと並んで歩きながら、彼女の横顔をそっと盗み見た。白いセーターに薄いグレーのマフラーが揺れ、彼女の髪が風に軽く舞っている。図書館での会話がまだ耳に残り、穏やかな余韻が胸に広がっていた。
「すっかり晴れましたね」と、みさきが顔を上げ、空を仰ぐ。
まるで雨上がりの空がすべてを洗い流したように、彼女の表情もどこか清々しく見えた。雲の切れ間から漏れる光が、彼女の瞳に小さく映り込んでいる。
「そうだな。雨の後の空気は、気持ちがいいな」と淳一は返した。
だが、その言葉を口にしながら、自分の中にある妙な違和感に気づいていた。いつもなら、誰かと並んで歩くとき、その人の足音や衣擦れの音が自然と耳に入るものだ。優子と散歩した時、彼女の小さな靴が地面を叩く音や、佳子が『お父さん、遅いよ!』と駆け出す足音が、耳に心地よかった。だが、みさきと歩いている今、彼女の歩く姿が軽やかで、濡れた舗道に自分の足音だけが重く響く気がした。
彼女の髪は日差しを受けて柔らかく輝き、春の光に溶け込むように揺れている。風が彼女のマフラーを揺らす瞬間、まるで彼女だけを避けるように流れていた。
(気のせいか…?)
淳一は心の中に一瞬生じた違和感を振り払うように、わざと軽く咳払いをしながら話を振った。
「さっきの詩集、ずいぶん気に入っていたみたいだね」
「ええ。昔から詩が好きなんです」と、みさきはそう言いながら、そっと道端の植え込みの中目をやった。
小さな白い花が、雨に濡れた葉の上で揺れている。彼女の視線がその花に留まり、柔らかな笑みが浮かんだ。
「詩は…なんというか、人の記憶と似ている気がするんです」
「記憶?」と淳一が聞き返すと、みさきは小さく頷いた。
「はい。過去のことって、はっきり思い出せる時もあれば、ぼんやりとして輪郭が曖昧なこともありますよね。でも、何かの拍子にふっと鮮やかによみがえることもある。詩も、読む人の気持ち次第で、同じ言葉が全然違う意味を持つことがあると思うんです」
その言葉を聞いて、淳一の心に優子のことがよぎった。彼女が亡くなった直後、記憶のすべてがあまりに鮮明で、どんな瞬間も生きたまま胸を締め付けた。食卓で『味噌汁、濃すぎたかしら』と微笑む姿、夜中にふと目を覚ましたとき、隣で穏やかに眠る姿。佳子が『お母さんのご飯が一番!』と笑い、琢磨が小さな手で箸を握っていた食卓。あの頃は何を見ても優子を思い出し、幸せだった家庭の記憶が現実よりも濃く感じられた。
だが、時間が経つにつれて、少しずつそれらの記憶は薄れ、霧がかかったようになっていた。みさきの言葉が、その霧をそっと揺らした気がした。
「私も、そんなふうに思うことがあるよ」と、淳一は言った。
自分の声が、どこか自分でも驚くほど穏やかだった。
「佐藤さんも?」とみさきが聞き返すと、彼は小さく頷いた。
「…ああ。不思議だよな、記憶って。大事なことほど、時々ぼやける」
みさきはふっと微笑み、小さく頷いた。
「でも、消えるわけじゃないですよね」
その言葉に、淳一は一瞬言葉を失った。
「…そうかもしれない」と呟きながら、不思議な感覚を覚えていた。
彼女の言葉は、なぜか優子の声を思い出させ、心をそっと揺らした。『大事なものは、ずっとここにあるよ』と、病室で弱々しく笑った優子の声が、頭の片隅に響いた。だが、思い出そうとすると指の隙間から零れ落ちる砂のように、はっきりとは掴めなかった。
二人はしばらく無言で歩いた。通りすがりの人が見れば、親子と間違えるかもしれない、とふと思う。道端の木々が風に揺れ、葉の間から漏れる光が地面にまだらな模様を描いている。遠くで鳥の声が小さく聞こえ、街の喧騒が遠ざかる。淳一はみさきの歩く姿を横目で見ながら、彼女の存在に不思議な安心感を覚えていた。優子とは違う、生きている温もりがそこにある気がした。だが、同時に、彼女の周りに漂う空気が、どこか現実から浮いているような感覚も拭えなかった。
しばらく歩くと、小さな公園に辿り着いた。公園に植えられた数本の桜が五分咲きで淡く揺れ、雨上がりの芝生が瑞々しく輝く。風が木々を揺らし、柔らかな葉擦れの音が響いた。古いベンチが一つ、木陰に静かに佇んでいる。
「ちょっと休みませんか?」とみさきがベンチを指さし、淳一は頷いて並んで座った。座面が冷たく、湿った感触がズボン越しに伝わる。
「ここ、好きなんです」とみさきが言った。
「この公園か?」と聞き返すと、彼女は視線を上げた。
「ええ。静かで、空が広いから」
雲の切れ間から覗く青空が、木々の枝越しに広がっている。風が彼女のマフラーを軽く揺らし、髪が頬に落ちる。彼女がそれを耳にかけ直す仕草に、どこか懐かしい穏やかさがあった。
「佐藤さんは、よくこういう場所に来ますか?」とみさきが尋ねた。
淳一は少し考え、首を振った。
「いや、最近はあまり…。昔は家族で散歩したこともあったが」
ふと、優子と佳子と歩いた日々が頭をよぎる。佳子が小さい頃、週末に手をつないで近所の公園を歩いた。優子が『佳子、走らないでね』と笑いながら追いかけ、淳一がベンチで缶コーヒーを渡した。あの頃はまだ、時間がゆっくり流れていた。琢磨が生まれた後は、彼をベビーカーに乗せて三人で歩いたこともある。優子が 『春になったら桜を見に来ようね』と言った声が、今でも耳に残っている。
「佐藤さんにとっても、大切な場所だったんですね」とみさきが言った。
「…ああ」
淳一は短く答えた。
なぜか、みさきには余計な言葉を並べる必要がない気がした。彼女の声には、押しつけがましさがない。まるで、ただそこにいて、聞いてくれるだけで十分なような。
「思い出の場所って、時間が経つと、少し違って見えませんか?」と、彼女が静かに言った。
淳一は驚いたように顔を上げた。
「…君って、時々妙に年寄りじみたことを言うな」
冗談めかして言うと、みさきはクスリと笑った。
「よく言われます」
彼女の笑顔は穏やかだったが、その奥にある何かは、やはり掴みどころがなかった。まるで、目の前にいるのに、どこか遠くにいるような。
風が木々を揺らし、葉が擦れる音が静かに響く。淳一はベンチに背を預け、空を見上げた。雲がゆっくりと動き、青空が広がっていく。
「雨の日は、どう過ごすのが好きなんだい?」と、ふと尋ねた。みさきは少し考え、
「本を読んだり、外を眺めたり…。静かな時間が好きなんです」と答えた。
「佐藤さんは?」と逆に聞かれ、淳一は苦笑した。
「最近は、ぼんやりしてるだけだな。昔は優子と…妻と一緒に、雨の日は家で何か作ったりしてた」
「何か?」とみさきが首を傾げると、淳一は思い出したように言った。
「おでんとか、シチューとか。家族で囲むと、雨の日でも温かかった」
その記憶が、胸に小さく灯る。みさきは微笑み、
「いいですね、そういう時間」と呟いた。
陽が少し傾き始めた頃、二人はゆっくりと公園を後にした。歩きながら、みさきが言った。
「今日はありがとうございました。佐藤さんとまたお話できて、楽しかったです」
「私のほうこそ。若い女性と話することも無いから、嬉しかったよ。普段、ゆっくり散歩することもないから」と、淳一は改めて答えた。彼女の言葉に、心が軽くなるのを感じていた。
「また、お会いしてもいいですか?」とみさきが尋ねた。
その言葉に、淳一の心がわずかに波立った。
「こちらこそ、私でよければ」と、気がつけばそう答えていた。
みさきは嬉しそうに微笑むと、小さく手を振って去っていった。彼女の姿が遠ざかるのを見送りながら、淳一はふと足元に目をやった。
そこには、自分の濡れた靴跡がくっきりと残っている。彼女の歩いた跡は、まるで春風のように軽やかだった。まるで、そこを歩いたことすら、最初からなかったかのように。風が吹き抜け、彼女のいた場所に桜の花びらがそっと舞い落ちる。淳一はわずかに息を呑み、空を見上げた。光は、もう西の空に傾き始めていた。
公園のベンチに残る湿った感触が、手に冷たく残っている。みさきとの時間が、優子の記憶とは違う、今ここにある、確かな温もりを与えてくれた。それでも、彼女の不思議な気配が、頭から離れなかった。淳一は小さく首を振ると、ゆっくりと家路についた。